私は何も奪っていません。ただ、引き取りませんでした
私はリュシア・エヴァレット。伯爵家の長女で、社交界では侯爵家嫡男エドガー・ルヴェルクの婚約者として名前を呼ばれてきた。呼ばれてきた、という言い方をするのは、私自身がその立場を振りかざした覚えがほとんどないからだ。決められた席に座り、決められた名を紹介され、決められた距離で微笑む。それ以上でも以下でもなかった。
だから今朝、侍女が紅茶を置く手をわずかに震わせながら、「外が少し騒がしいようです」と切り出した時も、私はまだ他人事のつもりでいた。騒がしいなんて、社交界ではいつもの話だ。新しいドレスだとか、舞踏会だとか、誰と誰が視線を交わしただとか、そういうどうでもいいことで一日が終わる世界なのだから。
ところが次に続いた言葉は、少しだけ私の耳に残った。
婚約者が、別の女性を選んだらしい。
らしい、という曖昧な響きのわりに、妙に完成された言い方だった。
一瞬、意味が繋がらなかった。選んだ? 誰が? 何を? 頭の中で言葉を並べ替えてから、ようやく理解が追いつく。ああ、私の婚約者の話をしているのね、と。そう思った途端、胸に湧いたのは驚きでも悲しみでもなく、朝から余計な話を聞かされた不快感だった。
だっておかしいでしょう。私は何も聞いていない。本人からも、家からも、正式な言葉は一つも届いていない。それなのに外側だけが勝手に話を仕上げて、私を置き去りにしている。その速さが、どうにも気に入らなかった。
だから私は、侍女にそれ以上を求めなかった。詳しく聞けば、余計な情報が増える。増えた分だけ、周囲が作った筋書きに引きずられる。それが嫌だった。否定もしなかった。否定すれば、必死だと思われる。何かを失いかけて慌てている姿を、勝手に想像される。それはもっと嫌だった。
庭に出ると、視線が絡みついてくるのが分かった。普段より露骨で、隠す気もない。囁き声も、今日はやけに堂々としている。「可哀想に」「奪われたのね」「お気の毒さま」そんな言葉が、聞こえるかどうかの境目を狙って投げられてくる。
私は歩きながら、何度も口を開きかけた。そのたびに、今ここで噛みついたらどうなるかを考える。分かっている。面白がられる。火に油を注ぐ。それでも、黙って受け取る気にはなれなかった。黙るのは、納得している時だけで十分だ。今日はその条件を満たしていない。
結局、私は抑えきれずに一言余計なことを言った。相手の顔も見ず、立ち止まりもせず、通りすがりに落とすように。
「まだ何も聞いていない話を、もう終わったみたいに扱うのは早すぎるんじゃないかしら」
言った瞬間、空気が変わるのが分かった。しまった、とは思った。でも訂正はしなかった。引っ込めると、今度は弱く見える。どちらに転んでも面倒なら、私は私の言葉を選ぶ。
案の定、視線が一斉に集まった。さっきまで同情の色を浮かべていた人たちの目が、興味深そうに輝き始める。ほら見なさい。こうなる。噂というのは、餌を見つけた途端に群がるものだ。
廊下を進んでも、状況は変わらなかった。むしろ悪化している。話が話を呼び、私が何も言わないことまで、意味を持たされ始めている。強がりだとか、必死に平静を装っているだとか、勝手な解釈が次々と貼り付けられる。
違う。全部違う。
私はただ、引き取っていないだけだ。
誰かが押し付けようとしてくる役を、受け取っていないだけ。
それを説明する気はなかった。口にすれば、また別の物語を作られる。私はその輪に入りたくなかった。ただし、可哀想な令嬢という枠に押し込まれるのは、もっと嫌だった。
だから次に誰かが「おつらいでしょう」と声をかけてきた時、私は反射的に返していた。
「どこが?」
相手が言葉に詰まるのを見て、少しだけ胸がすっとした。つらい前提で話しかけられる筋合いはない。私はまだ、何も失っていない。
この時点で、私はまだ知らなかった。
この噂が、今日一日でどこまで転がるのか。
そして、自分がどれだけ喋る羽目になるのかを。
◇
午前中だけで、私は三回「おつらいでしょう」と言われた。回数を数えてしまったのは、あまりにも同じ調子で投げられるからだ。一回目は庭で、二回目は廊下で、三回目は茶会の席に着いてすぐだった。しかも三回とも、言った本人は優しい顔をしている。優しさのつもりなのが、なおさら腹に来る。
私は椅子に腰を下ろし、用意された茶器に手を伸ばした。指先が震えているわけでもないし、息が乱れているわけでもない。なのに、周囲は私が崩れる瞬間を待っているような目をしている。その視線に囲まれた状態で、また例の言葉が飛んできた。
「無理なさらないでくださいね」
無理。
何を基準に言っているのか、聞きたくなった。
「何を?」
思った瞬間、口が動いた。
「無理って、今の私に何を想定してるの?」
空気が一拍遅れて固まる。しまった、またやった、と頭の端で思う。でも止めない。だって、勝手に決められているのは私の方だ。
相手は慌てて言葉を探していた。「いえ、その……お心が……」
「それも決めつけよね」
被せるように言ってしまった。
「私、今、泣いてないし、取り乱してもいないし、怒鳴ってもいない。なのに、どうしてそういう前提で話しかけられるの?」
茶会の卓に、完全な沈黙が落ちた。全員が一斉にカップを持ち上げる気配もない。ああ、これはやりすぎたな、と少し遅れて自覚する。でも訂正はしない。訂正した瞬間、今の言葉が弱くなる。それは嫌だった。
私は一息ついて、紅茶を口に含んだ。熱さはちょうどいい。落ち着こうとしたわけじゃない。ただ、喉が渇いていた。
「奪われた、って言われるのも同じ」
自分でも驚くくらい、言葉が続いた。
「誰かが持っていったみたいな言い方だけど、私、何か掴んでた覚えある? 引っ張り合いになった記憶もないんだけど」
誰も答えない。答えられないのだろう。ここまで話が進むと、もう同情の台詞を差し込む余地がない。私はその沈黙を、勝手に肯定だと受け取った。
その時、斜め向かいの席から視線を感じた。ちらりと見ると、公爵家次男のアレクシス・ノールヴィルが、こちらを見ていた。驚いた様子でも、面白がっている様子でもない。ただ、逃げずに見ている。妙な話だけれど、それだけで少し楽になった。
彼は何も言わなかった。止めに入らないし、話題を変えようともしない。誰かが割って入らないかだけを気にしているような、そんな視線だった。私はそれを、勝手にありがたいと感じた。口を塞がれなかったからだ。
「私が今、嫌なのはね」
また喋っている自分に、もう開き直った。
「心配されることじゃない。私の立場が、可哀想な人って一行でまとめられること」
誰かが小さく声を呑む音がした。
分かっている。社交の場で、ここまで言うのは穏やかじゃない。でも、私は最初から穏やかに収まるつもりがなかった。
「選ばれなかったから不幸、って短絡的すぎない? まだ何も終わってないのに、もう結論だけ配られてる感じがして、正直、気分が悪い」
そこでようやく、誰かが話題を変えようと咳払いをした。遅い。私はもう止まらない。
「だから、同情しないで。慰めもいらない。必要なら、私の方から言うから」
言い切った瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ軽くなった。言ってしまえば、あとはどう思われてもいい。私は私の線を引いただけだ。
茶会が終わる頃には、場の空気は妙にぎこちなくなっていた。視線を合わせない人、逆にやけに丁寧になる人、様々だ。その中で、アレクシスだけが、いつもと変わらない態度で席を立った。
「強いですね」
通りすがりに、ぽつりとそう言われた。
反射的に言い返す。
「強いんじゃないわ。黙れないだけ」
彼は一瞬だけ口元を緩めた。それだけで、私はなぜか、今日一日分の疲れを思い出した。
ああ、そうだ。
私は、こうやって喋っていないと、勝手に物語を作られる世界にいるんだ。
なら、黙る選択肢は、最初からない。
◇
茶会の翌日、私は逃げ場を失った。
正確に言うと、逃げる気がなかった。王都の中央にある大広間で、マリーナ・フォルシェと正面から鉢合わせたからだ。こういうのは偶然を装う必然だと分かっている。向こうも分かっているだろう。だから足を止めなかった。止めたら、周囲が期待する場面が始まる。
「お久しぶりです、リュシア様」
先に声をかけてきたのは、彼女だった。声の張りが良い。隠す気も、怯む気もない。私はその時点で、少しだけ眉の奥が痛くなった。
「そうね。久しぶり」
言葉は普通でも、内心は忙しい。どう出る。泣くと思われている。怒鳴ると思われている。張り合うと思われている。全部違う。
「……驚かれました?」
探るような視線が向けられる。
ああ、これだ。選ばれた側の立場からの確認。私は思わず息を吐いた。
「何に?」
「その、噂です」
「完成度の高さには驚いたわね」
考える前に口が動いていた。止めない。止める気もない。
周囲の空気が、じわっと熱を帯びるのが分かる。皆、ここで何かが起きるのを待っている。奪い合い、涙、修羅場。そういう見世物が好きなのだ、この場所は。
「私は、あなたから何かを取ったつもりはありません」
マリーナはそう言った。少しだけ胸を張っている。悪意が薄い分、余計にやりづらい。
「分かってるわ」
私は即座に返した。
「だから、争う気はないの」
彼女が目を瞬かせる。想定外だったのだろう。
「え……?」
「奪ったとか、奪われたとか、その構図がまず気に入らない」
言葉が止まらない。
「私たち、物じゃないでしょう。譲渡されたり、横取りされたりする前提で話されるの、正直、うんざり」
ざわ、と小さな音が走った。私はそれを無視する。今さら取り繕っても遅い。
「あなたが選ばれたと思っているなら、それはそれで構わない。でも、私を負けた側に押し込むのはやめて。私はその勝負に参加した覚えがないから」
マリーナの表情が、困惑に傾く。勝者として振る舞う準備はしていたのだろう。でも、勝負そのものを否定される想定はなかったはずだ。
「……では、私はどうすれば」
小さく漏れた言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「どうもしなくていい」
はっきり言う。
「あなたはあなたの立場で立っていればいい。私の位置まで引きずり込まないで」
それで終わりだ。私は一礼もせず、その場を離れた。背中に刺さる視線を感じながらも、足取りは軽かった。言うべきことは言った。あとは、周囲が勝手に解釈すればいい。
◇
廊下に出たところで、思わず大きく息を吐いた。胸の奥がじんわりと熱い。怒りでも悲しみでもない。言い切った後の、変な疲労感だ。
「今の、見事でした」
声をかけられて、振り向く。
そこにいたのは、アレクシス・ノールヴィルだった。壁際に寄りかかるように立っている。偶然を装うのが、だんだん雑になってきている気がする。
「見てたの?」
「ええ。止める役が必要かと思いましたが」
「止められたら、もっと言ってたわ」
即答すると、彼は小さく息を漏らした。笑ったのかどうかは分からない。
「争わない選択は、珍しい」
「争う体力がないの」
本音だ。ここ数日で、十分消耗している。
「それでも、言うことは言う」
彼はそう続けた。
「黙って負け役に納まる人じゃない」
「納まる気がないだけ」
私は即座に返した。
「勝ち負けの棚に並べられるのが嫌なだけ」
彼はそれ以上、踏み込まなかった。助言もしない。評価もしない。ただ、その場に立っている。それが、妙に楽だった。
私はふと気づく。
この数日で、私はやたらと喋っている。止めない相手がいると、ここまで出るものなのかと、自分で驚く。
「……ねえ」
呼び止めると、彼は足を止めた。
「さっきの話、面倒だったでしょう」
「いいえ」
即答だった。
「面倒なのは、決めつけられることですから」
その言葉に、胸の奥で何かが軽く弾いた。
ああ、そうだ。私はこういう返しが欲しかっただけなのかもしれない。
争う気はない。
でも、黙る気もない。
その中間に立っていられる場所が、少しだけ見えた気がした。
◇
正直に言うと、会いたくなかった。
それでも避けなかったのは、ここで逃げたら、また周囲が勝手に話を作ると分かっていたからだ。私はもう、人の想像力の後始末をする気がなかった。
エドガー・ルヴェルクと向かい合ったのは、王都の控えめな応接室だった。場所の選び方が、いかにも彼らしい。人目を避けたつもりで、実は一番「何かあった」と想像されやすい。
「久しぶりだね、リュシア」
久しぶり、というほど時間が経っているわけでもない。その言い方に、私は早くも嫌な予感がした。
「そうでもないわ」
椅子に座りながら、即座に返す。
「顔を合わせていなかっただけで、名前は毎日聞いてたもの」
彼は一瞬、言葉に詰まった。たぶん、そこまで刺さる返しが来るとは思っていなかったのだろう。私は容赦しない。今さら遠慮する段階は過ぎている。
「噂のことは、耳にしていると思う」
「ええ。完成度の高いものをね」
皮肉を込めたつもりはなかった。ただの事実だ。彼は困ったように眉を寄せた。
「誤解が多い」
「便利な言い回しね」
思わず被せた。
「誤解って言葉でまとめると、誰も責任を取らなくて済む」
空気が重くなる。私はその重さを、きちんと受け止めたまま続けた。
「ねえ、エドガー。私は一度も、あなたから直接聞いていない」
声が少しだけ強くなる。
「どういうつもりで、今の状況を作ったのか」
「それは……」
彼は言葉を探していた。慎重に選んでいるつもりなのだろう。でも、その間が、もう答えだった。
「待って」
私は手を上げた。
「回りくどい前置きはいらない。聞きたいのは、私が宙に浮いたまま放置された点について」
彼の視線が揺れる。
「君を傷つけるつもりはなかった」
ああ、出た。
私は思わず笑いそうになった。
「それ、今の状況を見て言える?」
声が勝手に熱を帯びる。
「私は、傷ついたかどうかを議論してるんじゃない。何も決まらない状態に置かれたのが、不快だったって言ってるの」
彼は沈黙した。その沈黙が、私の中の何かを完全に押し切った。
「選ばれなかったから腹が立ってると思った?」
言葉が止まらない。
「違う。決める勇気を出さないまま、私を脇に置いた態度が気に入らなかったの」
私は前に身を乗り出した。
「それで今さら、関係を戻す余地があるみたいな顔をしないで。そういう曖昧さを、もう受け取るつもりはない」
「待ってくれ」
彼が慌てて言う。
「話し合えば――」
「引き取らない」
私は即座に言い切った。
「今さら私の手元に戻ってくるものを、受け取らないって言ってるの」
彼の目が見開かれる。その反応を見て、私は妙に冷めた。ああ、この人は、私が拒否する側に立つ可能性を、本気で考えていなかったのだ。
「私は、奪われた側じゃない」
言葉を選ばない。
「自分で選んで、ここに立ってるだけ」
それ以上、話すことはなかった。私は立ち上がり、一礼もしないまま扉に向かった。背中に何か言われた気がしたけれど、振り返らなかった。今さら聞く価値はない。
◇
廊下に出た瞬間、息が一気に抜けた。胸の奥が、少しだけじんじんする。喋りすぎたかもしれない。でも後悔はない。言うべきことは、全部出した。
「やっぱり、止めなくて正解でした」
聞き覚えのある声に、私は足を止めた。
アレクシス・ノールヴィルが、柱の陰から姿を現す。
「聞いてたの?」
「半分くらい」
「十分すぎるわ」
彼は肩をすくめた。
「引き取らない、という表現は分かりやすかった」
「でしょ」
私は少しだけ口角を上げた。
「曖昧なものほど、持たないに限る」
「重かったですか」
唐突な問いだった。
「重いに決まってる」
即答する。
「だから置いてきたの」
彼はそれ以上、何も言わなかった。ただ並んで歩く。その距離が、不思議と心地よかった。私はまた喋り出しそうになる口を、今度は無理に止めなかった。
言いたいことを言って、引き取らないと決めた。
それだけで、世界が少しだけ広くなった気がした。
◇
噂というのは、終わった後の方がうるさい。
それを実感したのは、エドガーと会った翌日だった。控えめに言って、私は一歩も外に出たくなかった。けれど出ないと、今度は「閉じこもっている」という筋書きが出来上がる。そんな展開まで面倒を見る義理はない。だから私は、いつも通りの時間に家を出た。
王都の通りは、相変わらず賑やかだった。ただし、視線の質が違う。昨日までの同情混じりの好奇心ではなく、結末を知りたがる目だ。ああ、そういう段階ね、とすぐ分かった。物語は次の章を欲しがっている。
「リュシア様」
呼び止められる回数も増えた。
「もう落ち着かれました?」
この言い方も、なかなかだ。何を基準に落ち着くと言っているのか。私は足を止め、相手を正面から見た。
「何について?」
問い返すと、相手は一瞬だけ言葉に詰まる。最近、この反応を見る機会が増えた気がする。
「その……婚約の件です」
「終わった話を探してるなら、別の人に聞いて」
突き放したわけじゃない。ただ、私のところにはもう置いていない、という意思表示だ。それでも相手は引かなかった。
「でも、奪われたと聞いて……」
はい、出ました。
私は思わず額に手を当てたくなった。
「だから、その言い方」
声が少しだけ強くなる。
「誰かが私から引っ手繰ったみたいに言われるの、いい加減やめて」
周囲の空気がざわつく。人が集まる。いつもの流れだ。私は深く息を吸って、続けた。
「私は何も失ってない。持っていないものを、奪われたとは言わないでしょう」
言葉が滑るように出てくる。
「曖昧なまま置かれていた関係を、そのまま回収しなかっただけ」
誰かが小さく息を呑んだ。
分かっている。この言い方は、優しくない。でも、分かりやすい。
◇
午後、社交の場に顔を出すと、案の定、その話題が中心だった。視線が集まり、囁きが走る。私はもう、いちいち気にしなかった。どうせ黙っても話は進む。
「本当に、何とも思わないの?」
直球が飛んできた。
「思わないわけじゃない」
即答する。
「面倒だとは思ってる」
何人かが噴き出しそうになるのを、必死で堪えた。私は続ける。
「でもね、可哀想とか、不幸とか、そういう札を勝手に貼られるほど、私は単純じゃない」
そこまで言ったところで、視線の端にアレクシスの姿が入った。彼は壁際に立ち、こちらを見ている。今日は逃げない。私はそれを確認してから、もう一段踏み込んだ。
「選ばれなかったから終わり、じゃない。宙に浮いていたものを、わざわざ拾い直さなかっただけ」
一拍置く。
「それを奪われたって言うなら、その言葉の意味を、先に考え直してほしい」
場が静まった。
さっきまでのざわめきが嘘みたいに、誰も口を挟まない。この沈黙は、悪くなかった。勝手な物語が、一度止まった感じがした。
その後、少しずつ空気が変わっていくのが分かった。同情ではなく、評価でもなく、判断でもなく、ただの事実として扱われ始めている。噂の向きが、ようやく反転し始めた。
「今は、誰のものでもない、ということですね」
不意に、隣から声がした。
アレクシスだった。冗談めかした調子なのに、妙に核心を突いてくる。
「そうね」
私は即座に返した。
「少なくとも、誰かに決められる段階は終わった」
彼は軽く頷いた。
「それは、自由だ」
自由。
その言葉が、胸の奥で小さく跳ねた。重たい感じはしない。むしろ、今の私にはちょうどいい響きだった。
奪われた話は、もういい。
終わらせるなら、今だ。
そう思えた時点で、私はもう、次の章に進んでいる。
◇
その日は、朝から嫌な予感がしていた。
こういう予感はだいたい当たる。誰かが勝手にまとめに入る時の空気だ。噂話というのは、途中経過より結末が一番盛り上がる。だから私は、今日は何か言わされるな、と覚悟して家を出た。
案の定だった。
社交の場に顔を出した途端、視線の集まり方が違う。遠巻きに、でも逃がさない距離。ああ、今日は逃げられない日ね、と内心で舌打ちする。
「リュシア様」
誰かが代表みたいな顔で近づいてきた。
「もう、噂も落ち着いてきましたし……」
落ち着いてきた、という言い方が気に入らない。何がどう落ち着いたのか。私は相手の言葉を待たずに口を開いた。
「それ、誰にとって?」
即座に空気が張り詰める。
「私の話なら、私抜きでまとめないでほしいんだけど」
周囲がざわつく。予感は的中だ。ここが、噂の最終地点。
「でも、皆さん心配して……」
「心配、ね」
私は一歩前に出た。逃げ道を作らない距離だ。
「同情と心配って、よく似てるけど違うのよ。私が求めてない時点で、それはただの押し付け」
誰かが声を呑む音がした。私は構わず続ける。ここで止まったら、また勝手に要約される。
「はっきり言うわ」
視線を巡らせる。
「私は、何も奪っていません」
一瞬、場が静まり返った。
期待通りだ。私は息もつかず、言葉を重ねる。
「誰かが取っていったような言い方をされてるけど、違う。ただ、引き取りませんでした。それだけ」
肩をすくめる。
「宙に浮いたままの関係を、わざわざ回収しなかった。それを不幸扱いされる筋合いはない」
ざわめきが、今度は戸惑いに変わる。分かっている。ここまで言われると、もう物語を作り直すしかない。私はそれを確認して、ようやく一息ついた。
「だから、可哀想枠は終了。心配も、慰めも、もういらない」
言い切った瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。
これで終わりだ。そう思った、その時だった。
「終わり、でいいですか」
横から声が飛んできた。
アレクシス・ノールヴィル。いつの間にか、すぐ隣に立っている。
「いいわよ」
即答する。
「私は言いたいこと、全部言った」
「なら」
彼は一歩、こちらに寄った。近い。近いけど、引く気はなかった。
「次の話をしても?」
周囲の視線が、一斉に彼に向く。私は一瞬だけ考えた。ここで断れば、また変な余白が生まれる。でも、逃げる気はなかった。
「どうぞ」
顎を上げる。
「ただし、回りくどいのは嫌いよ」
彼は小さく笑った。
「知っています」
そして、驚くほどはっきり言った。
「なら、今は誰のものでもないあなたに、聞きます。俺を選ぶ余地はありますか」
ざわっ、と一気に空気が弾けた。
私は思わず目を瞬いた。そう来る? ここで?
「ちょっと待って」
反射的に言葉が飛び出す。
「順番ってものがあるでしょう。私、さっきまで噂の後始末してたんだけど」
「知っています」
彼は引かない。
「だから今です。誰かの物語じゃない状態で、聞きたかった」
くる、と胸の奥がひっくり返る感覚がした。
ああ、そうか。この人、最初から逃げてなかったんだ。
「私ね」
気づいたら、また喋っていた。
「面倒よ。口うるさいし、黙らないし、空気も壊す」
「見てました」
「それでも?」
「それでもです」
私は一瞬、言葉に詰まった。珍しい。
そしてすぐ、いつもの調子を取り戻す。
「途中で放り出したら、許さないわよ」
指を突きつける。
「曖昧なの、一番嫌いだから」
「逃げません」
即答だった。
「だから、選ぶなら今がいい」
私は大きく息を吸って、吐いた。
そして、笑ってしまった。
「……ほんと、調子狂う」
肩をすくめる。
「でも、嫌いじゃない」
周囲がどよめく中、私ははっきり言った。
「逃げないなら、いいわよ。私も、もう引き取らないって決めてるから」
彼が、今度は完全に笑った。
その瞬間、場の空気が変わる。噂の終わりだ。これは、私が選んだ話。
私は何も奪っていない。
ただ、不要になったものを引き取らず、必要だと思ったものを自分で選んだだけ。
それだけの話だ。
そして、それで十分だと思えた。
完。
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