34 別世界。俺だけここに残されて
「はぁ……」
母さんが用意してくれた定番の朝セットを平らげ、アイスコーヒーの入ったグラス片手に自室へ逃げ込んだ。
父さんは仕事。アニキはバイト。これまで通りの平凡で平穏な生活。
俺の世界を構築していた歯車のいくつかは失われてしまったというのに、空腹を感じるし、睡魔も襲う。それでも俺は生きている。無情にも時は流れていく。
後ろ手にドアを閉め、愛用のパソコンの起動スイッチへ手を伸ばした。
本格的な夏の到来とはいえ、午前の暑さはまだ序の口だ。本来ならば学生らしく勉学やら宿題やらに勤しむべきだが、生憎、今の俺にそんな気力はなかった。
冷房が効き、外界から遮断されたこの部屋はまさに別世界のようだ。まるで俺だけが世界から取り残されたように。
「あれから、もう十日か……」
風見との死闘が、つい昨日のことのように思える。人知れず平穏を取り戻したこの街は、いつもと変わらない時間が流れ続けていた。
これまでの戦いを忘れないためにも、きちんと記録しておかなければならない。それが、具現者としての俺にできる最後の役目だから。
パソコンの前へ座り、文章編集ソフトを起動。キーボードへ指先を滑らせる。久しぶりに日記を更新しながら、解散までの出来事を反芻していた。
☆☆☆
俺たちの戦いは終わった。思い返せば二ヶ月程度の出来事なのに、まるで二年にも感じられるほど濃密な時間だった。
本来なら、引退と引き換えに具現者の記憶は抹消されるのだが、この戦いで失われた数々の命を忘れないようボスへ直訴した結果、記憶を留める許しを得た。ここに戦いの結末を記録することで、具現者としての活動を終了する。
風見を討ち取った俺たちは、休息と治療のためにアジトへ戻った。だが、事態が急変したのは午後のことだった。
なんと、ボスと共に霊界王ヴァーンがアジトへやってきたのだ。
(外見は七十近い小柄な老人。何にも染まらないという意味が込められた、純白の長衣が印象的。喉仏が隠れるほどの長い白髭を蓄え、一見ユーモラスな外見を装っているものの、鋭い眼光と身に纏うオーラは半端じゃない)
霊界王は俺たちの活躍を労ってくれたが、そんなことのために来たわけじゃなかった。本当の目的はなんとゼノの蘇生。
俺たちは耳を疑った。まさかそんなことが実現可能なのかと。
そこで出たのが「輪廻」と呼ばれる禁術の存在。風見が最後に言っていた言葉が、ここでようやくハッキリしたんだ。
聞けば、歴代の霊界王へ受け継がれる究極の霊術らしい。任意の一名を蘇生させる術だが、一度使用すると霊界のエネルギーバランスを調整するために、向こう五十年は二次使用が出来ず、一代の霊界王につき一度しか使用できないという制限付き。更に、唯一の条件として蘇生対象の遺体が必要なのだという。
ここで一つの疑問が湧いた。風見はこの力で義妹を蘇らせようとしていた。しかし、既に埋葬されている。この力を手に入れたところで、義妹を蘇生させることは不可能なのだ。
俺たちが出した答えは、「輪廻」の力をエサに、闇導師に騙されたのだと。風見も、悪魔に運命を翻弄された一人だったんだ。
そして、霊界王の地位を狙っていたカミラさんにしても、マルスさんの蘇生を願って「輪廻」の力を求めたんだろう。
霊界王はゼノを蘇生させ、戦神の眷属を一掃して欲しいと申し出た。
これに反発したのはゼノ。目的だった闇導師を倒し、ティアさんを失った今、生き返る必要も理由もないと。
☆☆☆
「確かに、良い迷惑だよな……」
ゼノの言うことはもっともだ。霊界の勝手な都合に振り回されているのだから。
☆☆☆
でもここで、霊界王から思わぬ言葉が飛び出した。これぞ驚天動地ってヤツだ。
なんと、ゼノが探し続けていた母親は造霊術の導師で、バルザンドスの部下。つまり、暗黒界で今も尚、新世代と呼ばれる悪魔を量産している女王。その正体が、ゼノの母、ナターシャだったんだ。
それを聞いて、ゼノが奮い立ったのは言うまでも無い。あいつは蘇生を承諾した。
ボスたちはそれを見越し、ご丁寧にゼノの遺体まで持ち込んでいた。
霊魔大戦で死亡した優秀な人材は、蘇生を視野に入れ冷凍保存されたのだという。魔人であるゼノも功績を認められ、大事に安置されていたというわけだ。
だが、ここで次の問題が。ゼノの魂はこうして生きていて、完全に死亡しているわけじゃない。それはつまり、「輪廻」の術が使用できないことを意味していた。
途方に暮れかけたその時、不意にゼノが思念を放って幻獣王へ呼びかけた。すると、俺が思っていた通り、ゼノが蘇生するための方法を握っていたんだ。
召喚した門を通じて、幻獣王とのやり取りを行った。俺の体からゼノの魂が抜き取られ、無事に本人の体へ戻ったんだ。
“よう”という素っ気ない挨拶と共に、片手を上げるゼノ。目の前で見るのは、気恥ずかしいような不思議な気分だった。
でも、ゼノの蘇生が終わった所で、「輪廻」の力をどうするかという新たな問題が生まれた。ボスから、温存してはという意見も出たが、元々はゼノのために使おうとしていた力。霊界王はその判断をゼノへ託したんだ。
☆☆☆
「まぁ、この選択しか無かったよな……」
ためらいや戸惑いは一切なかった。ゼノはティアさんの蘇生を願ったんだ。
☆☆☆
無事に蘇生されたティアさんだったが、不運にも、身体が負った傷までは癒やすことはできなかった。闇導師に乱暴され、子供の産めなくなった体。それでもゼノは彼女を求め、共に生きる道を選んだ。
せめてもの救済にと、霊界王は彼女が捕らえられていた間の記憶を上書きすることに決めたんだ。
その準備が進められている間、ティアさんは、捕まっていた間に闇導師から見聞きした過去の出来事を話し始めた。
内容は、俺たちも気になっていた、バルザンドスとゴライアスの確執だった。
争いの発端は、霊界王の地位に就けなかったバルザンドスの暴走であることは前に聞いた通りだ。
敗選後、彼は自分を慕う五人の導師と共に暗黒界へ渡った。霊界へ復讐するという恨みの念だけを抱えて。
この五人が、現在の四混沌と女王。バルザンドスは言葉巧みに彼等の心を奪い、操った。不老長寿。導師としての研究心をくすぐる甘い誘惑をぶら下げて。
でも、その実態は悪魔との融合。彼等に悪魔としての力を植え付けることで、不老長寿の肉体を与えたんだ。
彼に洗脳されていた導師の中に、異を唱える者など存在するはずもなかった。導師であり、ゴライアスの恋人として同行していたナターシャでさえも。
それもそのはずだ。悪魔との融合を企てていたのが、彼女だったのだから。
そうして四混沌を生み出した彼女はゴライスの元を去り、まんまとバルザンドスへ乗り換えたというのが真相らしい。
でも、ナターシャへの想いを捨てきれなかったゴライアスには、僅かな自我が残されていた。それが芽吹き、バルザンドスとナターシャへの怒りとして昇華されてしまったんだ。
霊魔大戦でバルザンドスが封印され、洗脳が完全に解けたゴライアス。全ての記憶を取り戻した彼の心には、強い怒りだけが残ったというわけだ。
彼が戦神と女王を滅ぼそうとしていたのは本気だったんだろう。女王へ復讐し、戦神を消すことで、自分の過去すら無かったことにしたかったのかも知れない。
☆☆☆
「闇導師や風見と共闘するっていう、まさかの道もあったのかもしれねぇな……」
今更ながらそんなことを思ってしまう。それが実現していれば、この最悪の状況を覆せたのかもしれないと。
☆☆☆
当日の午後は、ティアさんの記憶改ざんに費やされた。俺たちはそれぞれに個室を与えられ、眠れぬ夜を過ごしたのだ。
翌朝、霊界王を追うように、ゼノとティアさん、そしてアッシュとアスティの帰還準備が慌ただしく進められていた。
彼等と離れるのが残念で、寂しい気持ちで一杯だった。戦いが終わったことは素直に嬉しいが、別れの時を迎えるのは本当に辛い。
だが、ゼノたちの戦いはまだ続いている。戦神と女王を野放しにはできない。
ゼノは女王と戦う覚悟を決めていた。見つけ出し、必ず消滅させると。
“じゃあな”言葉の少ないゼノ。素っ気ない態度は相変わらずだ。でも、分かっている。伝わっている。
“頑張れよ、深紅の狂戦士様”その言葉に、あいつはニヤリと薄く微笑んだ。
何も心配はいらない。あいつなら、必ずやり遂げるはずだ。
そして、ゼノに心酔していたアッシュは、共に戦うことを懇願した。鬱陶しいと追い払うゼノだったが、なんだか満更でもない様子。それを呆れたように見ていたアスティも覚悟を決めたようだった。
クレアの分も生きて戦うと。今度はゼノとティアを守るために戦うのだと。
俺とクレアのことをどこかで聞きつけたんだろう。前日は恨みがましい視線をぶつけられもしたが、別れ際には晴れ晴れとしたいつもの彼の顔に戻っていた。それどころか、クレアのしたことを許してやって欲しいとまで。
欲望に流されて関係を持ったのは俺自身の弱さだ。謝られるようなことじゃない。そうしてアスティと和解したことで、心に落ちていた黒い汚れも取り除かれて。
そうして、別れの時間が迫る中、霊界ではもっと重大な事件が起こっていたんだ。