32 AとB。驚天動地の多重奏
男の手から解き放たれた紅蓮の火球。それが、両腕を広げたレイカへ飛ぶ。
それはさながら、体育祭の大玉転がし。膨れ上がった火球が通り過ぎた跡には、黒く焦げ付いたモノクロの床。人が走る程の速度だが、凄まじいエネルギーが内包されていた。
だが、それが迫ろうとレイカは引かない。両腕を水平に保ったまま、眼力で火球を粉砕せんとばかりに見据える。その目に見えているのは絶望か。それともまだ見ぬ未来か。
およそ三メートルまで火球が迫った。熱風が吹き付け、火傷のような痛みが全身を襲う。
骨も残さず消える感覚は幻。その火球は、魂という名の霊体を焼き尽くす地獄の業火。後に残るのは、抜け殻と化した自らの体。
レイカが死を覚悟して瞳を閉じたその時。横手から割り込むように飛び込んだ巨大な霊力球が火球と激突。彼女の眼前で誘爆した。
弾ける火球。それは意思を持っているように荒ぶり、炎を撒き散らす。火の海と化し、周囲に存在する物を飲み込もうと悶えた。
咄嗟に腕で顔を覆ったレイカの前で、オレンジ色の光が弾けた。彼女を守るように、ドアほどの大きさを持つ霊力壁が具現化。
しかし、荒ぶる炎は止まらない。霊力壁へ直ぐさま、幾筋もの大きな亀裂が走った。
言葉を失い硬直するレイカ。そこへ飛び込む黒く大きな影。彼女は僅かな痛みと共に、奇妙な浮遊感を感じていた。
紅蓮の炎は誰を飲み込むことも出来ず、がっかりしたように力を失い消滅。ローブの男は、その光景を黙って見つめていた。フードに隠された顔は感情を伺うことはできない。
「何者かの気配を感じていたが君だったとは。珍しい客人だな……」
男から距離を取り、壁を蹴りつけた黒い影は音も無く着地する。そして、口に咥えていたレイカの体を床へ降ろした。
「あんたに会うのは、新型の蜂を分けて貰ったとき以来さ。一ヶ月ぶりかね」
「あなたは黒豹の悪魔……」
レイカは恐る恐るその姿を見上げた。神格を解放した巨大な黒豹の体長は五メートル以上。その背にまたがれる程だ。
「我が輩の邪魔をする気か? 返答次第では、そこに隠れている小娘もろとも排除するが」
男は破壊された魔空間の先へ広がる現実空間へ目を向けている。
「やっぱり感付かれていたようね。シーナ、あなたが勝手に飛び出すからよ。その人は、いなくなっても構わなかったのに……」
溜め息をつきながら魔空間へ入ってくる一人の少女。それを見たレイカは、あまりの驚きに切れ長の瞳を見開いた。
「ミナ! どうして!?」
そこに現れたのは姿を消したはずのミナ。装飾銃を手に、ゆっくりとレイカへ近付く。
「あなたを消すため。と言ったらどう?」
微笑みながら、男物のワイシャツを身に付けた彼女を窺う。
「素敵なお召し物ね。彼の部屋で初めて迎えた朝。そんなコンセプトですか? 随分酷い目に遭ったようですけど、いっそメチャクチャにされたら良かったのに……」
「どうしてそんな風に言うの?」
レイカは驚きと嫌悪の色が滲んだ瞳で、悪意に満ちたミナの顔を見つめた。
「そうすればきっと、汚れたあなたにカズヤは失望する。私の下に帰ってくる」
「あんたたち、お喋りは後にしな!」
黒豹は、ローブの男を警戒して叫ぶ。
「で、勝算はあるのかしら?」
「あんたが本気を出せば、少しはやり合えると思ってるんだけどね」
その言葉に、ミナは意識を研ぎ澄ませた。
「A-MIN、解放!」
瞳が淡い水色へ染まる。背中まで伸びる艶やかで美しい黒髪は、ペンキでも被ったように頭頂から濃紺へ変色。体を覆っていた青白い光が体内へ吸い込まれると同時に、内包する力が爆発的な高まりを引き起こした。
「ほう」
ローブの男は物珍しそうに眺める。
「これだけじゃないわ」
ミナは勝ち誇ったように、視界の片隅で身を起こした風見を見た。
「B-QUEEN、解放!」
直後、ミナの足下へ黒い瘴気が渦巻いた。それは螺旋を描いて頭上へ上り、後頭部へ大きな蕾を形作る。それが開花するように弾けると同時に、霊力がさらに強さを増した。
「どうして君がその力を!? しかも、A-MINとの多重展開なんて……」
信じられない光景に取り乱す風見。
「学校での戦いでシーナに打たれたのよ。目覚めた時に新たな力が宿る。望みを叶えたいなら私の下へ来なさい、ってね」
その言葉に拍手をするローブの男。
「素晴らしい。被験者が二人も! 蜂の研究は途中だが、貴重なデータが得られそうだ」
黒豹が牙を剥き出して唸る。
「あんたは女王蜂を改良して、闇蜂なんてものを造ろうとしてる。おまけに、あの魔人。新しい戦力を補充して、地上と霊界を手に入れようって魂胆だろう?」
「我が輩へ付いたように見せかけ、情報を盗んでいたか。やはり君たちには闇蜂を与えるべきではなかった。戦神の眷属も完全排除か」
男は、肩を揺らして忍び笑いを漏らす。
「ジュラマ・ガザードを崇拝し、復活を待ちわびる戦神は愚か者だ。奴の時代はとうに終わった。新しい王は我が輩だ」
「ミナ。それから風見って言ったね? あんたも手を貸しな。そこのお嬢さんは魔空間の外へでも避難するんだね」
ミナはレイカの顔を窺った。
「ですって。この制約さえなければ、私があなたを消してあげるのに……」
さも残念そうに言うミナへ恐怖さえ感じ、レイカは魔空間の出口へ走った。
未だかつて見たことのないミナの姿に、困惑と身の危険を覚えたレイカ。風見がそうであるように、闇蜂という未知の力が影響していることは明白。彼等の運命は、たった一匹の蜂によって大きく歪められてしまったのだ。
取り乱し、心の行き先すら見失っていた。どうしていいのかも、どこへ向かっているのかも知れない。ただ、この歪んでしまった運命を引き戻すための救いを求めて走った。
色彩を取り戻した世界へ飛び出した彼女は、そこで何かに衝突した。その勢いに、彼女も床へ横倒しになる。
「いったぁ……」
床に手を突き、顔を上げたレイカ。直後、涙が溢れ、心は喜びと安堵で満たされてゆく。
急に全身から力が抜け落ちた彼女は、倒れそうになるのを必死に堪えていた。待ち焦がれた救世主が今、目の前にいる。
「カズヤ君……」
「レイカ先輩。無事だったんスね?」
いたわるような優しい微笑み。しかし、レイカが着るワイシャツを見て、カズヤの顔が困惑へと変わる。
それは彼自身の単なる嫉妬。自分より先に彼女を助けた者に対する嫉みだ。
「でも、無事で本当によかった……」
カズヤは、レイカの赤くなった頬を見て顔をしかめた。彼女の頬へ触れようと、その手を伸ばした時だった。
「いやっ!」
レイカの脳裏へフラッシュ・バックする江波の姿。咄嗟にその手が払われた。
「先輩……」
呆気に取られるカズヤ。レイカは震える体を抱き、慌てて彼を見た。
「ごめん、違うの! そんなつもりじゃないのに……ごめん……怖い事を思い出して……」
ボタンの千切れたブラウスを思い出し、彼もそれ以上の言及を避けた。もっと早く助けに行ければと、自責の念が心を締め付けた。
「カズヤ君。シュンとミナを助けて! 二人ともこの先で戦ってる。悪魔の使う蜂の力で、おかしくなってるの!」
「ミナがいるんスか!?」
驚きに目を見開くカズヤ。
「うん。黒豹の悪魔と一緒に。たぶん、悪魔と何かの契約をしてるみたい」
「大丈夫。後は任せてください」
中腰のカズヤは、ポケットから霊撃輪を取り出した。彼女の左手をそっと手に取り、本来なら中指へ填めるはずのそれを薬指へ通す。
「あ……」
レイカが小さな声を上げた。それはカズヤが試みた大人への憧れ。
「ここにいてください。全部終わらせて、必ず迎えに来ますから!」
そうして、眼前に広がる魔空間を見据える。
ここにミナがいるのなら、責任の一端は自分にある。彼女に対する罪の十字架は未だ背中から抜けることはない。何としてでも止めてみせると心に誓った。
歩き出した彼の視界に飛び込んだのは、黒いローブを纏った男。それを目にした途端、心臓が大きく脈打ち、体中の血液が逆流するような感覚に襲われていた。
(カズヤ。今すぐに代われ!)
思念はいつも以上に厳しく険しい。有無を言わせない、怒りと決意を秘めていた。
思念を交わさずともカズヤにも伝わっていた。あの男がそうなのだと。
「限界突破。モード狂戦士!」
ゼノと入れ替わったカズヤの体へ凄まじい霊力が満ち、青白い光が立ち上る。
立ち止まると両拳を握り、顔の前でバツの字に組む。腰をわずかに落とし両足を踏ん張ると、体を取り巻く霊力が更に密度を増した。
「神の左手。悪魔の右手。覇王の両目を抱きし魔竜。深淵漂う力を結び、闇を滅する刃と成さん」
詠唱が完了し、腰の位置へ握り拳ほどの黒い球体、門が出現する。迷わずに右腕を突き入れるゼノ。そこから取り出したのは大剣、斬魔剣エクスブラッドだ。
ゼノはそれを肩へと担ぎ、モノクロの世界を険しい形相で睨んでいた。
その目に宿るは積年の恨み。切望する因果の終焉。そして、あの日のあの場所で、彼女を救えなかったという無念と後悔。それら全てを清算する機会がついに巡ってきたのだ。
「闇導師ゴライアス! てめーをここで、ぶった斬る!!」
魔空間を揺るがすほどの怒声が響き渡った。