07 信号弾。傍観なんてできねぇよ
頬を撫でる風が気持ちいい。
地上へ出て新鮮な空気に触れた途端、清々しい気分になると同時に生きている心地がした。アジトのような適温の場所もいいが、やはり自然が一番だ。
日没を迎え、辺りは夕闇に覆われている。蒸し暑さも和らぎ快適な気温だ。
頭痛が嘘のように去った後、結局、基礎トレーニングと言う名の戦闘訓練が。
「ほんっとに疲れた……」
ベッドがあったら倒れ込みたい程の疲れを抱え、体を引きずるように駅へ向かった。わずか十五分程の道のりも、こんな時には恨めしいほど遠い。しかも、腰へ括り付けた黒いポーチが鉛のように重く感じる。中には活動に必要な道具が入っているらしい。
おまけに腕時計型の通信機を強制的に填めさせられたが、手首を締めつけられる感触が嫌いな俺にとっては邪魔以外の何物でもない。
田畑の点在する寂しい道を進む。人気もなく陰気な気配すら漂う光景全てが、ジュラマ・ガザードという悪魔の王が放つ力のせいに思えて。駅前ですら、さびれた商店街が申し訳なさそうに軒を連ねている程度の町だ。
「着いたぁ……」
ようやく駅前通りを目にして、うれしさのあまり涙が込み上げそうになった。大げさかもしれないが、砂漠のど真ん中でオアシスを見つけた探検隊の気分だ。
その時、不意に背筋を悪寒が伝う。今までの経験上、疑いようのないこの感覚。霊気だ。
「まさか、悪霊か!?」
イヤな予感が的中し、正解を祝うように夜空へ発光体が飛んだ。花火のようなそれは、一人ずつ渡されている信号弾だ。
『駅前駐車場にて信号弾の発信を確認。各自へ座標を送信。至急確認して現場へ急行して。現場にはミナとサヤカの二名及び、一つの霊力反応を確認。加えて、サヤカのMINDが0表示により、戦闘不能と断定』
通信機から漏れてきたのは、セレナさんの声だ。用件だけを迅速に伝え、一方的に途絶えたその内容に耳を疑った。
今、確かにサヤカが戦闘不能と言っていた。まさか、久城が死んだのか?
慌てて通信機のスイッチを押した。
「教えてくれ! 久城は無事か!?」
焦る余り、大声で怒鳴ってしまった。
『その声はカズヤ!? あなたは待機。まだ実戦は早すぎるわ!』
慌てたセレナさんの声が返ってくる。
「久城は無事なのかって聞いてんだ!」
『無事よ。セイギを現場へ向かわせているから安心して』
通信機のスイッチを切り、心を落ち着かせようと大きく息を吐いた。
あいつが霊力を使い果たすほどの相手。俺が行った所で充分な助けになるとは思えないが、傍観を決め込むなんて出来ない。
通信機に並んだボタンの一つを押す。ここで座標を示す地図が見られるはずだ。
すると、中央のディスプレイから立体地図が浮き上がった。まるでミニチュアのように、周辺の街並みが再現されている。
「すげぇ……」
立体地図の中で一カ所、蛍のように淡い光を点す場所があった。ここからそれほど遠くない。駅の裏通りを示すその位置は。
「あそこか!?」
通学用のリュックを背負い直し、慌てて駆けだした。心の中は恐怖という悪魔に蝕まれてゆくが、絶対に負けられない。
走りながらポーチを開け、チューインガム似の細長い青色の小板を取り出した。
結界板と呼ばれるそれは、折ると特殊なガスが発生する。そのガスは付近から一般人を遠ざけ防音効果を生む。有効範囲が周囲数百メートルのため、現場で直接使うしかないというのが難点だが。
駅前へ近付くにつれ、徐々に悪寒が強くなる。霊気の出所が近い。
『カズヤ、戻りなさい!』
通信機からセレナさんの声が聞こえる。だが、従う気など毛頭ない。
駅を横目に見やり、線路沿いに走り続けたその先へ、開けた駐車場が見えた。そこは昨晩、あのOLに出会った場所。頼りない街灯の下に動く、いくつかの影が視界へ飛び込んだ。
「見付けた!」
結界板はわずかに力を加えると、澄んだ音を立てて二つに折れた。それを乱暴に投げ捨て、リュックを地面へ放り投げる。
「やっぱり、あいつか……」
息苦しさも忘れ、言葉を失った。
街灯の下に久城が倒れ、目の前では、朝霧がスーツ姿の女と対峙している。昨晩、俺が襲われ、二人が取り逃がしたあのOLが。
朝霧は、駆けつけたのが俺だと気付いて驚いているが、すぐに女へ向き直った。
「彼女は悪霊に取り憑かれているわ! 妙な光で、サヤカが霊力を奪われたの!」
その手には、昨晩にも見た銀色の装飾銃が握られている。どうやらあれが、朝霧のメイン武器ということか。久城は確か、身長を超えるほどの巨大十字架を持っていたはず。
その久城はグッタリしているものの、起き上がろうと両腕を踏ん張っている。見る限り、体に力が入らず足掻いているようだ。
そしてスーツ姿の女へ視線を移すと、狂気を宿した瞳と目が合ってしまった。
「また、ジャマが入ったか……」
女とは思えない低くおぞましい声と、身震いするほどの威圧感。獰猛な獣を思わせる鋭い目つきから、全てを破壊しそうな凄まじい憎悪を感じる。昨晩の恐怖が蘇る。
唯一の防衛方法として、慌てて視線を逸らした。これが本物の迫力。目が合っただけなのに、金縛りのように動くことができない。恐怖で両足が震えている。
「ぼさっとしないで! 構えるのよ!!」
朝霧の叱責で、ようやく自分を取り戻した。
「くそっ! ゴースト・イレイザー!」
指輪から具現化された剣を両手で握りしめ、それを正眼に構えた。
今更ながら、調子に乗って剣などという接近戦用の武器を選んだことを後悔していた。相手を間近に見る恐怖。更にその相手へ攻撃を加えるのだ。人を、悪霊を切る感触というのはどんなものなのか。
両手が小刻みに震えている。こんな醜態を敵に見破られれば、付け入る隙を与えているも同然だ。ムリをしてでも手慣れた戦士の風貌を装うことに決めた。
唾を飲み下し、胸の中にわだかまる恐怖までも押し流したつもりで、一つ深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
女の顔を睨み返そうと視線を向けた時、上体を起こした久城と目が合った。
「ミナちゃんを助けてあげて……」
人の気も知らず勝手なものだ。こうなればヤケクソだ。アジトでの訓練を思い出し、全てをぶつけるしかない。
覚悟を決めて、一歩を踏み出したその瞬間だった。頭を両側から締め付けるような激しい頭痛。体はスイッチを切ったように、全ての動作を拒絶していた。
更に追い打ちをかけるような二度目の激痛で、視界が激しく歪んだ。まるで、目の前に置いた写真を思い切りねじったように。
立ちくらみに耐えきれず、その場へ四つん這いに崩れ落ちていた。
これはあの女の攻撃か? なにが起こっているのか分からない。
額から脂汗が伝い落ち、地面に吸い込まれた。その汗に混じって、自分の生命力までもがこぼれ落ちているかのようだ。だが、それを拾い集める気力も術もない。
激痛の刃をかいくぐり、どうにかしてわずかな空気を肺へと送り込む。それだけが、今できる唯一の生命維持活動だった。
「ちょっと! どうしたのよ!?」
遥か遠くに朝霧の怒声が聞こえる。
気持ちと裏腹に、体はまるで言うことを聞かず、激痛は止むことなく続いている。
「敵の攻撃がくるわよ!」
朝霧の声でどうにか顔を上げると、女の右手へ強烈な光が煌めく。車のライトのようなまぶしさに視界を奪われ、慌てて目を背ける。
「なんだ?」
全ての力が失われ、四つん這いの体を支えていた両腕が折れ曲がる。顔から地面に激突し、頬を思い切り打ち付けた。
まるで糸の切れたマリオネットのように地面へ横たわり、目の前で起こったその光景にどうにか声だけを発した。
「剣が……」
視界の端に寂しく放置されていたゴースト・イレイザーは半透明になっていき、すぐさま完全に消滅した。
「おまえの霊力も頂いたぞ」
低く不気味な声が嘲るように響き、悔しさに唇を噛みしめた。
情けない。何も出来ないまま、敵の攻撃に霊力を奪い取られるなんて。
その時、頭痛の痛みをかいくぐるように何かが聞こえた。
「なんなんだ?」
確かにそれを聞いたんだ。
“ケッ! なっさけねぇなぁ”という、失望と呆れを含んだような男の声を。
それと引き替えるように、頭痛は再び嘘のように引いていったのだった。