16 目の前の究極選択、選べねぇ
カズヤは目の前の信じがたい光景に唇を震わせる。力なく持ち上げられたその手は何を掴むでもなく、当てもなく宙を彷徨う。
「どうなってんスか!?」
振り返ることなく、朱と対峙するシュン。その背中からは何の感情も読み取れない。
「すまない。油断したせいでレイカ君が……君は廊下の魔空間を頼むよ。急いでくれ!」
「なに言ってんの!?」
朱の言葉を遮り、刀を手に斬り込むシュン。
カズヤは混乱していた。ここへ来るまでの彼はシュンのことを疑っていた。しかし、いつもと変わらぬ聖人と呼ばれるに相応しい佇まい。啓吾の話が冗談だとしか思えなかった。
朱は三つ編みを振り解く。それらは伸び広がると、意志を持って動いた。数本ずつの束になり、シュンを突き刺そうと動き出す。
「大蛇!」
シュンの背中から具現化した八頭の大蛇。それぞれの口から純白の刀が伸び、合計九本の刃を構えた物々しい姿へ変わる。
「悪魔は頼むよ! 手遅れになる前に!」
朱の繰り出す槍のような突きを純白の斬撃がことごとく弾く。レベルⅡに達しているが、シュンの力なら対処できない相手ではない。その一方で、混乱するカズヤはその場を動けずにいた。そして彼の頭へ響く思念。
(おい。もう、てめーじゃ無理だ! 廊下で狂戦士モードに切り替えろ! 早くしねーと、あいつらが死ぬぞ!)
ようやく意識を覚醒させるカズヤ。ゼノへ命のバトンを受け渡そうと廊下を向くと。
「カズヤ君……」
室内から漏れた微かな声に、咄嗟に振り向くカズヤ。そこには、救いを求めるように彼を見つめるレイカの眼差しが。
「行かないで……」
倒れても尚、何かを掴もうと伸ばされた右手。そこにあるのは希望か、絶望か。
(カズヤ。今は悪魔が優先だ!)
ゼノの声が響き、究極の選択がのしかかる。
★★★
「明けの明星!」
リョウが右手を突き出すと、目の前に立つ狼の悪魔は金色の球体に包まれた。
「あの技か……」
廊下の奥で、黒豹のシーナと共に戦況を眺めていた虎のティガがつぶやく。
彼は既に一同から興味を失い、残務処理を押しつけるように狼のウォルフィンを差し向けた。今はただ傍観へ徹するのみ。
右手を握り絞めるリョウ。直後、球体内部へスーパー・ローテーションと呼ばれる竜巻のごとき強風が発生。狼の動きを封じると、タイガとクレアが続く。
タイガは手甲を纏った拳を振るう。クレアは双剣を構え、空霊術を纏い跳躍。
「朱雀!」
タイガの右拳が敵の腹部を直撃。紅蓮の炎に焼かれた悪魔が球体の奥へ後ずさる。
「螺旋円舞、轟雷!」
雷の中位霊術を纏ったクレア。紫の渦と化し、悪魔の背中を激しく切り付けた。
「ひぎいぃぃぃっ!」
情けない悲鳴を上げた悪魔は、地を蹴り紫の渦から距離を取る。次いでモノクロの壁を蹴り、瞬く間に三人を引き離しながら、怒りに満ちた赤眼で彼等を睨んだ。
「あの二人の前でここまでされちゃあ、オイラも立場がないんでね。全力で行きやすぜ」
地を這うように床へ両手をつく悪魔。リョウが右手を突き出した時には、狼の体を黒い気体が包んでいた。
「餓狼群!」
狼の悪魔を包んでいた気体が散り、左右へ二体ずつの複製が具現化。五体の狼は目の前の獲物へ向かい一斉に身構えた。
「餓狼閃!」
悪魔は全てを切り裂くように腕を大きく広げた。前衛の三体が廊下目一杯に広がり、後方にも二体。驚異的な速度で三人へ迫った。
クレアも空霊術を纏い突進。タイガは霊力壁、玄武を展開し防御。ただ一人、攻撃を仕掛けようと身構えたリョウの反応が遅れた。
「螺旋円舞、業火!」
クレアは後方二体のどちらかが本体だと見当を付け、回転連撃で応戦。
一体の胸元を斬り付けると、負け犬のような情けない悲鳴を上げ黒い気体となって霧散。ハズレを掴まされ苦い顔をしたクレアが、着地と同時に取り逃した四体を振り返る。
「そんな……」
そこには目を覆いたくなる光景が。霊力壁を展開したタイガは無傷。その壁を打ち崩そうと一体の狼が闇雲に爪を振り乱している。
一方、リョウの周囲を三体の狼が取り囲んでいた。折り畳まれる寸前の漆黒の翼。その間を縫うように狼の腕が差し込まれている。まさしく、獲物に群がる狼の本能を再現したおぞましい光景に、身震いするクレア。
彼女の目の前でリョウの体が倒れる。三体の狼はクレアを振り返り、次の獲物と見据え気味の悪い笑みを漏らした。
肩で大きく息をするクレア。疲労が込み上げ、立っているのも辛いほどだ。カズヤが外している間に携帯用の酸素を補給したものの、回復は追い付かず活動限界が迫っていた。
「絶対に生きて帰る……」
防戦に追い込まれたタイガは期待できない。リョウには迅速な手当が必要。自分が何とかするしかないと、気力を振るい短剣を構えた。
その戦いを遠目に見ながら、黒豹が思い出したように声を上げる。
「そう言えば、取り逃がしたのが二人いたね。朱だっけ? 様子を見てくるよ」
黒豹が魔空間へ解けると同時に、三体の狼がクレアを目掛け一斉に飛び掛かる。
「氷の攻霊術。氷結!」
クレアは眼前の床へ術を発動。天井へ氷柱が伸び、襲い来る一体の胸元を貫いた。だが、黒い気体となって霧散したそれも複製だった。
「残念。またまた、ハズレですぜ」
左から襲う一体。繰り出された鋭利な爪を短剣で受け止める。直後、右から迫った一体が、駆け抜け様に彼女の脇腹を切り裂いた。
「あぐぅっ!」
痛みで集中が揺らいだクレア。左から襲っていた本体が繰り出す連続攻撃が、腕や肩、胸元を立て続けに切り付けた。
もはや一方的な展開。弱った子鹿を追い詰めるように二体の狼が彼女を挟み、両手の爪をせわしなく振るう。双剣で応戦するクレアだが、裁くより体に受ける数が圧倒的に多い。
息を切らし、足下もおぼつかないクレア。彼女が死を覚悟した時、横手から迫った炎の鳥が狼の一体を弾き飛ばしたのだった。
「大丈夫か!?」
タイガが慌てて駆け寄ってくる。しかし、その背後には複製狼が。彼女を助けようと焦る余り、仕留め損なったのだ。
「タイガさん、後ろ!」
その隙を見逃す悪魔ではない。クレアを襲う本体と、タイガの背後にいた複製が、手元から霊力球を同時放出。霊力壁を展開中だった彼の顔と背中を直撃した。
「がっ……」
膝を付き、うつ伏せに崩れるタイガ。それを遠巻きに眺めていた虎の悪魔が、怪訝そうに顔をしかめた。するとそれは次第に、歓喜と狂気の笑みに染まってゆく。
タイガの姿に言葉を失ったクレアを、殺戮に飢えた三体の狼が取り囲んだ。
「ここまでですぜ。命乞いでもしやすか? ティガ兄さんの機嫌が良ければ、命くらいは助かるかもしれやせんぜ」
「誰がそんなこと!」
傷ついた体で双剣を構えるも、ここから起死回生を起こす手段など持ち合わせていない。
「じゃあ、これにて終了ですぜ」
「てめーがな」
横手に位置する家庭科室の扉が砕け、霊力球が飛び出した。それが狼の悪魔を直撃し、押し潰すようにモノクロの壁へ激突。
「カズヤさん?」
それは夢か幻か。朦朧としたクレアの瞳が、廊下へ歩み出してくる愛しい少年の姿を捕らえた。だが、複製狼二体が彼へ迫っている。
「随分と躾のなってねー、バカ犬だな」
“右手”に握られた剣の一閃が、襲い来る二体をまとめて切り伏せた。悲鳴を上げる間もなく、二体は黒い煙となって霧散する。
「わりぃ。遅くなった……」
敵から視線は外さずに、そっとつぶやく。
「もぅ……カッコ良過ぎですよ……」
安堵の顔で崩れたクレアを左腕で抱き留め、眼前から睨んでくる狼へ剣先を向けた。
「さてと。こいつらを随分と可愛がってくれたみてーだな。礼は弾むぜ」
言い終わると同時に振るわれた一閃。狼の左腕は肘から切断され床へと落ちた。
「ぎいぃぃぃ!」
「大げさなヤツだな。弱い犬ほど良く吼えるってか? あんたみてーだな」
少年は飛び退いた狼など見ていない。廊下の奥へ佇む虎の悪魔を見据えている。
「おい。決着を付けよーぜ」
薄ら笑いを浮かべつつ、左腕に抱えていたクレアの体を床へ横たえる。
「あんたの相手は俺ですぜ」
狼は右手を床について身構えた。
「餓狼閃!」
右手の爪を構え加速する悪魔。
「下位悪魔は失せろ」
振り下ろした剣の軌跡に沿って放たれた三日月の霊力刃。加速の勢いと相まって狼の体が綺麗に分断。少年の元へ届いたのは斬撃でなく、存在の名残となった黒い気体のみ。
「お望み通り、狂戦士がてめーを消しに来てやったんだぜ。もっと喜べよ」
歓喜と狂気の笑みを崩さぬまま、虎の悪魔はゆっくりと少年へ歩み寄る。
「そうだな。ようやく楽しめそうだ……」
悪魔の右手から一抱えもある霊力球が矢継ぎ早に放たれた。それは目の前の少年ではなく、右手の家庭科室を粉々に打ち砕いてゆく。
爆破ゲームでも見せられているように壁が崩れ、室内にあったはずの教壇や実習机までもが弾け飛ぶ。壁と床だけを残した空間が出来上がると同時に、周囲へ漆黒の壁がせり上がり、クレアやタイガを置き去りにしたまま、二人の戦士だけを閉じ込めた。
「これだけの広さがあれば充分か?」
「てめーの墓場としては、ジャスト・サイズってところだろーな。それとも、見世物小屋でも作ってやろーか?」
「ほざけ、小僧が」
一触即発の空気が魔空間へ満ちる。




