第二十章 治子哀れ
天翔学園高等部の音楽室前で、生徒会長の手塚治子と道明寺かすみが睨み合っていた。最後まで惚けようと思っていた治子だったが、言い逃れができない状況でかすみに居場所を捕捉されたため、戦うしかないと判断した。
「道明寺かすみ、貴女は私の後ろに誰がいるのかわかっているの?」
治子は勝ち誇った顔で言いながら、楕円形の眼鏡を外して制服のポケットにしまった。
「貴女の後ろ?」
かすみは予知能力を応用して治子の背後にいる人物を探ろうとしたが、まるで深い霧に阻まれたかのように何も見通せない。
(これはどういう事?)
かすみが採った方法なら、治子と関わりがある人間全てを障害なく見通せるはずなのだ。相手の意識を探るのではなく、相手が体験した事、あるいはこれから体験する事を見通すのであるから、それを阻む力など存在しないはずである。しかし、何故かそれが見えない。
「え?」
そして異能者としての本能が生命の危険を感知した。
「く……」
かすみは索敵を諦め、もう一度治子を見た。
(何、今の感覚は? あれ以上進むと確実に命を落とすと思うなんて……)
かすみはその感覚の意味が理解できない。
「どう? 見えた、私の後ろにいる方が?」
治子はニヤリとして即座に彼女の千里眼を全開にした。
(さあ、道明寺、仕掛けて来なさい。貴女なんか私の敵ではないのを思い知らせてあげるわ)
治子はかすみが瞬間移動をしようと予知能力を使おうと全て予測する自信があった。
(この人があの千里眼の使い手ね? だとすると迂闊に動けない)
かすみはゆっくりと治子から離れる。治子はそれを愉快そうに眺めているが、何もするつもりはない。
(私の能力に距離は関係ない。貴女を捕捉できれば、いつでも追い込める)
治子は自分の勝利を確信している。間違っても負けるとは思っていない。
その頃、天翔学園の理事長であり、治子のボスでもある天馬翔子はかすみが治子を通じて自分を探ろうとして中断したのを感じていた。
(さすがだ、道明寺かすみ。そのまま続けていれば、お前は死んでいた)
翔子はフッと笑うと、廊下を曲がり、歩を速めた。
(仮にお前が私に辿り着いても、時限爆弾は解除するつもりだったけどね。お前は私にとって商品だ。死なせる訳にはいかないのさ)
彼女は校舎の端まで来ると、「関係者以外立ち入り禁止」のプレートが貼られたドアの鍵を開け、中に入った。
「さてと。もう回復したかな、平松誠」
翔子は右の口角を吊り上げ、薄暗がりの廊下を更に進む。
(お前の噛ませ犬としての役割はこれからが本番。ロイドより、警視庁公安部の森石章太郎の方が厄介なんだから)
彼女は明かりが漏れている部屋の鋼鉄製のドアを押し開いた。
「理事長、どうして私にこんな事を……。SMプレイは嫌いではありませんが、貴女とはもっとノーマルな恋愛を楽しみたい……」
両手首に鉄製の枷を着けられ、天井から吊るされた状態の平松が翔子に気づいて言った。彼はトランクス一枚の半裸状態である。銀縁眼鏡はだらしなくずり落ち、いつもきちんと七三に分けられていた髪はクシャクシャだ。しかし、正体不明の異能者であるロイドに鶴嘴を突き通された腹の傷はすでに僅かな痕跡を残すまでに回復していた。翔子は汚物を見るような目で平松を見上げると、
「お前は我が奴隷。対等な立場でないのを理解しろ、愚か者め」
「そんな……」
平松は泣きそうな顔になった。翔子はゆっくりと彼に近づき、
「但し、私を虐める奴を退治してくれれば、対等な立場にしてあげてもよくてよ、教頭先生?」
胸の谷間を強調し目を細め唇を突き出すようにして言う。平松は翔子の動きに「発情」してしまった。
「な、何でもしますから、貴女の奴隷でもいいですから、一度だけ貴女に……」
平松は興奮状態で叫んだが、翔子は部屋の隅にあるテーブルの引き出しからスタンガンを手に取ると、彼の股間に押し当てた。
「ひいい!」
それが何なのかわかった平松は途端に黙り込んだ。
「下品な事を考えるなと言ったろう? 学習能力がないのか、お前は?」
平松を鼻で笑うと、翔子はスタンガンをテーブルに戻した。
「も、申し訳ありません、理事長」
平松はすっかり落ち込み、項垂れてしまった。翔子は再び平松を見上げ、
「ではお前に行ってもらいたい場所がある」
翔子の声に平松は虚ろな目を上げ、
「どこ、ですか?」
蚊の鳴くような声で尋ねた。翔子はニヤリとして、
「警視庁さ」
と応えた。平松は何をさせられるのか不安になり、顔を引きつらせた。
かすみと治子の心理戦はまだ続いていた。
(少しは頭が良さそうね。考えなしに突っ込んでは来ないか)
治子はかすみが一瞬も気を緩めずに自分を見ているので、ニッと笑った。
「私が怖いの、道明寺? さっきここに現れた時の勢いはどうしたのかしら?」
治子はかすみを挑発して仕掛けさせる作戦に出た。
「貴女は千里眼の持ち主。うっかり動けば、行動を見抜かれて痛い目に遭うのくらいわかるわ」
かすみは治子の嘲笑にキッとして言い返した。
「そこまでわかっていながら逃げ出さないのはどうして? 何か企んでいるんでしょう?」
治子はかすみの制服のボタンを弾きそうなほど豊満な胸に嫉妬していた。
(何よ、あの胸は? 本物なの?)
治子の胸は小さくはないが、かすみに比べると貧弱なのを感じるのだ。
(それにあのスカートは何? 短過ぎるわ!)
妙なところで生徒会長としての律儀さが出てしまう。かすみは治子が急に怒りの感情を露にしたので、
(どうしたのかしら?)
理由がわからず、眉をひそめた。
「私の後ろにいる方はとても偉大な方なの。その方が貴女をご所望なのよ」
治子が急に語り出したので、かすみはますますわからなくなった。
(この人の感情は何? 嫉妬? 何に対して?)
まさか大き過ぎる自分の胸と短過ぎる自分のスカートが原因だとはさすがにわからない。
「でも、私の方があらゆる面で貴女より優れているわ。あの方は貴女を殺してはいけないとおっしゃったけど、もう関係ない。貴女は殺す!」
治子の千里眼の力がかすみに集中し始めた。
「ぐ……」
千里眼は決して攻撃能力ではない。かすみの予知能力と同じで、防衛能力である。通常は相手を攻撃する事はできないのであるが、使い方次第で相手を倒す事もできるのだ。治子の力はかすみの脳に圧力をかけられるほどに集束されている。
(何て力なの……。千里眼を攻撃に応用できるなんて……)
予知能力の力を壁のように張り巡らせているにも関わらず、かすみは眩暈を起こし、思わず片膝を床に着いてしまった。
(このままだと本当に殺されてしまう……)
彼女は意を決して瞬間移動をした。
「無駄よ、道明寺! どこへ逃げようともすぐに見つけるわ」
治子はかすみが移動の時思い描いた場所を把握し、力をそちらに振り向けた。
「くう……」
治子の攻撃を受けたせいなのか、かすみが現れたのは先程いたところから数メートルしか離れていない廊下の先だった。
「瞬間移動も脳を攻撃されてはままならないようね、道明寺?」
勝利を確信した治子が高笑いをした。かすみは飛びそうになる意識を何とか保ちながら、治子を睨んだ。
(何か方法は……)
しかし脳を圧迫されているために思考が正常に働かない。
(ダメ、なの……?)
目の焦点が定まらず、治子が二人に見えて来る。そして遂にかすみは意識を失い、倒れた。
「これ見よがしなその胸と脚を切り刻んでからあの世に送ってあげるわ、道明寺かすみ!」
治子は血走った目でかすみを見下ろし、ゆっくりと近づき始める。
「む?」
その時彼女は別の能力者の力を感じた。
(これは……?)
次の瞬間、彼女を業火が襲った。その攻撃を読んでいた治子は素早く動いてかわし、振り返った。業火は幻だったかのように廊下の先で消滅した。
「道明寺は殺させないぞ、手塚」
そこには発火能力の使い手である坂出充がいた。
「腰抜け先生、戻っていたの?」
治子は坂出を嘲笑った。しかし坂出はその挑発には乗らず、
「使い走りのお前如きに何を言われても気にならないよ」
続けて業火を指先から連続で放った。
「何だと!?」
挑発したはずが挑発し返され、治子の顔が怒りで赤くなった。
「誰が使い走りだ!? この私によくもそんな事を!」
治子は業火をかわしながら、千里眼能力を坂出に向けた。
「く……」
坂出は目に見えない攻撃を受け、戸惑った。
(これが手塚の力、か?)
それでも彼は業火を放ち続けた。しかし治子はそれを簡単にかわしてしまった。
「無駄だよ、キモ先生! あんたのような下っ端に私が倒せるとでも思ったのか!」
奇麗な顔立ちが見る影もない治子を見て、坂出は彼女を哀れんだ。
(この子もまた奴の犠牲者なのか?)
彼はまだ平松がボスだと思い込まされているのだ。そんな思いすら打ち砕くような治子の攻撃が坂出の脳を圧迫する。
「ぐうう……」
彼も耐え切れなくなり、廊下に倒れてしまった。治子はそれを見て狂喜し、
「愚か者め! 下っ端がつまらない考えを持つからそうなるんだよ!」
坂出は霞む目で治子を見上げ、
「自分が一番だという事か? それ以外は皆下っ端か……?」
治子は坂出に近づくと彼の顔を足蹴にし、
「そうだよ! 私が一番さ! あの方以外、私を超える存在はない!」
坂出は踏みつけられる痛みに堪えながら、
「哀れだな、手塚。お前もまたあいつの手駒に過ぎないのがわからないとは……。いずれはお前も奴に殺される」
「うるさい!」
治子は脚を大きく上げ、力任せに坂出の顔を踏みつけた。
「ぐう……」
激痛で坂出は呻き、口から血を流した。
「手駒はお前だよ、坂出! 私は手駒じゃない! 私はあの方のお気に入りだ! 一緒にするな!」
治子は坂出に怒鳴りつけるのに夢中になり、近づいて来る者に気づいていなかった。
「私の周りにいる連中はみんな私の手駒さ。私があの方に気に入られるためのな! 安倍秀歩も、片橋留美子も!」
そこまで叫び、治子は背後に気配を感じて振り返った。
「酷い……」
そこには涙を流している留美子が立っていた。治子はギョッとして後ずさった。
「る、留美子、来てくれたのか。もう片がつく。大丈夫だ」
そう言いながらも治子は留美子に話を聞かれていたのを感じ、何とか彼女を宥めようと思案を巡らせた。
「許さない。ずっと私を騙していたのね?」
留美子の目が鋭くなったのを見て、治子は宥めるのをやめた。
「お前は私の手駒なんだよ、留美子! 逆らうつもりか!?」
治子は千里眼の力を留美子にぶつけた。しかし、留美子は何事もなかったかのように近づいて来る。
「無駄よ、治子先輩。貴女は私に自分の力が通じないから、私を懐柔して味方にしたんでしょ?」
留美子は感情のない声で言った。治子の顔が引きつった。
「どうしてそれを……?」
留美子が知っているはずがない。治子は焦っていた。
「私にも先輩ほどじゃないけど透視能力があるの。だから、さっき覗いたの」
留美子は治子が坂出をいたぶっている時、彼女の心を透視したのだ。その前に聞き捨てならない言葉を聞いたから。
「うわああ!」
治子は留美子の力をよく知っている。だからこそ彼女を心理的に縛って従わせて来た。それができない今、留美子は強敵である。治子は転がるように廊下を走り出した。逃げても無駄だと思う事すらできずに。
「逃がさない。そして、許さない!」
留美子の力が治子に向けられた。廊下の先にある消火器が飛び出し、治子に襲いかかった。
「きゃああ!」
治子はそれを背中に食らい、前のめりに倒れた。
「許して、留美子、ごめんなさい、お願い……」
治子は涙を流して捲れ上がったスカートからイチゴ柄のパンティが丸見えになっているのも気にする事ができず、廊下を後ずさる。
「ダメ。私は先輩のせいで鼻を折って、前歯をなくした。許せない」
次に治子の頭上の蛍光灯が破裂してその破片が降り注いだ。
「いやあ!」
破片が顔や手や脚のあちこちに刺さり、治子は悲鳴を上げた。
「死んでください、先輩!」
留美子は最後に廊下の窓ガラスを割り、ナイフのように鋭い破片を治子に向かって飛ばした。
「いやああ!」
治子は絶叫したが、逃げ出す事ができない。
「あ……」
治子が切り刻まれるのを見るつもりだった留美子は唖然とした。治子とガラスの破片の間に縦横五十センチほどの板が現れ、全部受け止めてしまったからだ。
「ダメよ、片橋さん。この人が憎いのはわかるけど、命まで取ってはダメ」
かすみが意識を取り戻し、瞬間移動して廊下の壁に掛けられた掲示板を楯代わりにしたのだ。かすみは治子が気絶し、失禁までしているのに気づいた。
「もう十分仕返しはしたでしょ?」
かすみは微笑んで留美子を見た。留美子はかすみの笑顔が眩しくて、俯いてしまったが、
「うん……」
と応じた。
新堂みずほは、かすみに言われて警視庁に来ていた。正面玄関で応対した警官に森石の名刺を見せ、
「道明寺かすみさんに言われて来ました」
と告げると、丁重な物腰で奥に案内され、応接室らしき部屋に通された。それでもみずほは学生時代のトラウマになりかけた一件を思い起こし、警戒して出されたお茶を飲まなかった。
「お待たせしました」
そこに現れたのは、大柄で細身で丸刈りの三十代前半くらいの男だ。黒のスーツを着ていて、目つきが鋭い。
(でもちょっとイケメンかも)
みずほは思わずそんな事を考えてしまった。落ち着いてきた証拠だろう。
「天翔学園高等部の先生だと伺いましたが?」
男は怪訝そうな顔でみずほを見ている。
「ああ、すみません、私、新堂みずほです」
みずほは慌ててソファから立ち上がり、名刺を差し出した。男は苦笑いをした。
「自分が森石章太郎です。道明寺かすみに言われて来たと聞きましたが、彼女に何かあったのですか?」
森石はみずほに座るように促すと、向かいのソファに腰を下ろした。