10 歯車が今日も社会を動かして
搬送された父と面会するため、母と共に病院へ。アニキは家庭教師のバイトが重なってしまい、どうしても外せないらしい。後で顔を出すというので問題はないだろうが。
それにしても、まさかこんな形で再びこの病院へやってくる羽目になるなんて。
悪霊や悪魔の動きが活発になるのは日没からだ。休眠状態の日中ならば襲われる心配はほぼ無い。本来ならその間を狙って奇襲を仕掛ければいいのだが、霊力の補足ができないというジレンマに悩まされているらしい。
そして、父の診断結果は過労。数日の安静が必要だが、ここに入院させておくのは問題だ。転院させたいが簡単にいくはずもない。今晩、セイギが解決してくれるだろうか。
ベッドの脇に置かれたパイプ椅子へ腰掛けながら、入院用具を設置する母の姿が映る。
五階の病室。適温に保たれた室内へ、肌を焼くような夏の日差しが入り込む。窓の外には田舎を主張するような田園風景。それを見ていると暑さも軽減される気がする。
大自然に癒されていると、不意に現実へ引き戻すバイブ音。父の携帯電話だ。というより、院内では禁止だろうに。
「なんで電源が入ってんの!?」
父は罰が悪そうに顔をしかめる。
「急なことで、仕事の引き継ぎやら連絡が色々とあるんだ。落ち着いたら切る」
声を潜めて弁解する父と、笑みをこぼす母。
「和也。大目に見てあげて。それにしてもお父さん、随分と慕われているわね。会社に電話したら、それはもう大騒ぎ」
「あいつら大げさなんだ。メールが何通も来ているんだが、俺を心配する暇があるなら仕事をしろというんだ。まったく……」
「まぁ。照れちゃって。入院してまで仕事の心配なんて、課長って大変なのね」
課長。そういえば父の役職を気にしたことなど無かった気がする。家で小言を言ってくるだけの鬱陶しい存在。そんな父にも立派な肩書きが存在している。
お父様はその会社でとても必要とされている人材なのかもしれないわよ、という朝霧母の言葉が過ぎる。肩書きからも分かる通り、必要な存在と考えて間違いない。
父という一つの歯車が会社を支え、果ては社会を動かすことに繋がっている。退屈に感じていた現実社会も、その歯車がうまく機能しているからこそ、俺たちは平凡な日常を営むことができるんだ。
俺が具現者として戦うことが、仲間やこの街を救うことに繋がる。仕事も同じじゃないだろうか。社会という戦いの場があり、父は俺たち家族とその生活を守るために戦っている。そこに何の差もない。
父の入院を通して、俺は大切なことに気付かされたんじゃないだろうか。
「あら! 歯ブラシ忘れちゃったわ」
「俺、下の売店で買ってくるよ」
なんだか自分が小さな人間に思え、急に気恥ずかしくなり慌てて病室を出た。
父に対して抱いていたわだかまり。それは氷山のようにそびえていたが、徐々に融解していくような清々しさを感じる。
意気揚々と歩いていた所へ、廊下の端に佇む車椅子の女性が目に付いた。
若干大人びているようにも見えるが、年は同じくらいだろう。長い髪を後ろでまとめ、ピンクのパジャマを着ている。
十代での入院生活。しかも車椅子。何か重い病気かもしれないが、さぞかし退屈だろうと余計なことを考えていた時だ。
真っ直ぐに伸びる廊下の先から、凄まじい形相をした金髪の男が走ってきた。情けない悲鳴を上げ、見えない何かから逃げるように一心不乱に向かってくる。
気付けば、男へ向かって咄嗟に走っていた。このままだと車椅子の彼女に激突する。
驚きに硬直した女性の横を抜け、金髪男の腹部へタックルを仕掛けた。
激突した左肩から首へ鋭い痛みが走る。弾かれた拍子に、床へ尻餅を付いて倒れていた。
さすがに見よう見まねのタックルは無茶だった。痛む首を押さえて顔を上げると、金髪男が立ち上がった所だった。
鼻と唇にピアス。淀み濁った瞳で忌々しげに俺を睨んでいたが、何かを思い出したように背後を振り返った。
もつれる足で慌てて立ち上がり、視界の端にある階段へ一目散に駆けてゆく。
男の姿が見えなくなると同時に、安堵の息が漏れた。極度の緊張で呼吸をするのも忘れていたらしい。
見覚えのある顔。確か、この辺りで有名な不良グループのリーダーだ。もうすぐ二十歳になるというのに定職にも就かず、万引き、恐喝、暴行。ろくな噂を聞いたことがない。
遅れてやってきた男性介護士が、金髪男を追って階段へ消えてゆく。
とんでもない奴にタックルしてしまった。後で報復されませんように。
「大丈夫ですか? ケガ、ありませんか?」
高原を抜ける風のような心地よい声が、そんな不安を瞬時に吹っ飛ばした。
首を押さえたまま振り向くと、車椅子の女性が心配そうに覗き込んでくる。
前屈みになっているせいで、胸の谷間とそれを包む薄黄色のブラが視界に入り込む。これはきっと、神様がくれた報酬に違いない。
「ごめんなさい。私のせいですよね? 庇ってくれてありがとうございます」
何度も頭を下げるため、彼女の顔と谷間を交互に眺める展開。悪くない。
「そんなにかしこまらないでください」
慌てて立ち上がり、何事もなかったように振る舞う。首が痛いなどと言ったら余計に心配させてしまうだろう。
「お嬢さん、気を付けてください。彼は、爽やかさという仮面を被った狼ですから」
「それを言うなら羊の皮っしょ?」
聞き覚えのある声に思わず硬直する。
「なんでおまえらがここにいるんだよ?」
いつの間にかそこには、啓吾と悠の姿があった。どこから沸いてきた。
「光栄新聞の取材。そして天使を激写! 水着もいいけど白衣もね!」
「啓吾。今、どさくさに紛れて彼女の写真まで撮っただろ? データを消せ!」
「見逃して! 車椅子の美少女。被写体として申し分ないんだよ」
「悠。啓吾のカメラ奪ってくれ」
「あの。私は構いませんから。それより、こんな所で騒ぐと迷惑ですよ」
前後から挟み撃ちにして、頭上へ持ち上げられたカメラへ手を伸ばす俺。そのポーズのまま固まってしまった。
「そうですね……すみません」
妄想大王のせいで、俺が悪者になった気分だ。後で絶対に仕返ししてやる。
「それにしても、皆さん光栄高校の生徒さんなんですか? 学年は?」
「二年っスけど?」
「私の方が一つお姉さんですね。弟の、まーくんと学校と学年も同じだわ」
「そうなんスか?」
早々に立ち去ろうと思っていたら、意外な所に食い付かれてしまった。
彼女は辺りを見回し、奥にある給湯室へ視線を投げた。
「まーくん! いるんでしょ?」
呼びかけに応じたのは、大輪の花が生けられた花瓶を手にした男。野球帽を目深に被り、Tシャツとブラック・ジーンズという姿。
足早にやってくると彼女の横へ立ち、つぶやくような小声を上げる。
「人前で、まーくんって呼ぶな」
「いいでしょ、別に。危ない所を助けて頂いたの。まーくんからもお礼を言って」
「なんで俺が?」
文句を言う弟が、姉に小突かれている。
確かに弟からすれば、突然に呼び出された挙げ句、初対面の俺に礼を言うとんでもない展開。でも、お礼は既に頂きました。
「どうも……ありがとうございました」
黒の野球帽を取り、短髪頭を丸出しにしてお辞儀する弟。すかさずお辞儀を返したものの何だか可哀想になってきた。
「まーくん、友達が少ないので、学校で見かけたら仲良くしてあげてください」
「えぇ。分かりました」
「姉貴。もう行こう」
弟は帽子を被り直し、軽く会釈をすると姉の車椅子を押して去って行った。
不思議な時間が流れていたが、横に立つ二人を見て、現実へ引き戻された。
「で、どういうことか説明して貰おうか? 妄想大王と下僕がなぜここに?」
「下僕はないっしょ。カズが捕まらないっていうから取材を手伝ってるのに……」
爽やかさを振りまいて笑うスポーツマンの悠。白い歯と日に焼けた肌の明暗が凄い。
「取材って、なんの?」
「夏休み明けに貼り出す光栄新聞の特大号。女生徒の失踪事件と合わせて、もう一つ大きなネタが見付かったから」
「ネタって何だよ?」
啓吾は口元を歪ませ、意地悪く笑う。
「知りたい? 知りたい?」
「別に……」
イラっときたので取りあえずかわしてみた。押してもダメなら引いてみろ。
「えぇっ!? 聞いてよ! 一昨日の夜、ゲームセンターで事件があったんだ」
「ゲームセンターって、俺たちがたまに学校帰りに寄ってるあそこか?」
駅前の裏通りにある寂れた建物。老夫婦が自宅の一階を改築して細々と経営している店には数台の筐体とメダルゲームが置かれ、片隅で販売する駄菓子が何気に人気だ。
「あそこで何があるっていうんだよ?」
啓吾は人目を気にしてか辺りを伺う。
「六人組の不良グループいるよね? どうやら仲間割れしたらしいんだけど、殺人事件にまで発展しちゃったんだって」
「殺人!?」
大声を上げてしまい、慌てて口をつぐんだ。
「唯一の生き残りが、リーダーの黒川だって。警察は重要参考人として調べたいんだけど、錯乱していて話せる状態じゃないみたい」
さっきぶつかった男がまさに本人だ。何かから逃げるように取り乱していたが。
「鎮静剤が切れると逃げ出すみたい。白黒の部屋が怖い、あいつが来るって叫びながら暴れ出すんだって……」
「白黒の部屋? あいつが来る?」
なぞなぞのような片言の断片をなぞっても答えなど出るはずもない。でもそれが後々、自分の首を絞めることになるなんて。




