01 終わりの始まり
一筋の光すら見当たらない完全な暗闇。俺の心が闇に取り込まれたのか。それとも、死んであの世へ取り込まれたのか。
いや。意識をすれば足が動く。体を失ったわけじゃない。暗闇の中で棒立ちになっていたようだ。
足の裏を地面へ擦りつけ、光を求めて一歩を押し出す。だが、つま先は地面を捕らえることなく宙へ浮き上がった。
恐怖に捕らわれ慌てて足を引く。前がダメなら後ろだ。同じようにすり足で後退するも、今度は踵が宙へ浮く。
一体、ここはなんなんだ。恐怖と焦りに体を蝕まれながらも、視覚は徐々に暗闇へ適応を始める。
そうすることで次第に落ち着きを取り戻した俺は、改めて周囲を窺った。
闇だ。どこまでも果てしない闇。足下は、俺の立つ位置にだけ地面がある。
周囲は底の見えない奈落の闇。ここは黄泉への入口だとでも言うんだろうか。
「黄泉への一歩手前さ……」
背後からの薄気味悪い声。変声器を使ったような男とも女とも取れない声が、耳を通じて脳の中へ滑り込んできた。
この足場では振り向けない。それどころか、喉元で何かが不気味に光った。
それは研ぎ澄まされた鋭利な刃。片腕を思いきり伸ばした程もありそうな巨大な鎌が、突然に喉元へ添えられていた。
「てめぇはなんなんだ?」
声を振り絞ると、背後の気配が動いた。直後、眼前へ何かが降ってきた。
「ひっ!」
それ以上の声が出ない。目の前に降ってきたのは骸骨だ。巨大鎌を挟み、手を伸ばせば届くほどの距離で俺を見ている。
瞳の抜け落ちた空洞には何も映りはしない。その骸骨が纏うのは、闇に溶けてしまいそうな漆黒のローブ。
骸骨に鎌。思い浮かぶのは一つだけ。
「死神。そう思ったんだろう?」
骸骨の口元が噛み合わされ音を立てる。一体、どこから声が出ているのだろうか。
「ここはおまえの心を映した世界。この深い闇はおまえの未来……ここから先は終わりの始まりが待つだけさ」
「終わりの始まり?」
「それでもおまえは前へ進むのか?」
そんなこと考えるまでもない。右腕を持ち上げ、喉元に添えられた刃を掴む。力を加えると、それは呆気なく崩れた。
「たとえどんな未来だろうと、俺は、俺たちは前に進むしかねぇんだ! どんな深い闇だろうと切り裂いてやる!」
叫ぶと同時に、骸骨の顔面を目掛けて左拳を繰り出した。
乾いた音と共に白い破片が飛び、骸骨は上半身を大きくのけ反らせた。
「おもしろい。それでこそ君だ……」
「は?」
崩れ落ちた骸骨の半面。そこから覗いたのは信じられないものだった。
「君に相応しい終わりを用意しよう」
半面から覗いたのは風見だ。聖人と呼ばれたその顔が悪意と共に微笑んでいた。
☆☆☆
「うわあぁぁっ!」
叫びと共に体を起こし、あれが夢だったことに気付いた。妙に生々しい夢。
「カズヤさん。大丈夫ですか!?」
真っ暗な部屋に誰かの声が響いた。
隣にクレアの姿を見付け、思わず安堵の息を漏らしていた。
「ここは……メディカル・ルームか?」
「はい。医療チームが運んでくれたんです。カズヤさん、三十時間以上も眠っていましたよ。心配したんですから」
「は?」
「病院での戦いは昨日の出来事ですよ。もう真夜中ですし……」
なんだか浦島太郎のような気分だ。それに、いつの間にか入院着に着替えさせられている。
「ひょっとして、ずっと付き添ってくれてたのか?」
はにかんだように微笑みながら、ツインテールを揺らして頷くクレア。そんな彼女を愛おしく思い、胸の奥が熱くなってくる。
「傷が塞がるまで安静にと言われてしまったので……カズヤさんの寝顔が見られたので得しましたけど。それに、サヤカさんもいたので退屈しませんでしたよ」
「サヤカも?」
「はい。さすがに時間が時間なので帰宅しましたけどね」
「他のみんなは?」
「アッシュとアスティの治療はほぼ終わりました。セイギさんは時間がかかっているみたいですね。タイガさんは軽傷でしたよ。セイギさんのお姉さんも保護しましたし、変態の郷田は闇蜂の力を取り除くために治療中です」
違う。知りたいのはそんなことじゃない。
「レイカ先輩と、ミナは!?」
クレアは悲しそうな顔で首を振る。
「あの部屋で保護されたのは、カズヤさんと霊界人の女性だけです。他には誰もいませんでした……」
「マジかよ!?」
その言葉を信じられない。到底、受け入れられるはずもない。俺は結局、二人を助けることができなかったのか。
憔悴した桐島先輩の顔が浮かぶ。全部終わらせて必ず迎えに行くと言っておきながら、なんて様だ。
「結局、誰も守れねぇのかよ……」
自己顕示欲を満たしたいだけなんだという風見の言葉が蘇る。ゼノの力を振りかざしても、本当に守りたい物を守ることができない。
「なんのための力なんだ……」
目の前に広げた両手。だが、その両手は水をすくおうとでもするように、大切な物を全て取りこぼしてゆく。
何も残っていないはずのそこへ、不意に与えられた力強い温もり。クレアの両手が確かにここにある。
「自分を責めないでください。カズヤさんが頑張っているのは良く分かっていますから。いつも見ていますから!」
隣へ立つクレアから突然に抱き寄せられ、その胸に顔をうずめていた。
悲しみと胸の痛みがそっと引いていく。体中から余計な力が抜け落ち、全てを委ねてしまいたい衝動に駆られる。
「私はここにいます。どこにも行きません! ずっと、カズヤさんの側にいますから……」
清潔な石鹸の香りが漂う。顔に触れるクレアの髪は湿り気を帯び、入浴間もないことに気付いた。よく見ればいつもの長衣ではなく、Tシャツと短パンというかなりラフな姿だ。
何かに誘われるようにクレアの体へ手を回し、その体を抱きしめ返していた。
この細い体で悪魔との戦いを幾度もくぐり抜けてきた。彼女の力と存在に何度助けられたんだろう。俺は、何一つ返すことも出来ないっていうのに。
「カズヤさん、酷いです。抱きしめて貰うのは私だったはずなのに……これじゃあ、逆じゃないですか」
確かに、光栄高校での任務が終わったら抱きしめるなんて約束をしていたっけ。
薄闇の中、クレアの体が動く。何かが倒れる音と共にベッドが軋んだ。どうやら、靴を脱ぎ捨てベッドへ上ってきたらしい。
息苦しくなるほどの至福の弾力。そこから顔を離した直後、彼女が下着を着けていないと気付いた。少し惜しいことをしたかも。
「そういえば、そんな約束してたな……」
唇を尖らせるクレアを見つめると思わず笑みがこぼれた。
「こうなったら、超過ペナルティです! 今度こそ、お願いを聞いて貰います!」
「ペナルティって、なんだよ?」
何がくるのかと思わず怯んだ直後、潤んだ瞳が俺を覗き込むように見つめる。腰に回された両腕に動きを封じられた。
「今だけでいいんです。今夜だけ私の恋人になってください! 他の誰にも絶対に言いませんから!!」
「は? ちょ……」
「カズヤさんの心の隙間を埋めてあげたいんです。誰かの代わりでも構いません。今夜だけ、あなたを癒やしますから」
この時の俺は、なぜかクレアのことを拒むことができなかった。
桐島先輩と朝霧を救うことができなかったという事実から目を背けたかっただけなのかもしれない。その罪と、寂しさ、空しさから逃れたい一心で、救いを求めたのは確かだ。
俺は間違っていない。正しい方向へ進んでいると誰かに励まして欲しかった。自己顕示欲なんかじゃないと、笑い飛ばして欲しかった。安心を得たかった。
側に寄り添ってくれたこの温もりだけが、今はただ一つの救いだ。全てを失おうとしている俺の中で、唯一変わらずそこにあり続ける大切な存在。
許されたい。癒やされたい。余りに多くのものを失いすぎた気がする。こんな俺にも、救いがあっていいはずだ。
今だけは、この流れに身を委ねればいい。おのずと正しい場所へ流れ着く。
目の前の存在までも失わないよう、力を込めて彼女の体を抱きしめた。
「カズヤさん。嬉しいけど、苦しいです」
その音を遮るようにクレアの唇へ荒々しく唇を重ねた。余計な言葉は必要ない。
クレアのシャツへ手を掛けながら、情欲の海へと意識は飲み込まれていった。