最終話 終わりの先の始まりへ
目の前には、雲一つない青空と穏やかな海面。それぞれがハッキリとした境界を描いて悠然と広がっている。
あの時のどんよりとした曖昧な空なんかじゃない。今ここにあるのは、決して交わることのない、くっきりとした空と海の境界線。まるで、俺と先輩が置かれた現在の立ち位置をまざまざと見せつけるかのように。
きっと、あの日のあの時に、俺たちは住む世界が変わってしまったんだ。ここから先は別々の道を行くんだろう。
防波堤の先端まで歩き、海原へ足を投げ出すように縁へ腰掛ける。
後に続いてきた先輩は、手にしたポーチから花柄のハンカチを取り出す。俺の隣へ広げ、その上へゆっくりと腰を降ろした。
その仕草ひとつひとつに鼓動が高鳴る。傍目には、カップルに見えるんだろうか。
「ねぇ、ねぇ……」
「なんスか?」
その穏やかな甘い声が耳をくすぐる。
「やっぱり、前にどこかで会ってないかな? なぁんかモヤモヤする……」
体育座りをしながら膝へ顎を乗せる先輩。唇を尖らせた顔に胸の奥が締め付けられる。
俺が答える代わりに、青空を優雅に舞う海鳥が一声鳴いた。
「気のせいっスよ。それか、俺にそっくりな誰かとか?」
「う〜ん……」
腑に落ちない様子で海を見つめる先輩。
これでいい。このままでいいんだ。
風見の死と同時に、自らの頭部を装飾銃で撃った桐島先輩。幸い、セレナさんと医療チームの迅速な対応で無事に一命を取り留めた。でも、至近距離で自ら放った頭部への霊撃が、前例のない後遺症をもたらしたんだ。
記憶の欠如。それも、具現者としての記憶だけを丸々失うという特殊な後遺症を。
記憶を再構築しようとするボスを、俺は強く引き留めてしまった。風見のことや、神津総合病院で襲われたこと。思い出して欲しくない記憶も多分に含まれていたから。
それらの記憶を取り戻してしまったら、桐島先輩は生きる力を失ってしまうんじゃないかと怖くなったんだ。
このまま、穏やかな日常へ戻ってくれればそれが何よりだ。たとえ、俺のことを忘れてしまったとしても。
記憶を取り戻しそうな節はあるが、それを引き金に全てを思い出さないとも限らない。それが何より怖いんだ。
病院の地下でようやく先輩を見付け、触れようと伸ばした手。でもそれは、怯える彼女に振り払われてしまった。
あの時の顔は忘れられない。もうあんな思いはさせたくないし、江波に対して殺意に近い怒りすら沸いてくる。その江波も、既にこの世にはいないのだが。
そんなことを考えていたら、いつの間にか会話が途切れていたことに気付いた。
海水浴客の喧噪と波の音が、辛うじて沈黙をごまかすBGMになっている。
「先輩は進路ってどうするんスか?」
間が持たない。気まずくなって、とりあえず話を振ってみた。
「え? 私?」
「他に誰がいるんスか?」
「それもそうだね……」
先輩は、照れたようにはにかんだ。
「絶対、絶対、誰にも言わないでよ……私ね、保育士になりたいんだ」
「へぇ〜。結構、意外っスね」
できることなら、先輩が保育士になった時に、生まれ変わって園児になりたい。
「子供、好きなんだ……それに、この町にいてもできる仕事が良いなって思って」
「やっぱり、田舎の方が良いっスもんね。俺も人混みは苦手で……」
「そうそう! すっごい分かる!」
二度目の会話。分かって当然だ。
「君は? もう考えてるの?」
「それが分からなくて困ってるんスよ……自分がどうしていきたいのか、まるで見えなくて……それを探してる最中って感じっスね」
「そうなんだ……でも、焦ることないと思うよ。人はいつだって選択を迫られてる。どれか一つを、どこか一つを選んで進まなくちゃいけないんだもん。必ず道は開けるよ。ね?」
先輩の心はいつもぶれずに、真っ直ぐ芯が通っている。前だけを見ている。
「その選択が正しかったかどうかなんて後になってみなくちゃ分からないんだし、その瞬間には自分で最善だと思う選択をしてるはず。それで充分なんじゃない?」
あの日の甘酸っぱい気持ちが蘇る。でも、俺だけが変わってしまった。
「ずっと不安を抱えてたんスよ。自分の存在価値はなんだろうって……恋をして、子供を作って、人間っていう生物を地球に繋ぎ止めるための駒に過ぎないんじゃないかって……」
「駒か……」
俺の言葉を噛みしめるように、先輩は小さな声でつぶやいた。
「でも、この夏の貴重な体験が俺の人生観を変えたんです。存在価値なんて、自分で求めるものじゃないんだって……」
「ん? どういうこと?」
「存在価値って、他の誰かに必要とされた時、初めて生まれるものなんじゃないかって。その時になって初めて、価値や意義みたいなものが見いだせるんだろうなぁって……」
「う〜ん。深いね」
「その時に俺はようやく、社会を動かす歯車の一つになれる気がする……」
父さんや、朝霧の母親の顔が過ぎる。
これらの全てはこの戦いを通じて、そして桐島先輩やセレナさんのお陰もあって辿り着いた、俺なりの答えだ。
「でも、良い経験をしたんだね。君が大人びて見えるのは、そういうことなんだ」
「へ? そんな風に見えます?」
「うん。凄く落ち着いて見える」
膝へ頬を付け、首を傾げて微笑む先輩。思わず抱きしめたくなる可愛らしさだ。
でも、良い経験だけじゃない。人の生と死も間近で見てきた。挙げ句の果てには、風見瞬という人間の人生を奪ってしまった。この大罪は計り知れない。
だからこそ、命を落としたみんなの分も必死に生きるんだ。彼等の存在を記憶する、数少ない証人の一人として。
不意に目を向けた海原は、太陽の光を受けてまばゆい光を放っている。それはまるで、この地上に生きる全ての命を象徴するように。
「そろそろ行きましょうか? 戻って来ないから、探した方が早そうだ。それに、いつまでもこんな所にいたら、先輩も日焼けして真っ黒になっちゃいますよね」
重い腰を上げ、砂浜を振り返る。
いつまでもこうしていたい気持ちはあるものの、離れなければならない存在。このままではいられない。
歩き出したその時、突然に手首を掴まれた。まるで剥き出しの心臓を掴まれたように、驚きで鼓動が大きく脈打った。
咄嗟に振り向いた先には、帽子を手に取り、無言のままうつむく先輩の姿が。
「どうしたんスか?」
「また……会えるかな?」
予想もしていなかった言葉が戸惑いを生む。
「まぁ、学校が始まれば、イヤでも顔を合わせると思いますけどね……」
潮風が鼻孔をくすぐる。懐かしさを伴った香りが心を落ち着かせてゆく。
俺たちは決して交わることはない。交わってはいけない二人なんだ。
「止まらないの……」
「え?」
顔を上げた先輩の頬を涙が伝う。
「分からないけど、涙が溢れて止まらないの……この手が、この心が、君を離しちゃダメだって、強く、強く、訴えてくるの!!」
左手で胸元を握りしめる先輩。ワンピースを飾る綺麗な花柄が苦しげに歪んでいる。まるで彼女の心を映し出すように。
今、この言葉に乗るのは簡単だ。でも、そうしてしまったら、絶対に引き返せなくなる。飲み込まれてしまう。
先輩のことを本当に想っているからこそ、ここは離れなければダメなんだ。
「でも、俺は……」
心に葛藤が生まれる。暴れ出す。不意に思い出したのはセレナさんの言葉。
“自分の命が尽きる時、悔いのない人生だったと満足できれば、それが一番よ”
ここであきらめて、本当に悔いの無い人生だったと満足できるだろうか。こんな俺のことだ。きっと、一生、後悔するに決まってる。
今の光景はあの時とは正反対だ。
“捕まえてないとどっかに行っちまうって言うんなら、俺はもう、この手を二度と離さない……“
あの時に、失恋の痛みは味わった。今更、先輩を失うことにためらいはない。
“玲華先輩のためなら、相手が誰だろうとどこまでも追いかけて助けますよ。今、一番大切にしたい人ですから”
でも、先輩を諦めろと叫ぶ思考と、先輩を求める本能は不協和音を奏でた。
“月が輝いて見えるのは太陽のお陰なんスよね? 闇夜でも綺麗に輝く月が先輩だとしたら、俺じゃあ先輩の太陽になれませんか?”
先輩と交わした一つ一つの言葉が、溢れ出すように脳裏を過ぎって行く。
もう、理屈で片付けられる問題じゃない。心が、魂が、こんなにも彼女を求めている。
「でも、俺なんかと一緒にいたら、いつか後悔することになるかも……」
もう、目を合わせることもできない。気持ちを振り切るように先輩から視線を逸らし、逃げるように海を見つめた。
「それでもいいの。今、君とこうしていることが、私の最善の選択だから。きっと間違ってない! 後悔もしないわ!」
真剣な眼差しが挑むように見つめていた。それを目にしてしまったら、もう止まることなんてできなかった。
先輩へ向かって一歩を踏み出し、華奢なその体をきつく抱きしめていた。
ずっとこうしたかった。この日を、この時を、どれほど待ち望んでいたんだろうか。
腕の中に収まった温もり。長い髪が俺の頬を撫で、潮の香りを吹き飛ばすほどの柔らかく甘い香りが胸を満たしてゆく。
「もう、絶対に離さない……」
「うん……」
途端に涙が溢れた。もう二度と、触れることすら叶わないと思っていたのに。
たとえ先輩が全ての記憶を取り戻す日が来ても、二人で乗り越えてみせる。
「やっぱりそうだ……胸が満たされていく、この感じ……」
腕の中で先輩は顔を上げ、俺の瞳を覗き込んできた。互いの視線が絡み合う。
「あのね、あのね……突然こんなこと言うなんて、変な女だと思わないでね……私、そんな軽い女でもないんだからね」
「え!? え? なんスか?」
潤んだ瞳に見つめられ、高鳴り暴れ出す鼓動。密着した体を通して、先輩にまで伝わっているんじゃないだろうか。
そんな焦りを気にしている間に、彼女の整った小顔が途端に紅潮していくのが分かった。
「あのね……キス、して欲しいの……」
それ以上の言葉は必要なかった。
互いの心を埋め会うように、足りないものを補うように唇を重ねた。
それはまるで、歯車がピタリと噛み合うような、不思議でいて当然の感覚。
心と体で結び付きながら確信していた。やっぱり俺の魂は、先輩のことをこんなにも求めていたんだと。
きっと、ここからが本当の始まりだ。俺たちの運命の歯車は再び回り始めた。
夢に現れた風見は言っていた。ここから先は終わりの始まりだと。だけどそうじゃない。俺たちはこれからも進んで行くんだ。
そう。終わりの先の始まりへ……
〜Fin〜




