19 くちづけ
月明かりが照らす縁側に二人。静寂だけが包み込み、胸の音がやけに大きく聞こえる。イヤホンから漏れ出す音楽のように、朝霧にも聞こえているんじゃないだろうかと余計なことを考えてしまう。
「聞きたいことってなんだよ?」
庭園を眺めて言葉を探す。隣にいる朝霧の上着は黒のキャミソール一枚。目のやり場に困るのは分かりきっている。
ためらいがちな様子に、ただならぬ予感が込み上げてきた。それに、数日ぶりの再会とはいえ、いつものこいつらしくないところが多すぎる。
「あのね……白蛇のネイスとの戦いで、私、あいつに噛み付かれて死にかけたでしょう? あの時、神崎があいつに言った言葉を覚えてる?」
返事をする代わりに、心臓がドクリと脈打った。いや。そんなはずはない。まさかこいつが聞いていたなんて。
「なんだっけ?」
誤魔化してみたが、妙な汗が滲む。
「とぼけてるの? 確かに聞いたわよ。よくもあの女を傷付けてくれたな。あいつは俺のもんだ、って言ったわよね?」
あぁ。やっぱりそれか。シャドウのヤツ、なんてことを言ってくれたんだ。
がっくりとうな垂れ、逃げ道を探す。
「いや。あの時は必死だったから、よく覚えてねぇんだ……」
「ちょっと、どういうこと? 私の気持ちはどうすればいいわけ!?」
「は?」
「あっ……」
思わず見つめ合ってしまった。
動けない。どうすればいいんだ。
だが、先に目を逸らしたのは朝霧だ。膝を抱えた姿勢のまま再び庭園を見る。
「あの戦いの後から、神崎のことがずっと気になってた……気が付けば、目で追うようになっていたわ」
こんなタイミングでなんて話をするんだ。脳内では大混乱が始まっている。
「うちの父親を見てきたせいかしら。私ね、男って情けない生き物だと思っていたの。でも、あなたは違う……」
朝霧が大きく深呼吸したのが分かる。
まずい。これ以上一緒にいたら、もう引き返せない。逃げ出したい。
「実はね、前にメディカル・ルームで、あなたとセレナさんが話していたのを立ち聞きしてしまったのよ。夢を追う人と現実を生きる人……あの話を聞いた時、私と似ているって思ったの」
その言葉にドキリとした。やっぱり朝霧も俺と同じ感想を持っていたのか。
「あなたは、ひとりぼっちだった私に居場所をくれた。神崎ならきっと、私のもう一つの願いを叶えてくれる……」
「もう一つの願い?」
何気なく顔を向けると、すぐ間近へ整った小顔が迫っていた。
突然の口づけ。その勢いに押されたまま転倒し、後頭部を思い切り打ち付けた。
「いっつぅ……」
痛みに顔をしかめていると、四つんばいになった朝霧が、覆い被さるように顔を覗き込んできた。
背中まで伸びる髪が俺の顔へかかり、シャンプーの香りがほのかに漂ってくる。それだけでも理性を破壊するには十分だが、キャミソールの隙間から覗く大きな二つの膨らみに意識を持って行かれる。
朝霧の顔が再びゆっくりと迫り、抵抗する気力すら起きないまま、二度目の口づけを交わしていた。
その口づけは、全身がとろけそうなほどの心地良さと興奮をもたらした。
快感が後頭部から背筋へ伝い、脳内を麻痺させていく。体に力が入らない。
名残惜しそうにその唇は離れ、潤んだ瞳を真っ直ぐに向けてきた。
「私は神崎が好き……私のもう一つの願いは愛。孤独な心を埋めてくれる愛が欲しい……さっきは聞けなかったけど、あなたは私を必要としてくれる?」
その瞳が答えを待っている。
「俺は……」
「私を愛して必要としてくれるなら、いいよ。神崎の好きなようにしていいんだよ……でも、その……」
落ち着きなく漂う視線が、あらぬ方向へと向けられる。
「初めてだから、優しくしてよね……」
頬に両手が添えられ、唇に触れる柔らかな感触。頬に触れた朝霧の顔が熱い。
時間も思考も完全に停止した。ただ、唇が触れたその瞬間、これまでにない快感と至福に満たされたのは確かだ。
考えることを止め一匹の獣と成り果て、その唇を貪るように激しく求めた。
ほっそりとしたその肢体を両腕でくるみ、横転と共に上下を入れ替えると、その存在を確かめるように抱きしめた。
だが、俺の思考を咄嗟に呼び覚ましたのは、朝霧の顔を美しく妖艶に照らし出す月の光だった。
自分が自分で無くなっていた。慌てて顔を上げ、キャミソールに隠された豊かな膨らみを掴むこの手を引き抜いた。
口元に残る唾液の跡を甲で拭う。
俺はなにをやってんだ。言いようのない罪悪感が込み上げる。危うく自分の欲望に完全に飲み込まれるところだった。
今の俺はきっと、失恋の痛みから逃れるために朝霧を求めているに過ぎない。彼女を桐島先輩の代わりにしようとしている。こんなことは間違ってる。
「どうしたの?」
女の顔へと変貌していた朝霧。その不安そうな声だけが静かに響いた。
「ごめん。俺、どうかしてた……」
頭を振って必死に意識を呼び戻し、再び縁側へ腰掛けると、着衣と髪の乱れを整えた朝霧が横から覗き込んできた。
「言いたいことがあるなら言って」
その真っ直ぐな瞳からは逃げられない。
「朝霧を助けるまでの間、桐島先輩が手伝ってくれてたの知ってたか?」
「ええ。今日の戦いで黒薔薇に飲み込まれている間、微かに意識があったの」
「実は俺、今日、先輩に告白したんだ」
「え!?」
「まぁ、結果は惨敗だったけどな……」
苦笑すると、朝霧は喜ぶような同情するような複雑な表情を浮かべていた。
「だったら構わないじゃない。玲華さんなんて忘れて、私を見てよ!」
「あっちがダメだからこっちとか、そんな簡単なことじゃねぇだろ。朝霧のことが嫌いなわけじゃなくて、自分の気持ちに整理を付けないと先へ進めないんだ」
「そんなの勝手すぎる。あなたが必要なの! 神崎じゃないとダメなの……」
俺の手を取り、懇願するように言葉を絞り出す朝霧を前にして、胸の奥がどうしようもなく痛み、悲鳴を上げている。
うつむいた朝霧の頬から雫がこぼれ落ち、色白な膝の上で弾け飛ぶ。
でもきっとこの問題は、今の俺では答えを見つけられそうにない。
「朝霧の気持ちに甘えて寄りかかるのは簡単だけど、それじゃ俺が自分を許せない。気持ちの整理をつけるのに、もう少し時間が欲しいんだ……頼む」
「いつまで待てばいいの? 玲華さんなんて忘れさせてあげるわ。側にいてよ」
必死の形相でにじり寄ってくる。
「落ち着けって! 話が堂々巡りになってるんだよ。どうしたんだよ!? いつものおまえらしくねぇぞ」
不意に朝霧の動きが止まり、女の顔だったそれが怒りの色を帯びる。
「私らしいってなに? あなたが私の何を知ってるっていうの!? 私の痛みを、孤独を、沙也加にしか打ち明けたことなんてないのに! 何が分かるの!?」
圧倒されるほどの豹変ぶりに、かけるべき言葉が見付からない。
「こんなことなら助けてもらわなくてもよかったわ……あの悪霊は私と同じ。愛を、温もりを求めてた……私たちはお互いに補い合っていた……でも、神崎の声が聞こえた。ここから戻れば、あなたが救ってくれると信じてたのに……」
神経を逆なでるような言葉に、我慢の限界を超えていた。
「おい。おまえ、本気で言ってんのか? 助けてもらわなくてもよかっただと? どれだけ自分勝手なんだ、てめぇは!? みんながどれだけ心配して、どれだけ必死になったか考えてみろ!」
気が付けば、キャミソールから覗く剥き出しの肩をつかんでいた。
「俺が救ってくれると信じてた? ふざけんな! 俺の知ってる朝霧美奈は、他人に依存するような弱い奴じゃねぇ! いつも一段上から見下ろして、他人を蹴落とすくらい勝ち気で自信家な奴だ」
一気にまくし立てたが、これ以上言い合っても何も進展しないだろう。
「今日は休もう。お互い疲れてるんだよ……一晩寝てスッキリして、それでも足りないなら、もう一度きちんと話そう」
黙って頷き、自室へ向かう彼女を居間で見送った。そこに用意された布団へ横になり、モヤモヤとした気持ちを引きずったまま一夜を明かしたのだった。




