魔族と契約してみるはなし
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今や開かずの扉と成り果てた分厚い石扉へ寄りかかっていた背中に、するりと入り込んだ腕が腰を抱く。
妙に慣れた手つきで引き寄せられ、手の平で両目を覆うよう上向かされるまでがあっという間のこと。
控えめに唇へ触れた温もりは、とりあえず一瞬で離れた。
「契約って、粘膜経由?」
「そうだけど……そういう言い方すると身も蓋もないなぁ」
契約を結ぶため、必要なことなら仕方がない。
そういう納得と、単なる肉欲が半々。薄く口を開いて舌を見せると、腰を抱く腕に力がこもる。
「少しでいいから、飲んでね」
相変わらず、両目は塞がれたまま。二度目の口付けは、最初のものと比べて遥かに長くなった。
「んぅ……」
キスができる相手の唾液を飲むことに抵抗はないのだが。今回、マルドゥクに口移しで飲まされたのは単なる唾液ではなく、むしろ『唾液混じりの熱』で。
事前の予想から外れた展開に、手の平で覆われた目元をしかめながら。それでも――固形物というわけでもなかったから――流し込まれた何もかもを余すことなく飲み干すと、唾液とともに飲まされた『熱』はゆっくりと食道を伝い落ちていき、胃の底を抜け骨盤のあたりにわだかまった。
その『熱』が更に体中をはいずるよう広がり、体幹から身体の隅々にまでくまなく行き渡ったところでようやく、お互いに濡れそぼった唇が離される。
「――終わり?」
「とりあえずはね」
腰を強いくらいしっかりと抱いていた腕が緩むと、手の平の目隠しも外れ、下りてきた指先が唾液まみれの唇を拭っていった。
「これくらいだと、せいぜい『仮契約』ってところだけど」
この仮想空間に設定された年齢制限を思えば、『本契約』の方法は想像に難くない。
もちろん『それ以外』の契約方法も用意されてはいるだろうが、NERO-Zの仮想空間で有性のNPCが契約云々言い始めたら、大抵の場合一番手っ取り早い締結方法は肉体関係を持つこと――すなわち、性交渉――だ。
「終わらせなくていいの?」
「この方法だと時間がかかるよ? 何回かに分けた方が君の負担が少なくていいと思うけど」
「すぐ終わる『これ以外』の方法もあるんでしょう?」
「あるにはあるけど……」
少々背中が痛いのを我慢して、『仮契約』なんて中途半端な状態から脱せるのなら安いもの。
そんな私の考えの甘さを、マルドゥクはちょっとした困り顔でやんわり指摘した。
「流血が伴うと、たとえ合意の上だろうとフォルトゥーナの暴力規制にひっかかると思うんだよね」
「あぁ……」
なるほど。
神が用意した安全地帯で、爛れた行為はご法度らしい。
「君が『どうしても』って言うなら、試してみてもいいけど……」
「いや、言わないから」
「そう?」
「そう」
「よかった」
明らかに心からのものではないとわかる薄っぺらい笑顔を浮かべながら、マルドゥクは拾い上げた私の手の甲に唇を落とした。
拾われたのは《因果の指輪》の模造品がはまっていない左手で、リップ音とともに離れた唇が触れていた場所には、皮膚の下から滲むよう複雑な模様が浮き上がってくる。
「それは?」
「僕の紋章式。まぁ所有印みたいなものだと思ってくれていいよ」
「それにしては、ちょっと派手すぎない?」
「大丈夫。君と僕とそれなりの魔族にしか見えないから」
それはそれで、所有印としては意味がないようにも思えるのだが。さっきまでと打って変わって、マルドゥクの表情はそこそこ満足気だ。
独占欲が満たされて……というよりは、毛嫌いしている神々の一柱から名実ともに私というマレビトの一人を奪い取ることができた、事実そのものに機嫌をよくしているのだろう。
「あんまり遅くなると外で待ってる神殿関係者に怪しまれそうだし、そろそろ出ようか」
そういえば、色々と予定外なことが起きたせいで随分と時間をくってしまっている。
何の問題もなく『支援妖精の創造』に成功した場合にどの程度時間がかかるのか、失敗した私には知る由もないが。少なくともマレビトである私よりはこの世界の事情に精通しているマルドゥクが『そろそろこの部屋を出た方がいい』と考えるくらいだから、ほぼ同時期に別の儀式場へ入って行ったうたかたが未だに事を終えていない……なんてことはまずないだろう。もしかすると、順番待ちをしていたシスまでもが、既に真当な支援妖精を得て儀式場を出ている可能性すらあった。
二十人中五番目に儀式場へ入り、出てくるのは最後……なんて悪目立ちの仕方は、私の望むところではない。
「私の支援妖精はどうするの?」
「僕がそうだと言えば、誰にもバレないよ」
「その身成で……?」
暗に『妖精を自称するには無理があるだろう』と胡乱げな目を向ければ、マルドゥクはいかにも『心外だ』と言わんばかりに顔をしかめて見せた。
「言っておくけど、『妖精』っていうのは『人に似た、人ではない、人に奉仕するためだけに創造された人工生命体』のことを君たちマレビトが受け入れやすいようそう言ってるだけだから。容姿の決定には《因果の指輪》を持つマレビトの趣向もある程度は反映されるけど、まず『主人であるマレビトと生殖可能な個体』であることが大前提なんだよ。――だから、『僕』が『君』の支援妖精であることを不審に思うような人間は、この世界中どこを探してもいるはずがない」
そういう重要な情報は、せめて名付けの前に教えてくれないと。危うく『きさら』なんて可愛らしい支援妖精(♂)を創造してしまうところだった。
まぁ私の場合、マルドゥクという自称高位魔族の登場で『支援妖精の創造』そのものが失敗してしまっているので、今更といえば今更な話。結果オーライと言えなくもない。
「そこまで言うなら、信じるけど……」
「なんでそこだけちょっと疑ってるのさ」
他のことはなんでもすんなり信じたくせに……と、不満気な口振りとは裏腹に、何故か心底おかしそうに笑っている。マルドゥクは「いい加減、本当に怪しまれるよ」と話を切り上げて、私の肩越しに手をかけた開かずの石扉を、いとも容易く開け放ってみせた。
途端、それまで薄暗かった儀式場に、廊下から真昼のような明るさが飛び込んでくる。
一瞬の眩しさに目を覆う私の手を引いて儀式場を出たマルドゥクは、短い廊下を奥の階段目指して進んでいった。
廊下に他のマレビトの姿はなく、奥の部屋にもそれらしい人の気配は感じられない。
六つある儀式場のうち三つは未だに『使用中』だが、私のようイレギュラーな事態にみまわれでもしていない限り、シスとうたかたはとうに支援妖精の創造を終え、先へと進んでいることだろう。
「上には何があるの?」
「大したものは、何も。雨除けの建物があるくらいかな」
「『神殿関係者』が『外で待ってる』って言ってなかった?」
「『フォルトゥーナの聖域の外で』ね」
ほんの一階分しかなかった階段を上り終えると、そこは家具の一つも置かれることなくがらんとした建物の中で。
私たちマレビトが最初に目覚めた石棺のある部屋や儀式場をこの建物の主要素とするなら、確かにこの『何の役割も持たない構造物』は単なる『雨除け』でしかないのだろうが、その雰囲気はちょっとした納骨堂のようでもあった。――その場合、地下の石棺から這い出てきた私たちマレビトはゾンビか不死者の類ということになってしまうので、まったく縁起でもないことだが。
丸い床と、垂直に伸びる壁と、緩く弧を描く天井に、地下への階段。
それ以外に目ぼしい物は何もない。そんな場所に長居をする理由はなく、扉さえ備え付けられていない『出入口としての開口部』から外へ出ると、そこはどこかの草原で。その只中に、納骨堂モドキは隣接する建造物もなく『ぽつん』と建てられていた。
少し離れた草原の途中には『神殿関係者』らしき人の群れ。その向こうには、幾重にも重なる城壁を備えた巨大な都市が、遥か天を衝かんばかりの勢いでそびえ立っている。
「――遅かったねぇ?」
そして。
気にかけていた二人の『仲間』は、西洋の納骨堂を思わせる建物のすぐ外で私のことを待っていた。
「ちょっとした『ハプニング』があって」
もちろん、二人とも自分の支援妖精を連れているから、人数は単純に倍加している。
うたかたが『朧』と名付けた支援妖精はすらりと背の高い男性で、シスが『プル』と名付けた支援妖精はシスより頭一つ分以上背の低い少女だ。
ただしプルの場合、着込んだローブと深く被りこんだフードせいで、はっきりとしたことは身長くらいしかわからないのだが。男性型アバターを使っているシスの支援妖精が同じ男性型ということもないだろう。
支援妖精といえば――
「その関係で、私の支援妖精は『マルドゥク』になったから」
一応の用心として、私が自分の支援妖精に『姫更』と名付ける場面に居合わせた二人には、それとなく釘を差しておく。
『詳しい事情は後で』
それくらいの示し合わせは、目を合わせるだけで事足りた。
(魔族と契約してみるはなし)