16. お休みをと言われても、休み方がわかりません
ギルバート様の部屋から退出すると、廊下の窓から、ジェーンさんの姿が見えた。家庭菜園になっている一角で、野菜やハーブに水やりをしている。
「あれ?」
私は首を傾げた。最近では、家庭菜園も含めて庭の手入れはアンディの仕事になっていたのだが、彼は今日は休みなのだろうか。
歩きながら窓の外を見ていると、ジェーンさんは一区画の水やりを終えた後、ジョウロを置いて、腰をさするような仕草をした。
「腰が痛いのかも……手伝いに行こうかな」
私は急いで階段を降り、庭へと向かった。
「ジェーンさん!」
私がジェーンさんに駆け寄ると、彼女はやはり痛そうに腰をさすりながら上体を起こし、私の方を振り返った。
「クリスティーナ様、どうかされましたか?」
「水やりをするジェーンさんが窓から見えて、腰が痛そうだったので……あの、私、お手伝いします」
「まあ、お心遣いありがとうございます」
私は、地面に置かれていたジョウロに手を伸ばす。
ジェーンさんは恐縮しながらも、素直に私にジョウロを任せてくれた。
ジョウロの中には、水が半分ぐらい残っている。たっぷりとした、重いジョウロだ。
「お見苦しいところを、申し訳ございません」
「いいえ、とんでもない! 私にできることがあれば、何でも頼ってください」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、アンディ様がお休みを取られているときは、クリスティーナ様にお願いしてもよろしゅうございますか?」
「はい、もちろんです!」
私が元気に返事をすると、ジョウロの中の水がたぷんと揺れた。
「今日、アンディはお休みだったんですね」
「はい。契約の際に主様からお聞き及びかと思いますが、クリスティーナ様も、自由にお休みを取っていただいて構いませんよ」
「あはは、私はいいんです。お休みをもらっても、何をしていいかわからないですし」
「たまには、街に出られてみてはいかがですか? お給金は日払いでギルドカードに振り込まれておりますから、自由にお買い物もできますでしょう」
「街でお買い物……うーん」
そう言われても、実は私は、街のことをあまりよく知らないのだ。
神殿に勤めていた時は、食料品や日用品などたくさん必要になるものに関しては、出入りの商人が馬車で運んできていた。不足の物が出た際に、急遽お使いに行くこともあったが、決まった店やギルドにしか行ったことがない。
もちろん、私は自分で使えるお金も持っていなかった。だから、自分のような庶民に見合った店がどこにあるのかも、どうやって買い物をしていいのかも、よくわからない。
「……あの、お休みって、絶対に取らなきゃいけませんか?」
「はい? いえ、そのようなことはございませんけれども」
「なら、お休みはいらないです。正直、街に出ても、どうやってお店を選べばいいかとか、何を買えばいいかとか、わからないですし」
「……クリスティーナ様は、街歩きをなさったことがないのでございますか?」
私は眉尻を下げて、頷いた。ジェーンさんは、それで色々と察したようだ。
「では、お身体を休めるだけでも……」
「いいえ、私、のんびりしてると落ち着かない性分なので。神殿にいた頃も、熱を出したりお腹を壊したりした時ぐらいしかおつとめを休んだことがないですし」
「クリスティーナ様、ここは、神殿ではございませんよ」
ジェーンさんからは、咎めるような言葉が飛んでくる。しかし、その茶色い瞳には、ありありと心配の色が宿っていた。
「……ごめんなさい」
私が素直に謝ると、ジェーンさんはふぅ、と小さく息をついた。
「クリスティーナ様。謝ることではございません。ずっと忙しくされてきたのですもの、休み方がわからないというお気持ちもよく理解できます。けれど、ひとつだけ覚えておいていただきたいのです」
私がまばたきをすると、ジェーンさんはしっかりと私の目を見つめて、真剣に告げた。私はごくりと息を呑んで、彼女の話に耳を傾ける。
「一人の大人として神殿から巣立たれた貴女様は、もう、自由なのです。貴女様の生き方を不当に縛ることは、何者にもできません。神殿であっても、雇い主であっても、でございます。貴女様の生き方は、貴方様の人生は、貴女様自身がお決めなさいませ」
「私の、生き方……?」
私の生き方……そんなこと、考えたこともなかった。
女神様から与えられた聖女の力をどうにか伸ばし、ゆくゆくは困っている人に届けられるようになればとは思っていたけれど――私の人生をどうやって生きていくか、その指標を、私は未だ持っていなかった。
「……今はお仕事に精を出されることを望まれるというのであれば、無理にお休みを取る必要もございません。ですが、クリスティーナ様のお心が何かを欲することがあれば、そして貴女様がその望みに気づかれる時が来たならば、どうぞ、わたくしや主様、アンディ様をお頼りなさいませ。わたくしどもも、自分自身の心に従って、貴女様をお手伝いするかどうか決めますから」
――私の、心。
心が、何かを欲すること。
私の心が、何かを望むことなど、あるだろうか。
「色々と差し出がましいことを申し上げてしまいましたが、どうぞ、ゆっくり考えて下さって結構でございますよ。何かを欲する心は、心が元気になれば、自然に沸いてくるものかと存じますので」
そう言って優しい笑顔を浮かべて、ジェーンさんは小さく一礼する。「水やりお願いいたしますね」と言い残して、建物の方へと戻って行った。
「心が元気になれば……?」
私は、自分の心が疲弊しているなんて、感じていない。
けれど、ギルバート様やジェーンさん、アンディたちと話をして、ずっと凝り固まっていた何かが、ほんの少しだけ解けたような気がしているのも確かだった。
水の入ったジョウロを覗き込むと、私の顔が映っていた。
水に映る私は、昨日と同様、ピンク色の髪をハーフアップにし、軽く化粧を施しているのに、普段よりも冴えない表情をしている。
ちゃぷん、と水に波紋が広がると同時に、そこに映る空色の瞳も揺れたのだった。




