帰る旅
とんでもないことになった。
こんな人里離れた場所で足をくじいてしまうとは。
小田洋伍は初めて「命の危険」を身近に感じて、膝下の震えに耐えながら変な方向に曲がった右足首を動かしてみたが、とたんに激痛が走り、冷や汗がどっと額を流れ落ちた。
山道に迷って四時間、沢の水をせめて水筒にためようと、水音のする方に熊笹の中を降りていったら足が笹で滑り、そのまま沢まで滑り落ちて川石に思いきり足をぶつけてしまったのだ。
山間に陽が落ちてすっと闇がのしかかってくると、あたりを取り巻いていたツクツクホウシの声も寂しげに間遠になってゆく。
ソロキャンパー兼、狩猟免許取りたての新人猟師としては、三度目の山入りだった。
なるべくファミリーキャンパーのいない、沢のある、つぶれたキャンプ場のようなところを探してテントを立て、ここ何日かで狩ったうさぎや山鳥、川で釣った魚をビールとともに晩飯にする。
去年妻の浮気が原因で離婚してからの趣味だった。
だが、拠点とした廃キャンプ場から離れて獲物や山のキノコを探しているうちに、すっかり道に迷ってしまったのだ。
群馬県上野村の山中というと、あの日航機123便が墜落した御巣鷹山もそう遠くない。何でこんな場所を選んでしまったのかと後悔するも、もう遅い。
山で道に迷ったら下へ行くより上へ行け、と聞いてきたが、水だけは手に入れないと生きていけない。日もくれたので今は涼しいが、迷ってからかいた汗の量は一リットルはあるのではないだろうか。水筒の水はとうに空だった。
今は動くのをあきらめるとしても、せめてせめて水を。
這うようにして沢に近づき、水筒を沢の水に浸して、ついでにごくごくと飲む。
食料は拠点に置いてきてしまった、もう食うものは残っていない。常備食料のチョコレートと飴は、今夜もっと更けてから食べることにして、今は焦らずに明るくなるまでこの岩場で過ごそう。というか、居心地はよくないが、事実この場から一歩も動けないのだ。
くそ、なんであんな馬鹿なことをしたかな。洋伍はほんの四時間前の軽率な行動に歯噛みした。
せっかく持っていた高カロリークッキーを、たまたま出くわした鹿なんぞにくれてしまったのだ。
その時はまだ迷っておらず、キノコの豊富な松林に向けて山道を歩いていた。すると何かバリバリと音がするのに気が付いた。
山の中で聞く音は全部怖い。どんな獣がいるかわからないからだ。熊だったら最悪だ。
一応猟銃を持ってはいるが、とっさに弾を装填して狙いをつけて命中させられるほどまだ手馴れてはいない。
すると、一本の杉の影から鹿がひょこっと顔を出した。
「なんだ、鹿か」
一応猟をして得た肉を食うという心づもりであったが、その鹿と目が合ったとたん、熊でなかったという安堵感と真っ黒に済んだ鹿のつぶらな目に、つい心を許してしまったのだ。
「まだ若いな。バンビちゃん、木の皮をはいでいたのか、だめだぞ、そんなことして山を荒らしちゃあ。犬を連れた猟師が鹿狩りに来ても知らないぞ。と言っても俺も似たようなもんだがな。まあ、今日は見逃してやるよ。これ、食うかい」
あれはどんな仏心だったのだろう。まずそうな木の皮よりうまいものを食わせてやろうという気まぐれ。男は鹿に貴重なクッキーを差し出した。少しでかいと思って、半分に割ってまで。
鹿は鼻面を伸ばしてクンクンと臭いをかぐとすぐ、バリバリと美味しそうに食べた。そして首を振ってまだ欲しそうにするので、残りもやった。
「さて、行くか。もう俺と会わないことを祈っとくよ。明日もし会ったら、俺はお前を明日の夕食にしちまうかもしれないからな。世の中、非情なんだぞ」
よくもいったもんだ、あの鹿は今は元気だろうが、自分はここで死ぬかもしれない。スマホはもちろん、圏外だ。
いっぱし狩人のつもりでいたけど、今夜は自分が野犬か熊の餌になる運命かもしれない。
仕方ない、人里に出た熊が柿を食っただけで仕留められるように、野生動物のエリアに入った自分が彼らに狩られるのもまた運命だ。いや、そうじゃなくちゃフェアじゃないよな。
無理やり、震える自分に言い聞かせる。
陽がすっかり落ちてあたりは暗闇に包まれた。
さらさらと水の流れる音、キツツキが幹を叩くようなココココ、という音、ぎいーッという鳥の声、岩にかつんと石が当たるような音、昼間のセミに代わってコオロギの鳴く声。これがテントの中で聞く音だったらどんなに安らかな夜だっただろう。
だが自分は今、身を守るものとてなく、ただ使い慣れない猟銃とチョコレートと水を抱えて夜の山のただなかにいる。ただひとつ、頭上で煌々と青白い光を放っている月が、ことのほか明るく、岩に落ちる自分の影さえ見えた。
ごうごう、と遠い音がして、テールランプを光らせた飛行機が頭上はるか上を飛んでいく。ここは航路にあたるのかな、それとも123便の幽霊か……
恐怖を紛らわせるためにあれこれくだらない方向に思いをめぐらせたが、彼は現実を受け止めようと決心した。こんなところを通る人間はいない。きょう、いや正確にはおととい、この山に入ることは誰にも言っていない。くじいた右足首はどんどん腫れていく。腕に力を入れて半身を起こし、登山靴の紐を苦労してほどいた。靴の中でパンパンになっていた足を力を込めて引きずり出す。もうこの靴に足は入らないだろう。そして歩くことも動くこともできない。
つまり、そういう事態だ。
もうどうしようもない。あとは自分にわずかに残っていえる運に賭けるしかない。
考えてみれば、都会の薬臭い病室で孤独な老人になって一人死ぬより、こうして自然の中で誰にも看取られず死ぬのもありじゃないか、と無理やり考えてみる。だが、それもいい、と胸の中で返事をするには、四十歳という年齢はまだ若すぎたようだ。
何か考えていないといてもたってもいられなくなりそうだった。
彼は過去に思いをはせた。
女房の麗子に最初であったときはいい女だと思ったんだがなあ。
いや、自分にはもったいないような色気を持て余していた妖艶な女だったから、浮気も仕方ないか。
彼女はうちの会社の受付嬢だった。自分を相手に選んでくれた時はうれしかったものだ。だが後から聞いてみれば、あのときからもう、二人で通ったバーのマスターとできていたってことなんだよな。
思い切って自分から誘って飲みにいったら、彼女は意外に読書家で、高見順、埴谷雄高、石牟礼道子、北村透谷、読書傾向が自分と似ているのがわかった。そこにマスターも加わって三人で話が弾んだんだっけ。
酔いに任せて
「自分は本当は小説家になりたかったんですよ」と言ったら
「そうだね、アンタは見てくれだけは太宰治タイプだよ」とマスターに言われた。
麗子は笑って
「なれなくてよかったじゃない、小説家になって売れっ子になったらあなたなんか慢心して、どうか自分に芥川賞を、と巻きものみたいな長文を書いて師と仰ぐ小説家に迷惑かけてしまいに「ただ漠然とした不安が自分を襲う」とか言って服毒自殺しちゃうタイプよ」
「しまいの方芥川龍之介と混じってないか」
「両方いい男ってことでいいじゃないですか」とマスターにも笑われた。
妻の浮気は、バーの常連客からそれとなく伝わってきた。
万年係長の自分には、聞かなかったようなそぶりをするしかなかった。妻には、あなたの体が好き、本を読む横顔が好き、静かなしゃべり方が好き、とは言われたが、結局水商売という場の方が泳ぎやすかったわけだ。ろくな贅沢もさせてやれなかったからな。
離婚後は会社を辞め、ブティックで仕事をしていると聞いたが、マスターの口利きで、今はクラブで働いているらしい。
自分は一応外見はいい方らしい。面食いの彼女に選ばれるぐらいには。
顔と体で騙される女は多かったが、自分は見てくれに比べて中身が淡白すぎるのだ。おまけに出世しそこなった。仕事をしていても妻を抱いていても、どこか、なにもかもどうでもいい、という投げやりなところがあった。それでいて趣味が、山に入って動物を狩ること。これが俺の本能か。血を求める変態だったのか、おれは。
肉なんぞスーパーに行けば売っているのにな。
思えば親友ができたことも、本気で恋をしたこともなかった。こんな人生で終わるのか。せめて、熊にだけは食われない最後にしてくれ……
そのとき。
明らかに異質な音が、上の方から聞こえてきた。
がさり。がさり。がさり。
熊か?
いや、それほど大きなものの気配ではない。何かこう、人が歩くような、どちらかというとひそやかな音だ。だがそのひそやかな音ははっきりと、こちらに向かってくる。まるで、自分のことが見えているかのように。
これが人間なら助けを呼ぶべきか?
だが、何かが異様だ。こんな真っ暗な山の笹薮のほとんど崖のような急こう配を、滑りもせずにまっすぐ向かってくる。音の方を凝視しても、明かりは見えない。
だが、足音からはっきり分かったことがある。
動物ではない。二本足だ。
やがて、その「人影」は洋伍の三メートルほど右の岩に飛び降りた。
軽い音を立てて。
そして、岩の上に立って、じっとこちらを見ている。
細く、頼りなげな体のライン。膝ぐらいまでのスカート、ツインテールの髪。
冗談じゃない。これは……
少女じゃないか。
月明かりを背にして、黒いシルエットとなっている彼女の顔は見えない。やがて彼女は岩の上に腰を下ろすと、足の先を沢の水につけながら言った。
「おじさん、どうして家に帰らないの」
何もかもが現実離れしている。またあの、墜落した飛行機のことが頭に浮かぶ。いちいち関連付けるな、関係ない。
「沢にずり落ちて、足をくじいたんだよ。だから見ての通り動けないんだ」できるだけ冷静に答えてみる。
「聞いていいかな。君はこんな時間にここに、何しに来たんだい」
「わたしも、帰る道がわからないの。うちがどこか、わからないの」
「……」
冷静に、できるだけ冷静に。そう言い聞かせながら、洋伍は尋ねた。
「きみはいくつ?」
「それもわからない。忘れちゃった」
「ご両親は、きっときみを探して心配しているだろうね」
「お父さんはどこに行ったかわからないけど、お母さんは死んだの。わたしの目の前で。目を開けたまま、血だらけになってた。だから、心配してない」
「……」
「わたしにはもう、誰もいない」
「そこは、ぼくと同じだな。おまけに動けないし、食い物もない」
「おじさんも、一人ぼっち?」
「ああ。もう完全に一人ぼっちだ」
それからしばらく、少女と洋伍は、並んで月を眺めた。煌々とした光のせいで、むしろ周りの星が見えない。
「おじさん、動けなくて、食べ物もないなら、これからどうするの」
なにか童話のような聞き方をする少女だなと洋伍は思った。
「きみに助けてというのも無理そうだしな。このままなら飢えて死ぬしかないだろう。チョコレートならあるよ、食うかい」
「おじさん。わたし、チョコレートよりおいしいよ」
「……なんだって?」
背中をぞっと冷たいものが走った。
「わたしおいしいよ。食べたら、少し生きられるかもしれないよ」
「ふざけたことを言うんじゃないよ!」
初めて感じる恐怖と少女のたたずまいの異様さに、初めて洋伍は恐怖を覚えた。
少女は大きな美しい瞳で、じっとこちらを見ている。
「おじさんは、生きたらいいじゃない」
「きみは生きたくないというのか」
「わたしはもうこの世にいても仕方ないから、どのみち死ぬの。そうしたら食べてね」
「どうしてそんなに食べられたいんだ」
「おじさんに死んでほしくないから」
そうして、少女は洋伍の右足首に手を当てた。
そのとたん、異様な温かさが少女の手から伝わり、足がかあっと熱くなり、その熱は全身に広がっていった。途端に気が遠くなる。おさげの髪を垂らして下を向く少女の顔を見ながら、洋伍は思った。
そうか、これは夢だ。このまま眠りについて、目覚めたら自分はいつもの、あのしいんとした部屋の布団の中なんだ。ならもう、深く考えまい。これは夢だ。
「動ける?」
「え?」
「動いてみて」
そろりそろりと、洋伍は体を起こした。そして、恐る恐る右足首をさすってみた。なんてことだ、腫れが引いてる。右、左と足首を動かす。痛くない。これなら立てるかもしれない。何でもありか、夢だもんな。
「立てるようなら、立ってみて」
「ちょっと待ってくれ」
洋伍は用心深く、右足を登山靴につま先から入れてみた。痛くない。あまり抵抗もなく、足は靴の中に納まった。靴ひもを引き絞り、そろりそろりと体を立て直すと、二本の足で立ってみた。
立てる。両足を踏みしめた。歩ける!
「やったね。あとはもう、食料の問題だけだね。おじさんは生きられるね」
「あの、聞いていいか。きみはいったい……」
「……」
少女は答えなかった。
「月からでも来た姫君か。その髪型だとあれか、セーラームーン」
少女はくすくすと笑った。
だが夢は夢でも、自分の良心は通したい。
「きみにお礼をしたい。これでもとのキャンプ地にたどり着ければ、ぼくは生きられる。いや、夢から覚められる、のかな。きみの願いは何だい。ぼくにかなえられることはあるかな」
「わたしも、この夢から覚めたいの。それを手伝って」
「どうやって?」
「ちょっと川沿いにいったところにね、砂地があるの。スコップ持ってたら、そこに、わたし一人が眠れるぐらいの穴を掘ってちょうだい」
「そこで眠ると、夢から覚めるのか」
「おじさんがね、そこで掘り出した砂と土をわたしにかけてくれるならね、わたしはやっとゆっくり眠れる。そしたら、お母さんに会えるかもしれない。わたしの夢をかなえて」
「……わかった」
わかった、というのは正気の返事じゃない。そこは自覚している。洋伍はもうこれが現実であるという認識を捨てていた。
いったいいつからこの夢は始まったのか。山にソロキャンプをした時点から夢なのか、そうでないならどこからだ。この人生自体が夢なのか。
スコップはないので、洋伍は沢から拾ってきた流木で穴を掘り始めた。まるで海岸のように、砂が多くて掘りやすい。ざくざく、ざくざく。ざくざく、ざくざく。
ぎぃーっとまた山鳥の鳴く声がした。
カランカランと小石が川を流れてゆく。
汗が額を流れ落ちる。今、一体何時なんだ。さっぱりわからない。人一人を埋めるのに十分な穴を掘るのはそんなに容易ではなかった。水筒の水を飲みながら、もっと深く、もっと大きくと少女の指示を受けながら、男は穴を掘り続けた。
「……このぐらいでいいかい」
朝を告げる鳥がまだ鳴いていないころ、ようやく少女から「OK」のサインが出た。
間に合った、と男は思った。陽の当たる中でしたい作業じゃない。
「ありがとう。ゆったりだわ」
少女は満足そうに、まるでどこかの高校の制服のような服を着たまま、そこに身を横たえた。
「埋めて」
たった三文字の命令。だがそれは絶対だった。
これは夢だ、埋め終えればすべては終わる、と思いながら、洋伍は何のためらいもなく、板切れで、目を閉じた少女に土と砂をかけた。足元から、どんどんその姿が隠れていく。東の空が曙色になってカラスの声が聞こえはじめた、急がなくては。
最後の段階、少女の顔が見えなくなるあたりで、洋伍は我知らず叫んでいた。
「待ってくれ。待ってくれ。ぼくもきみの横に埋葬させてくれ」
少女はまだ埋められていない白い顔で聞いた。
「何のために?」
「もう二度とこの世で目覚めない、きみとともにいたい、そのためだ」
「どうしてそんなことを思うの」
「笑ってくれ、これは恋だ。俺はセーラームーンに恋をしたんだ。この世界で最後にあったきみに」
少女は笑顔で「どうぞ」と答えた。
洋伍は猛烈な勢いでもう一人分の空間を掘って、そこに横たわった。
問題はこのあとだ。
「何も考えていなかった。誰が土をかけてくれるんだ」
「もうすぐよ」少女は他人他人事のように言った後、目を閉じた。
合図のように、ぴぃーっという鳥の声が響いた。。
空が早朝の澄んだ色になって、あたりの木々や山肌の輪郭が確かになっていく。
しばらくして、猪、熊、狸に鹿に狐、山に住むあらゆる動物が現れて、鼻先で土をかけ始めた。
不可思議だとも何とも思わず、洋伍はただ、やった、と思った。
どさり。どさり。ばらばら。ああ、なんて心地いい音なんだろう。
この身は、土にかえる。生きたままで。何が怖いものか、この少女と一緒なら。
やがて土の確かな重みを感じると視界は真っ暗になり、呼吸が急に苦しくなった。
顔の上に土が重なってゆく。もう何も見えない。わずかな空気を求めて横を向く。少女はもう何も言わない。洋伍は手探りで少女の手を握った。弱弱しい力ではあったが、細い指が確かに握り返してきた。
おみやげを買わなくていいか
埴輪や明器のような副葬品を
この旅は
自然へ帰る旅である
帰るところのある旅だから
楽しくなくてはならないのだ
もうじき土に戻れるのだ
高見順の「帰る旅」という詩の一部が、順序もばらばらで頭に浮かぶ。
洋伍は少女の手を強く握り、
死んだか、もう死んだか、もう少し待ってくれと祈り続けた。
苦しくはないか。恐れることはない、急ぐことはない、もうじき土に戻れるのだ。
最初に見つけたのは、猟師だった。
山道を歩いていると、猟犬が沢に向けて降りて行って、吠えながら何かしきりに掘り返そうとしたのだ。よく見れば、不自然に新しい土が盛り上がっている部分があった。小さな古墳のように。
何か不吉なものを感じて沢へ降り、犬の掘るままに任せると、やがて人の顔の一部が見えてきた。猟師はしりもちをつき、すぐに警察に電話した。
鑑識も呼び、警察がていねいに掘り起こしてみると、中年の男性と、その傍に牝の若い鹿が横たわっていた。
男の手は鹿の前足を握っている。
一同、その異様さにざわめいた。
「鹿と心中?」
「じゃあ誰が埋めたんだ」
「てことは殺しか」
「ここに猟銃が転がってますけどー」沢周辺を調べていた若い警官が声を上げた。
「じゃあ、素人猟師か」
犬を連れて発見した猟師に尋ねても、地元の猟友会にはこの男は属していないという。
やがて2キロほど離れた廃キャンプ場に、男のものらしい一式が見つかった。
古い型の車。狩猟道具、釣り道具、干し肉、米その他が積んであり、近くにはテントが張ってある。そしてリュックの中からは、マイナカードと運転免許証。
「やはりソロキャンパーだな、狩猟免許は持ってるのか」
「ここにありますね。第一種銃猟免許です」
だが身内探しは難航した。一年前まで会社員をしていたことはわかったが、自ら退職しており、親戚にあたる人間に行きつかない。どうやら施設出身らしいことまではわかった。
そして行き着いたのが、離婚した妻、津々木麗子だ。
東京で男と同じ会社に勤めていたが、結婚して二年で別れ、今はバーのママをしているという。なかなかコケティッシュでしかも話題が豊富なので、結構名の知れた作家や戯曲家が常連にしているらしい。
その女は、呼び出されると結構すぐに姿を見せた。
「わざわざこんなところまで、すいませんね」と群馬県警の警察官がお茶を前に言った。
髪を金髪に近く染めて、肩のあたりまで緩くカールしておろしている。厚化粧とは言えないまでも派手な顔立ちではあったが、黒いワンピースがよく似合っていて、何とも言えない色気があった。
「発見されたときの状況等はですね……」
「お電話でもう伺ったわ」女は鞄から煙草を出そうとして、やめた。
そして淡々と言った。
「検死はされたんですよね。死後何日ぐらいでしょうか」
「科捜研もちょっと不思議がっていましてねえ、死亡したのは多分一週間ほど前だと思うのですが。とてもきれいな状態で。死因は窒息死とみられています。ちょっと心を落ち着けてから見てくださいね」と意味深に言って、写真を渡した。
その画像には、現場についた警官が最初に撮った写真が写っていた。
いささかも腐敗していない洋伍と、その隣に寄り添うように、まだ若い雌の鹿の死体が土の中に並んでいた。それも、「手をつないで」。
「ちょっと異様な状況でしてね。ご主人が趣味の狩猟キャンプで遭難した結果としても、この鹿との心中とも取れる状態、埋めたのは誰なのか、しばらく詳細に調べてみなければなんとも」
麗子は、群馬県内の遺体安置署に案内されてからもさして動揺した表情も見せなかった。
ひんやりした室内で警察官が布をめくって元夫の顔を見せると、こう言った。
「本当に全然腐敗していないんですね。蝋人形みたいに白いわ」
それからやさしげな声で言った。
「死んでからも男前よ、あなた」
「先月大物の雌鹿を地元の猟師が仕留めたと言っていたんですが、この鹿は若いし,銃創もない。この若い鹿の母親だったかもしれません」
「そうね、洋伍の横にいたのは母親を殺された子どもかもしれませんね。鹿にお墓はないのでしょうか?」
「はっ? いや、あそこは鹿の数が増えて狩猟が解禁されている場なのでそのようなものは。もう処理された後でして」
「では私を現地に連れて行ってください」
麗子の怖気のなさに、同行した警官はどこか圧倒されていた。
「この下です。足元が悪いので気を付けて」
沢へ降り、掘り返された跡がはっきりわかる森の中の場所につくと、麗子は跪き、両手を合わせてつぶやいた。
「写真でしか見てないけど、若い、つやつやした鹿だったわ。あなたも、今まで見た中で一番美しかった。本当よ。あなたの人生の邪魔をしてごめんなさいね。
わたしは身持ちが悪いから、あなたの傍らが終の棲家になれなかったの。
最期の伴侶があの子で、お似合いよ。よかったわね」
そして警察車両に乗り込んで、麗子は再び遺体安置署に向かった。今は近隣のお坊さんが呼ばれているという。ふたたび、手を合わせたいというのだ。
女は窓の外を見ながら、静かにつぶやき始めた。
われは草なり
緑なり
全身すべて
緑なり
毎年かわらず
緑なり
緑の己れに
あきぬなり
われは草なり
緑なり
緑の深きを
願うなり
「高見順、ですか」と若い警官が言う。
「よく知っているわね」
「これたいてい今国語の教科書に載っているんですよ」
「あら、そうなの」
髪をかき上げた後、
「冷房止めてくれる? ここは山の中だから、みどりの風の方が心地いいわ」
窓がするすると開けられた。
すがすがしい緑の香りのする風に、外を向いた女の明るい色の髪が踊っている。
車の走行音を聞きながら、女の隣に座る若い警官は
ここは、現世か。
自分は、本当に生きているのかと。
ふとそんな風に思った。
高見順「帰る旅」「われは草なり」より部分引用あり




