01 完全崩壊
「なんなんだよ……」
日没の迫る広い庭園。そこに駆け込んだ俺を待っていたのは、とても信じられないほどの壮絶な光景だった。
夕日を背にして立つ一人の年配女性。照らし出されたその姿はまるで、全身が血にまみれているような錯覚を覚える。
母さんと同じくらいの年だろうか。この街の雰囲気に似つかわしくない身綺麗な服装。ファッションには疎い俺だが、どこかで見たロゴマークがあしらわれた服装は、セレブな印象が漂っている。
庭園とセレブ。和洋が混在した異質な場面と、彼女が右手にぶら下げる物体。
俺の目はそこへ釘付けになっていた。
心臓が、悲鳴を上げるように大きく脈打っているのが分かった。まるで、耳元にそれが置かれているかのようだ。
「おい。なにやってんだよ……」
うまく呼吸ができない。胸元を押さえて絞り出すように声を上げると、喉から漏れたのは擦れ上ずった音。自分のものとは思えないそれは震えを帯びている。
胸の動悸が否応なく加速する。まるで、心臓から伸びた導火線に火を放たれ、今にも爆発を起こしそうだ。
セレブ女がつかんでいるのは人。右肘をつかまれた相手は、地面に体を横たえたまま、ぐったりとして動かない。
真っ白なブラウスと、紺地に深緑のチェックが入ったスカート。間違いなく光栄高校の制服だ。
「なにやってんだって聞いてんだよ!?」
目の前の光景が信じられない。信じたくもない。握りしめた拳が恐怖に震える。
横たわる女生徒には見覚えがあった。
背中まで伸びる黒く艶やかな髪。太陽に嫌われたかと見紛うほどの白い肌。そして、同姓が羨むほどのスラリと均整のとれたモデル体型。だが、その頭部がありえない方向に折れ曲がっている。
既に動かなくなってしまったそれは、よく知っている女性。大事な仲間。
その瞬間、俺の世界は崩壊した。目に見える景色は古びた写真のように色を失いながら、モノクロへと変貌する。
崩壊した世界の中で、目の前の女は、セレブという言葉がまったく似合わないほどの歪んだ笑みを浮かべる。
「遅いよ、お兄ちゃん。お姉ちゃんとおままごとをしながら待ってたんだけど、なんだか壊れちゃったみたい……」
今まで遊んでいたオモチャに飽きたように、つかんでいた細い腕を放り出す。
モノクロの視界の中、手放されたその腕が放物線を描きながら地面へ流れる。
彼女の顔、彼女の声、彼女の仕草。それら全てが脳裏を走馬燈のように駆け抜けた。きっとそれは、二度と取り戻すことができない時間と日々。
「ミナあぁぁぁぁ!!」
応える者はなく、虚しくすり抜けていくだけの叫び。
到底受け入れられないこの現実に、悲しみを通り越し、怒りしか湧いてこない。俺の世界を踏みにじったこのセレブ女を絶対に許さない。
「うがああああぁぁぁぁぁぁ!」
髪を掻きむしり、狂ったように叫ぶ。だが、そうでもしなければとても正気を保っていられない。
セレブ女は、楽しみにしていたテレビ番組の放映が始まるかのように、俺の顔を嬉々とした表情で見つめ続けていた。
「お兄ちゃんを第四ステージに招待しようと思って。待ちきれなくて、こんな所まで呼んじゃった。テヘ」
こいつだけは。こいつだけは許さない。
噛みしめた奥歯が今にも砕けそうだ。視界は涙に溢れ、いびつに歪んだ世界を見せつけてくる。
モノクロの歪んだ世界。しかしここが今、俺のいる現実。そして、敵はそこにいる。この世界を生んだ元凶が。
「そういうことかよ、クソ野郎! てめぇは生まれ変われるなんて思うなよ。今すぐここで、跡形もなくなるまで完全に消してやるよ!!」
セレブ女は、口裂け女を実写化したように口端を大きく吊り上げて微笑む。
「お兄ちゃんがいけないんだよ。みんなで楽しく暮らしたかっただけなのに」
「知るか!」
叫ぶと同時に目の前の全てを拒絶する。
一体、何がいけなかった。どこで選択を間違えた。
二十代目の具現者は完全崩壊。サヤカもセイギもいない。頼みの綱だったシャドウの力も封じられた今、俺にはもう何も残されていない。
最悪の結末を迎えたこの崩壊のシナリオは、あの洋館に足を踏み入れた時から既に始まっていたんだ。
あれは玄関扉なんかじゃなく、パンドラの箱だったに違いない。
☆☆☆
白蛇の中位悪魔ネイスとの死闘から一ヶ月後。俺たちはいくつかの依頼をこなし、着実に力を付けていた。そんな矢先、夢来屋へ新たな依頼が舞い込んだ。
廃墟と化したある洋館で、怪奇現象が発生した。取り壊しに訪れた業者の機材が原因不明の故障。作業員も謎の高熱にかかり寝込んでしまったというのだ。
俺たちに任されたのは館内の調査。悪霊の気配があれば退治するという、ごく簡単な任務のはずだった。
その洋館は、アジトから車で十五分ほど。小高くなった丘の上へひっそりと建っているのだが、他に目立った物もなく、それだけが異様な存在感を放っていた。
外国映画のワンシーンにでも出てきそうな異国情緒あふれる光景だ。セレナさんの情報によると、家主は海外から直接資材を輸入して、こんな場所に欧風邸宅を建築したらしい。
とにかくでかい。我が家の六倍。いや、それ以上か。
アイアンフレームで囲まれた鉄柵の門を抜け、広大な庭に伸びた石畳を進む。積み上げられた赤煉瓦の外観を見上げながら、館の玄関へやってきた。
後に続くのは朝霧と久城の二人。オタクだけは相変わらずの別行動だ。
両開きの大きな玄関扉は、侵入者を拒むように大型の南京錠で固定されていた。
預かってきた合鍵でそれをこじ開け、玄関扉を押し開ける。
扉の上部に積もっていた埃が舞い、その建物が長い間放置されていたことを如実に物語っていた。
「なんなのよ! もう最悪……」
「この任務、パスしない? あたし、汚くて暗いのヤダよぉ」
顔をしかめて必死に埃を振り払う朝霧と久城へ、いかがわしい視線を向ける。
「おまえら、なんでそんな後ろで身構えてんだよ。こうなること分かってたろ?」
頭を振ると、粉のような物が勢いよく舞い落ちる。先頭にいた俺は、その洗礼をまともに受けたというわけだ。
「よく考えてみなさいよ。この館、放置されてから五年以上経っているのよ。当然の流れじゃない?」
「ぷぷ。リーダー、お爺さんみたい」
「笑ってる場合か! くそっ!」
久城を一喝して、その場で飛び跳ねながら埃を振り落とした。
「少し、じっとしてなさいよ……」
背中についた埃を払ってくれる朝霧。こいつにしては珍しい行動だ。
「ダメな夫に甲斐甲斐しく世話を焼く、マメな女房の構図だねぇ……」
「誰がダメな夫だ?」
久城は両手の親指と人差し指を合わせ、四角いフレーム越しにこちらを覗く。
「まったくだわ。誰がこんな人……」
なぜか朝霧の頬が赤く染まっている。
まさかな。思い違いだと自分に言い聞かせ、厄介ごとを片付けるために屋敷の中を覗き込んだ。
「さっさと終わらせようぜ」
七月だというのに、屋敷の中は外気と比べるとひんやりとして、不気味さを増幅させる。
電気が通っているわけもなく、光源と言えば窓から差し込む夕日だけだ。
大理石の床を進み、玄関ホールの中心までやってきた。
正面には一枚の扉。その左右に、大きくカーブを描いた階段が二階へと伸びている。階段の側には一体の甲冑。この家主のインテリアセンスに疑問が湧く。
左右にも廊下が延び、どこから調べるかと背後の二人を振り返った瞬間、朝霧の体を黒い気体が取り巻いていた。
「なんなの、これ!?」
慌てふためく彼女の体は、見えない力に引かれるようにわずかに浮き上がる。
「助けて!」
「ミナ!?」
「ミナちゃん!」
慌てて伸ばした左手が、助けを求める朝霧の指先に触れた。
温もりを感じたのはほんの一瞬。その手をつかむことはなく、朝霧の姿は屋敷の内部へ吸い込まれるように消えた。




