【番外編】刀身の女公爵 2
じりじりと肌を焦がすような緊張と、立っているだけで心臓が捻られるような恐怖。あとは、ほんの少しの高揚。
隊を分けた騎士団は、国境を目視できる位置に控え、指示を待った。
近衛と護衛は、女公爵と共にもっとも最前線にいる。
彼女はただ静かに、平坦な表情でじっと立っていた。
長いまつ毛を伏せ、その視線は油断なく見据え、全身で気配に耳を澄ませる。まるで抜き身の刃だ。
その華奢な手が、剣の柄に伸びた。
「待機」
ひと言の後、マントが翻る。
一瞬で剣を抜いた彼女は、驚くほどの瞬足で一直線に、しかし足音を立てずに駆けて行く。
よくよく見れば、夜の闇に紛れるように布袋を背負う影が、わずかにこちら側の池地に足を踏み入れている。
足跡がつかず、そして身を隠せる木々の合間。その片足が国境を踏み越えた、まさにその瞬間。
これを一瞬で見つけたのかと、思わず訓練を積んでいるはずの己の目を疑った。
ヒュッと、風を切る音が聞こえた。ような、気がする。
距離的には聞こえないはずだが、月すらない夜を貫くほどの一閃が走った。
「確保!」
張り上げられた声と同時に、弾かれたように足が動いた。
一斉に、我らが指揮官の元へ駆け出す。
────引力だ。
彼女の存在は、まるで真夜中のように静かに、だが確実に周囲を惹きつける。
身体が、心が、本能が、追いかけたいと望む。
追いついた女公爵は、気を失った男を騎士に預けると、布袋を覗いて、一つ息を吐いた。
ぽつ、と額から汗が落ちて、初めて彼女も張り詰めていたのだと気づく。
「確かに」
それは、事件を未然に防げたという安堵を含む、短い嘆息。
慎重に布袋を中身ごと泥水に沈め、水を含ませる。
追いついてきた別部隊の水を張った陶器に保管してから、男の顔を確認した。
「……当たりね」
小さな呟きは、すぐ傍にいた護衛にしか届かない。幼少の頃から彼女の傍にいた護衛は、ほんのわずかに顎を引いた。
彼らにしかわからない、彼らだからわかる事実がある。
拘束した男が舌を噛まないよう布を詰め、五名ほどの騎士を先に王都に向かわせた女公爵は、休む間もなく避難していた民の元へ向かった。
不安や恐怖に震える一人ひとりに話しかけ、微笑み、大丈夫だと背をさする。
美しく穏やかな女公爵が訪ねたことで、民たちはひどく取り乱すこともなく、感謝を口にして各々の家へと帰って行った。
「みな、ご苦労様。休息が必要な者はいるかしら」
夜通し駆けて来て今なお緊張の中にあっても、奇妙な興奮で疲れなど感じない。
女公爵率いる騎士団は、また馬に跨り、王宮まで駆け出した。
「近衛の士気が上がってな」
笑みを含んだルディオの声に、女公爵は肩を竦めた。
相変わらず好みぴったりの菓子ばかり揃える弟は、本当にまめまめしい。
「ノーマンも、騎士団のやる気がものすごいと言っていた。姉上」
「何かしら、王配殿下?」
にやりと口端を上げた姉に、眉を下げて笑いながらルディオは胸に手を当てた。
「女公爵閣下。機密事項に関する事件を未然に防いだこと、感謝する」
「我が国の尊き王配殿下。わたくしごときの成したことが、ほんのわずかでも女王陛下の一助になれたとしたら、これ以上の誉れはございません」
一瞬の後、ふふっと笑い合う。
「ヴィクトリア宰相閣下はさすがね」
「そうだな。断片の情報だけで、あっという間に事件の全貌を想定した」
「隣国との交渉に立ったのはアレク殿でしょう。あの夫婦に情報戦で勝とうだなんて、無駄なこと」
「分不相応だな」
「ノーマンの人選もさすがだったわ。近衛も連れて行くことになったけど、あの子たちの目を見ていたらね……」
「見込みがあった?」
「確実に守るための剣を振る者だとわかった。だから、必要だったのよ」
「……と、いうのは?」
「わたくしは、守るための剣は振れない。わたくしの振る剣は、奪うものよ。だから、ノーマンのように守る剣を近くに置かないと」
彼女の言は、ルディオにはよくわからない。
それでも、前線に出る時の彼女のことは知っているので、彼女が判断したならそれが最善だったのだ。
本当は、戦場がもっとも似合う人。
剣の腕も勘の鋭さも、身のこなしも決断力も、彼女がもっとも活かされるのは戦場。
けれど、彼女は女公爵という立場にあることを望み、それに相応しく、また誇りを持っている。
そして、有事の際には、戦うための剣を守るために奮う。
「まるで守護女神だな」
「やめてよ。笑っちゃうわ」
ひら、と軽く手を振った彼女は苦笑し、組んでいた長い足を正して立ち上がる。
凛と伸びた背筋、曲がらない信念そのものを表す立ち姿に、弟は目を細めた。
「じゃ、行くわね。陛下にもよろしくお伝えして」
「ああ。本当にありがとう、姉上」
「もう聞いたわよ。それにね、ルディ」
去り際にちらりと振り返り、口端を上げた彼女が好戦的に笑う。
「わたくしは、あなたの後ろ盾なのよ」
あの日、誓った言葉は違えない。
だから躊躇わず、その時には迷わず奮うべき力なのだ。
揺るぎない姉の背中を見送って、弟は一つ笑みをこぼした。
「あ゛ーーーーーーっ、つっかれた! 風呂に入りたい、お腹すいた、ねえ足揉んで」
「閣下……素を出すのが急すぎます」
「いいじゃない、もうすぐ家だし。我が夫と子たちは健やかかしらねえ」
「ええ、もちろんです」
お粗末様でございました…




