02・笑顔の子どもたち
しとしとと降り続けた雨が止み、初夏の強い日差しが王都の朝を告げる。
公園では新緑の木々が日を浴びて輝き、雨上がりの爽やかな空気が満ちて、美しい景色が広がっていた。
だが、聞こえてくるのは鳥の声ばかりで、人の姿は見当たらない。
いつも早朝にやって来る貴族の子供たちは、ぬかるんだ地面を嫌った大人たちによって、家の中に閉じ込められているのだろう。
けれども、そんな公園にわざわざやってきた者がいた。
公爵令嬢のローズは珍しく駄々をこね、公園にやってきた。
二つ上の兄は服が汚れるからと家にいる為、自分ひとりのために乳母を連れ出すのは大変だった。
だが、今年、六歳になった彼女はいつも聞き分けよく、天使のように微笑んで皆に愛でられる存在だ。そんな日頃の行いのおかげで、彼女の珍しい我儘だからと乳母が折れてくれたのだ。
あんなに行きたいと騒いだ公園に着いたものの、ローズの足取りは徐々に重くなり、乳母の影に隠れるようにして奥へと進む。
乳母がいつもどおりベンチに腰掛けると、ローズは一人、公園内を散歩するふりをしつつ、キョロキョロと視線を動かした。
先程から心臓がうるさく、手は汗で湿っていて、何度も握ったり開いたりを繰り返している。
頭のなかでは、考えてきたセリフを何度も繰り返していた。喉のつかえを感じ、それらの言葉を早く吐き出してしまいたくてたまらないのだ。
――昨日の今日で、また、この公園に来るかしら?
昨日の泣いていた姿を思い出せば、不安に心がぐらぐら揺れる。
しかも、雨上がりで地面がぬかるむ中、わざわざやって来るだろうか? 今日、ローズが粘ったのは全て無意味だったのかもしれない。
――彼女に会えないなら、謝罪できなくても仕方がないわ。
そう思い、ほっと息をついたローズだったが、”安堵した自分”に気がついて、ぎくりとした。
心の何処かで、謝らないで済めばいいと思っている自分がいる。そう気づいたローズは狼狽え、視線をさまよわせ――森を思わせるような、鮮やかなグリーンの瞳と目が合った。
赤毛を二本の三つ編みにした少女は、肉食獣と目があったかのように硬直した。
対するローズも、ぎしりと、石のように硬直する。
二人は無言で見つめ合った。
赤毛の少女、シェリエは恐怖に立ちすくんでいた。
また、酷いことを言われるかもしれないのだ。大急ぎで背を向け、ここから走り去りたくてたまらない。それなのに身体はピクリとも動かず、目は恐怖の対象であるローズに釘付けだ。
まさに、蛇に睨まれた蛙のようだった。
対して、ローズはバクバクとうるさい心臓に負けまいと、心の中で必死に自分を鼓舞していた。
――さぁ、行きなさい! 言うのよ!
まるで初めての戦いで敵を前にした新兵のように、ローズは恐怖で硬直してしまっていた。
何度も自分を鼓舞するものの、手がいっそう強く握りしめられるばかり。ガチガチに固まった身体は、一歩を踏み出してはくれないようだ。
朝の爽やかな公園で、二人の幼い少女が石のように固まっていると、木々がざわめく音と共に少年の声が届いた。
「君たち、何をしてるの?」
不思議そうな、のんびりとした声。
その声の主に心当たりがあった二人の少女は、すごい勢いで顔を横に向けた。二人とも笑みは見せなかったものの、表情はぱっと明るくなり、どこか期待に満ちた顔をしている。
二人の想像したとおり、そこには二人と同い年ぐらいに見える、焦げ茶の髪に濃いグレーの瞳の少年が立っていた。
そしてシェリエが笑み崩れたのに対し、ローズの表情は一変して強張った。
「ハウエルッ!」
「べ、別に、私はいじわるなんて、してませんわ!」
突然の発言に、シェリエは驚いて視線をローズに向ける。昨日の地味な少年、ハウエルの方は目を瞬くと不思議そうに首を傾げた。
「別に、そんなこと思っていないけど?」
その落ち着いた、まっすぐな濃いグレーの瞳に見つめられ、ローズは言葉に詰まった。
素直に、嬉しいと思った。誤解されずに済んだとほっとして、なんだか、少し恥ずかしくて。口元が緩みそうになるのを、必死で口を引き結んで堪える。
そして、そんな顔を見られたくなくて、うつむくとポツリと呟いた。
「……なら、良いのですけど」
こほん、と一つ咳払いをし、深呼吸。そして覚悟を決め、顔をあげたローズはシェリエと向き直った。
「貴方に、用がありましたの!」
緊張から手を握りしめると、硬い声が出た。
その声の響きと、強い眼差しに怯え、シェリエは助けを求めるように、ハウエルへと視線をちらちらとやっている。
一方、ローズはそんなシェリエに気づく様子もなく、昨日から考え、練習したセリフをそのまま一気に言い放った。
「昨日のことで、謝罪しに来ましたの」
聞き間違いかと、シェリエがきょとんとする。
「勘違いしないでくださいね! 貴方が田舎者臭いのは事実で、わたくし、間違っていません。けど、ひどい言い方をしたのも事実です。だから、お詫びするわ!」
ローズは、かなり高圧的に言い切った。
――やったわ、言い切ったわ!
ローズは達成感と、ちゃんと謝罪できたことにほっとして、軽く笑みを浮かべてシェリエを見て――そして、狼狽えた。
シェリエは悲しそうな顔をし、昨日のようにうつむいていた。何度も瞬きしているのは、もしかして、泣いているのだろうか?
ローズなりに譲歩し、考えに考え抜いたセリフではあった。けれども、シェリエから見たら、どう見えるのか。
昨日、自分を馬鹿にした人間がわざわざ目の前にやってきて、謝罪をするという。
何を言うのかと思えば、上から目線で自分を馬鹿にしつつ、最後に取ってつけたように謝罪を口にする。
これでは、昨日の聞こえよがしの嫌味と変わらない。当然、シェリエは嫌味を言われ、嘲笑されたのだと思っていた。
「……田舎者、くさい」
悲しそうな、掠れるような声が呟く。連日、向けられる侮蔑に泣きそうになるのを、シェリエは必死に堪えていた。
――失敗したわ! ど、どうすれば……。
ローズはたじろぎ、助けを求めるようにハウエルへと目をやり、シェリエに視線を戻し、と繰り返す。
そして、ぐっ、と身を守るために心を武装した。
――私、わざわざ謝りに来たのに、なんで泣くのよ。そもそも、私が謝りに来る必要なんてなかったのに!
公爵令嬢の自分が、ファータテールの田舎貴族に頭を下げるなんて、屈辱的だ。
両親が見たら卒倒するに違いない。両親だって、使用人たちだって、ファータテールを馬鹿にしていた。自分は間違ってなどいないのに、なぜ、謝罪する必要があるというのか。
意地とプライドが頭をもたげ、胸の中で、ドロドロと汚い感情が熱を持って燻り始める。
――ちゃんと、謝らなくちゃ。
――ふざけないで、なんで私が!
良心が囁くたびに意地とプライドが逆撫でされ、怒りが込み上げる。
こんな自分が嫌でたまらないのに。人に優しくできる自分でいたいのに。自分の感情をコントロールできない。
「なによ、昨日も今日も、いちいち泣いて。バカみたい」
泣かせてしまった、どうしよう。
そう、焦れば焦るほど、自分を正当化しようとしてしまう。
シェリエがぐずぐずと泣き始めたが、泣きたいのはローズも同じだ。
やましい気持ちになって、そんな自分を守るため、ますます片意地を張ってしまう。自分への嫌悪感が募れば、さらに苛立って、今にも酷いことを言ってしまいそうだ。
もう、どうしたら良いのか分からない。
「こら」
突然、額に軽い衝撃がきて顔がのけぞり、頭が真っ白になる。
ローズが痛くもない額を両手で抑え、前を見れば人差し指を突き出したハウエルがいた。
どうやら指で小突かれたようで、ローズは目をぱちぱちとさせた。
「謝りに来たんだよね?」
冷静なグレーの瞳が彼女を見つめている。ローズは言葉に詰まった。
「あれは、謝っているって言わないからね?」
――うっ。
痛いところを突かれて、ローズは反抗した。
「知らないっ! 私、間違ってなんかいません!」
「間違いかどうかは知らないけれど、後悔したから、ここに来たんだよね?」
意地を張ったローズに苛立つでもなく、ハウエルが問いかける。
図星を指され、ローズは何も言えずに黙り込む。
「ほら、言いたいことがあるんだろう?」
「知らないっ!」
「……悪いことをしたら、どうするのかな?」
「っっっ!」
乳母が自分の我儘な孫を諭すときのような物言いで、ハウエルが問いかけてくる。
ローズは屈辱と悔しさに顔を赤らめて、言葉に詰まった。唇をかみしめ、宝石のような青い目をうるませて、ハウエルを睨みつける。
ハウエルはと言えば、相変わらずの落ち着いた表情で、怯みもしない。
「……わかりましたわっ! 謝ればいいのでしょう!」
――そう、彼がうるさいから謝るの。彼が口うるさいから、仕方がなく謝るのよ。
ローズは自分に言い訳をしつつ、シェリエに改めて向き直った。
「昨日はひどい物言いをしました。謝罪するわ」
結局、顔を背けて、渋々というポーズをとってしまう。
「それで、謝ってるつもりなのかな?」
「わかってますわっ! もうっ!」
ローズは顔をあげ、今度はしっかりと目を合わせる。シェリエのグリーンのくりっとした可愛らしい瞳は涙がにじみ、赤らんでいた。
目をそらすのを止めれば、自分が彼女の心を傷つけてっしまったのだという事実と、真正面から向き合うしかない。
「あ、あの。昨日は意地悪な事を言ってしまって、その、……ごめんなさい!」
胸が苦しくなって、ローズの頭は自然と下る。
シェリエには、その言葉を信じる理由は一つもないはずだ。先程までの態度だって、人に言われて嫌々、しょうがなく言った言葉だと思って当然だった。……そのはず、だったのだけれど。
シェリエを真っ直ぐに見つめた宝石のような青い瞳は、嘘も、嘲りも、苛立ちもなく、真摯さと罪悪感を湛えていた。
幼いシェリエは、その瞳に浮かぶ想いがなんなのか、しっかりと理解できたわけではなかった。ただ、直感的に嘘ではないと感じた。信じられると思った。
それに、理由はもう一つある。昨日はローズの年に見合わない完璧なマナーと仕草、人形の様に整った容姿が、自分とは違う、南部の、クロヌテールの貴族の子どもなのだと、怖くて仕方がなかった。
けれども、ハウエルの前で今日、彼女が見せた表情は違った。意地を張って、駄々をこねて。
しかも、自分に注意をする少年に権力をかざしたり、見下すわけでもなく、渋々でも注意されたことに従っている。
そんな姿なら、シェリエだって見慣れている。
ファータテールの故郷に帰れば、一族の子どもたちが、年長の子たちや大人に叱られて謝る姿、そのままだ。
なんだか可笑しくなって、シェリエはくすりと笑った。
「うん、大丈夫。ありがとう!」
先程までの悲しそうな表情が嘘のような、朗らかな笑顔を見せるシェリエに、ローズは不意をつかれた。
――昨日、ハウエルに見せてた笑顔と同じ……
信じられない思いでハウエルへと目をやると、彼も軽くうなずき、小さな笑みを浮かべてくれる。ローズは、またも予想外の反応をされて驚き、下を向いてしまった。
――ぅわ、うわぁ……。
この気持はなんだろうか。嬉しいはずなのに、なんだか恥ずかしくて、頬が赤らむ。
心は温もりを感じて緩み、フワフワと広がって、なんだか覚束ない。
先程まで意固地になって、固く縮こまっていたのが嘘のようだ。
ローズがそっと顔を上げれば、シェリエは優しく微笑んでいる。
ふと、昨日の場景が頭を過った。
傷ついたシェリエと、無表情のハウエル。
笑い合う二人と、それを外から見ている自分。――けれども、今、ローズは笑顔の二人と共にいる。
その事実に胸が熱くなり、ふにゃり、と口元が緩む。そして、そのままゆるゆると笑み崩れた。
その幸せそうで、輝くような笑顔にシェリエとハウエルは驚き、彼らもまた、胸に温もりを感じて微笑んだ。
公爵家の長女、ローズ。
伯爵家の三男、ハウエル。
北部貴族、伯爵家の長女、シェリエ。
彼らはその年の社交シーズンの間、度々、公園で一緒に過ごした。
けれども、その友情は唐突に終わりを告げることになる。
彼らはすっかり忘れていたのだ。
大人たちは、自分たちが定めたルールに反する者を、決して許しはしないということを。