20 朝が来た。新たな始まり告げるため
耳障りな物音で目が覚めた。見覚えのない景色に焦ったが、よくよく考えたら、ここは朝霧の自宅だ。
隣には、既に制服へ着替えた朝霧の姿。昨晩、カルトさんの持ってきてくれた食事の残りをテーブルへ並べている。
「おはよう」
朝霧は真っ赤に染まった顔で、はにかむように微笑んできた。
その光景に心臓を鷲掴みにされた。ファーストフード店でも、これほどのスマイルをいただくのは困難だろう。
吹っ切れたような晴れやかなその笑顔に、胸の動悸が収まらない。
「どうしたの?」
「いや。おはよう……」
タオルを借りて洗面所で顔を洗う。水をすくうために差し出した両手を見て、不意に昨晩の光景が脳裏に蘇った。
頭の中は真っ白だったが、唇と手の平には確かな感触が残っている。勢いとはいえ、とんでもないことをしてしまった。
脳内が痺れるような口づけと、手の平へ収まりきらない柔らかな膨らみ。きっと、しばらくは忘れられそうにない。
冷たい水で気分を引き締める。先輩を完全にあきらめない限り、朝霧の心へこれ以上、不用意に入り込むことはできない。
昨日着ていた私服に着替えて居間へ戻ると、朝食の用意が完了していた。
「アイスコーヒーで良かったわよね?」
「え? 良く知ってるな……」
「アジトでいつも頼んでるでしょ。お手伝いの沙緒里さんが入れてくれるコーヒーが、凄くおいしいんだけど……」
「お手伝いさんって、そうか……」
今は呪印を刻まれ、生命維持装置の中だ。
「神崎、着替えはどうするの?」
「あぁ、大丈夫。後でカルトさんが、登校前の複製を連れてきてくれるから。車の中で入れ替わることになってる」
「そう」
俺たちは居間のテーブルで向かい合い、焼き物の中皿に盛り変えられたおにぎりやサンドイッチへ手を伸ばした。
二人で食べる食事というのがなんだか気恥ずかしい。目のやり場に困る。
「神崎は聞かないのね。私の家族のこと」
サンドイッチを両手でつかんだまま、こちらを見つめている。
「なんとなくは聞いてるけど、聞いちゃ悪いような気がしてさ……」
視線を落とし、手にしたおにぎりのラッピングを解いていく。
「両親、姉と私の四人家族。小さい頃は平凡な家庭だった。でも、祖父が体調を崩して入退院を繰り返し、母が会社の代表権を任せられて生活が一変したの……」
そっと朝霧の顔を伺うと、眉根にしわを寄せ、テーブルを見つめていた。
「婿養子の父は母の言いなり。それまで勤めていた会社を辞め、ジュエリー・アサギリの役員の一人となって母を支えた。両親は留守がちになって、お手伝いさんと姉との三人で過ごす時間が増えたわ」
「そっか……」
何と言っていいか分からない。きっと幼いなりに寂しさを抱えていたんだろう。
「物には不自由しなかったけど、心には穴が空いていたわ。姉だけが心の拠り所だったけれど、それも変わった……」
「変わった?」
「会社の将来を考え、両親は姉に英才教育を叩き込んだの。あの人たちは私から姉まで奪い、全霊を注ぐようになっていった。そして私は一人になった……」
辛さを噛みしめるように、手にしたサンドイッチを口へ運ぶ。
「三つ上の姉は海外留学で美術の勉強。しかも、既に経営へ片足を踏み入れているわ。ジュエリー・デザインのセンスも一級品。戸埜浦さんの亡き今、あの会社の次のスタンダードになるでしょうね」
「そういえば、今回の館、戸埜浦の家なんだろ? どうして言わなかったんだよ」
「私も知らなかったのよ。会社のことなんて興味もないし、戸埜浦さんだって、年に数回挨拶をする程度の関係だもの」
気分を害したようにサンドイッチの残りを頬張り、カップへ口を付ける。
「でも、みんな不思議に思ってるんでしょう? どうして社長の娘が、こんな田舎の公立高校に通ってるんだって?」
「そりゃ、まぁな……」
「理由は、親への当てつけよ。そんな無茶を言えば、少しは気に掛けてくれるに違いないだろうってね……」
だが、朝霧はここにいる。
「結果は惨敗。私なんて眼中になかった。あの二人には姉だけが全てなのよ。私は両親と姉を見限って、祖母の住むこの家へ転がり込んだの。光栄高校を選んだのは、この家から一番近い高校だったから。正直、どこでも良かったのよ」
孤独による愛への渇望。朝霧が抱えた心の闇は、それが原因というわけか。
「もう何も信じられなかった。私はアサギリの娘という看板を捨てて、自分一人の力で生き抜こうと決めたの。そんな時よ。具現者にスカウトされたのは」
左手の霊撃輪をじっと見つめている。
「私にもできることがある。私は特別な人間なんだと言い聞かせたわ。ここが私の居場所なんだって強く思ったの。困っている人の力になりたい。必要とされたい。だからこそ、ようやく見つけたこの居場所を必死に守ろうとしてきた……」
マグカップを両手で包み込み、大きく息を吐き出した。
「でもね、あなたのお陰で分かったの。自分が特別な人間だなんて虚勢はもう捨てるわ。そんなもの必要なかったのよね」
迷いを振り切ったその笑顔が本当に眩しくて、彼女が大きく前進したことがハッキリと分かった。なんだか、俺だけが取り残されたような気がする。
桐島先輩の影を引きずりながら、俺は前へ進むことができるんだろうか。
他愛もない会話と共に朝食を済ませ、登校のために玄関を出た。門の外へ、カルトさんの運転する移動車が見える。
「神崎、待って」
突然呼び止められ、何事かと振り返る。
「さっきも言ったけど、自分が特別だなんて虚勢も、強がりだけの棘の鎧も捨てる。私が望むのはたった一つだけ……」
息を飲み、硬く結ばれていた桜色の唇が再び動き出す。
「私は、あなたの特別になりたい!」
その一言は言霊となり、俺の心を大きく揺さぶった。あまりの嬉しさに涙すら込み上げたが、それを必死に押し留めた。
「朝霧。俺は……」
「いいの。分かってるから……可能性があるのなら、あなたをきっと振り向かせてみせる。どんな手を使ってでも」
さっきの嬉しさはどこへやら、今度はその言葉に空恐ろしささえ感じていた。
美しい物には棘がある。朝霧の心に芽吹いた新たな薔薇は、何色に染まるんだろう。それが俺に委ねられたんだろうか。
「結局、祖母も帰ってこなかったわね。お店に行っているのかもしれないけれど、帰ってこないことはなかったのに……」
「心配なら、放課後にでも店を覗いたらどうだ? 俺も付き合うよ」
何気ない言葉に、朝霧の表情が曇る。
「ありがとう。でも、そんな優しさを見せられると、変に期待しちゃうじゃない」
返す言葉もなく、黙るしかない。
やりきれない気持ちが込み上げる。
「ごめんなさい。責めてるわけじゃないの。そういう思いやりのあるところも、神崎の魅力の一つなのよね」
門の前で朝霧と別れ、車へ乗り込んだ。
車内にいた複製から荷物を受け取り、アジトから持ってきて貰った制服に素早く着替える。
☆☆☆
学校で啓吾や悠と過ごす間は、今朝までのイヤなこともすっかり吹き飛んでいた。ちょうどいい気分転換だ。
それでもやはり失恋の痛みというものはしっかりとあるわけで、あまり食欲も湧かない。母さんが持たせてくれた弁当も半分ほど残してしまった。
☆☆☆
放課後、セレナさんの指示で、アジトの会議室へ呼び出された。
朝霧、セイギ、車椅子の久城。そして、この場にいるはずのない人物まで。
一見しただけでは女性と間違えそうな中性的な顔立ち。肩まで伸びる長髪が相まって、余計にそう思わせるんだろう。
落ち着いた物腰は年齢を錯覚させる程であり、その絶対的な安心感が、この人のカリスマ性を押し上げている。
「風見先輩!? なんでここに?」
光栄高校の生徒会長、風見瞬。
場違いな存在の登場で呆気に取られていると、先輩は能面のような感情のない顔つきで歩み寄ってきた。
「君がカズヤ君かな?」
「そうですけど……」
直後、頬に強烈な衝撃を受け、床に尻餅をついていた。




