08 惨 敗
あの声は、単なる空耳だろうか。
直後、手首の通信機から男性オペレーターの声が漏れた。
『カズヤ、サヤカ共にMIND0表示! 戦闘不能です!!』
『セイギはまだ!? 大至急、連絡!』
セレナさんの声が続く。あまりの急展開に通信を切り忘れているんだろう。
女は、朝霧の全身を捕らえるように目を見開き、口端をつり上げ微笑んだ。
「これで残るは、おまえ一人……」
完全に対象外。悔しさを通り越し、怒りに歯噛みしてしまう。
久城のように両腕を踏ん張りながら、どうにか上体を持ち上げた。立ち上がるほどの気力は戻らないが膝を引き戻し、立ち膝の体制で体を起こした。
ただ、女の視線に異様なものを感じる。朝霧の頭からつま先を舐めるように追い、殺意というより獲物を見定めるハンターに近く、言いようのない不快感がする。
本人も相手の不審な態度に痺れを切らし、装飾銃の銃口を向けた。
「さぁ、観念しなさい!」
一触即発の空気が満ち、辺りは不気味なほど静まり返っている。
その沈黙を破る朝霧の一撃。銃口から、ピンポン玉ほどの霊力弾が吹っ飛ぶ。
あの大きさなら命中率も飛躍的に上昇する。しかも、具現化された武器は驚くほど軽い。あいつでも操いは容易だろう。
だが、女はそれを読んでいたように、既にその場から消えている。
朝霧は素早くしゃがみ、銃を持っていない左手を地面へついた。
「ローズ・スプレッド!!」
地面から立ち上った青白い光がその体を包み込んだ。バラのつぼみの形へ変わると、二メートルほどの高さへ伸び上がる。
直後、花が開くように、つぼみ型の光は360度へ展開。衝撃波となってほとばしり、女のうめき声が上がった。
暗闇に紛れていた敵は、駐車場に敷き詰められた小石の上を激しく転がる。
「すげぇ……」
朝霧の戦闘センスもそうだが、一番は霊撃能力だろう。360度に渡っての攻撃は攻防一体と化した理想的な能力だ。
すっくと立ち上がり、切れ長の目で女を睨むその姿は、まさしく戦乙女と呼ぶに相応しい。街灯のほの暗い明かりの下においても悠然と輝いて見えた。
「さぁ。成仏して、霊界へ去りなさい!」
銃口を向ける朝霧を睨み、女は両腕の反動だけで素早く身を起こした。
「腕は立つようだが、まだ未熟だな……」
「なんですって!?」
怒りを露わに、銃口を女へ向けると引き金を引いた。
しかし、敵は上体を捻って弾丸を避け、素早く暗闇へ紛れ込む。
二度目にして気付いたが、朝霧の弾丸はその大きさのせいで、見切られやすいという欠点も秘めているようだ。
「もうっ!」
再び地面へ手をつくが、先程と同じ行動パターンに言いしれぬ不安が過ぎる。
「ローズ・スプレッド!!」
再び青白い光が伸び上がった。
しかし、再度拡散した光は敵の姿を捕らえることなく、有効範囲を超えて消滅。
「えっ!?」
想定外の事態に狼狽した朝霧は、落ち尽きなく周囲を見回している。
「ミナちゃん! 上!」
久城の言葉も既に手遅れ。女は驚異的な跳躍力で衝撃波を飛び退け、頭上から朝霧へ襲いかかったのだ。
「きゃあっ!」
反撃の間もなく朝霧は押し倒された。
女はあいつの上半身を両腕ごとまたぎ、自らの太ももで強引に挟み込んだ。更に両足を絡め、細い両腕の動きまで封じる。
これではいくら銃を持っていようと、それを向けることはできない。先程の衝撃波にしろ、おそらく手を突いた位置から発動する攻撃だ。自分と同じ位置にいる相手には役に立たないだろう。
「久城。あいつの三つ目の能力は!?」
「ダメだよ! ミナちゃんの三つ目の能力は、銃を媒介にしてるんだよ……」
何もできない歯がゆさに拳をきつく握っていた。先程受けた光の影響で視界が激しく揺れ、思うように動けない。
この位置からは戦いの様子が真横に見える。朝霧は、女の体から逃れようと必死にもがくが、その拘束は外れない。
すると女は朝霧の胸部へゆっくりと両手を這わせ、豊かに膨らむ二つのそれをブラウスの上から鷲掴みにしたのだ。
「ちょっ! なんなのよ!?」
驚きに目を見開き、相手の不可解な行動に激しくもがいている。
「あぁ……」
女はうっとりとしたような瞳と恍惚の笑みをたたえ空を仰ぐ。
何かの儀式でも見せられているようで、相手の不気味さに鳥肌が立ってきた。
「離してっ!」
暴れる姿を楽しむように女は微笑む。その指先が十本の蛇のように明確な意志を持ってしなり、その動きに合わせて柔らかそうな朝霧の胸が形を変えてゆく。
指先は名残惜しそうに胸元を離れ、鎖骨から顎のラインをなぞってゆっくりとはい上がり、両頬を包み込んで固定する。
直後、空を仰いでいた女の頭が糸を切ったように垂れ下がり、眼下に横たわる朝霧を飛びかからんばかりに覗き込んだ。
恐怖を帯びた声にならない悲鳴に、こちらまでいたたまれなくなる。
女の長い髪が朝霧の顔に降りかかり、モデル並と言われている端正な顔が嫌悪と恐怖に染まってゆく。
「私より美しい者など存在しない。憎らしいほどに均整のとれた体……決めた。この体を捨て、おまえの体を貰うぞ」
ようやくハッキリと分かった。感じていた不快感の正体は妬みだ。この女は、朝霧の容姿に嫉妬しているんだ。
そのまま、朝霧の喉を両手で締め付け始めた。呼吸手段を奪われた桜色の唇が、金魚のように慌ただしく開閉する。
セレナさんの情報では、気絶や睡眠中などの無防備な状態を狙って悪霊が憑依すると言っていたはずだ。朝霧が失神するのを狙っているんだろうが、下手をすれば命が危ない。
自分自身に対して怒りが込み上げる。仲間であり、女性である朝霧を助けることもできない。俺の力はこれほどに半端で、俺の決意はこれほどに弱々しいのか。
そんなはずはない。たとえ霊力が尽きてもできることがあるはずだ。脳をフル回転させると、ある事実に突き当たった。
女は憑依された普通の人間だ。霊力は関係ない。だが、めまいの収まらないこの状態で、あの驚異的な能力と渡り合えるのかという不安もある。
考えるより行動あるのみだ。
両腕と両足にありったけの力を込めると立ち上がることだけはできた。視界は激しく揺れているが気にしていられない。
「おい! 俺が相手だ……」
目一杯の虚勢を張って言い放つ。
要は、女を朝霧から引き離せばいい。後はあいつが何とかしてくれるだろう。
すると女は顔を上げ、うっとうしいと言わんばかりに俺を睨み返してきた。
「ほう。立ち上がる気力があるとはな。だが、出しゃばりは早死にするぞ……」
「上等だ……かかってこいよ!」
俺の体。頼むから、あの女のところまで動いてくれ。
もう一度足へ力を込め、どうにか走ろうと踏ん張った時だ。女は目を見開き、信じられないといったような驚愕の表情を浮かべた。
「まさか……」
女の視線は目の前の俺を完全に無視して、駅の方角を見ている。
戦闘に必死だった俺も、その時になってようやく気付いた。女が見ている方向に霊力を感じる。力の主までは特定できないが、何者かの気配を確かに感じる。
「オタクが来たのか?」
「セイギ君の霊力とは違う。これはもっと禍々しい感じがするよ……」
久城の言葉が不安を増幅させる。
現れるならオタクであって欲しい。あいつでなければ誰だ。不意に、新手という最悪の展開が頭を過ぎる。この状況で二人を相手にするなんて不可能だ。
「もう一息というところで……」
女は悔しげに吐き捨て、下になっている朝霧の顔を名残惜しそうに見下ろす。
「次に会った時こそ、この体を頂くぞ」
女は軽い身のこなしで離れると、駐車されていた乗用車の上へ素早く駆け上がった。その直後、闇へ溶けるように消え失せる。
「逃げずに勝負しなさいよ!!」
怒声と共に放たれた弾丸が行き場を失い虚しく空を切った。気が付けば、先程感じた霊力も消えている。
何が起こったのかは分からないが、とりあえず助かったらしい。だが、俺の初戦は惨敗という形であっけなく幕を降ろしたのだった。