02:私たちは擬態して生きる
私の名前は「ハチミツ」。
親友の名前は「詩音」。
もちろんどちらの名前もこの世の戸籍には存在しない。
私たちは放課後か週末にお互いの家へ遊びに行く。それぞれに購入した薄い本を持ち寄る。これはノートや参考書に重ねてしまえば、ほとんどわからない。私たちは真面目で勉強が好きな受験生という、十分なプロフィールが完成していた。両家の親もまったく疑うことなく、私たちの学びの邪魔をしない。その学びの内容まではチェックしないのだから。
私たちは一緒に受験をし、一緒に進学校の高校へ進んだ。きれいに制服を着こなし、伸ばした黒い髪をふたつに結ぶ。丸いフレームの眼鏡は誕生日に両親が贈ってもらった。電車の駅で待ち合わせて、同じ校舎へ通学する。どこにでもいる普通の高校生を演じる。もちろん、私たちが百合同人小説愛好家であることだけは秘密なのだが。
詩音の姉は、同じ地域の大学へ進学していた。詩音の家にお泊まりに行くと、必ず私たちに新しく手に入れた本を貸してくれて、このキャラがどうこうと目を輝かせながら一緒に読む。ちなみに詩音の姉は「綾瀬 深雪」という。同じくこの世に存在しない。
私たちはそれぞれ存在しない名前を持ち、この世界を擬態して生きる。高校生の擬態。大学生の擬態。決して悟られてはいけない。暴かれてはいけない。こちらの世界の与えられた名前を、与えられた役割を、そつなく演じて生きる。ミスをしなければ、それは難しいことではない。
そして、三人になる夜、私たちは存在しない本当の名前になる。どちらが私で、どちらが私なのか。もはや私はハチミツのほうが私だと思う。親の付けてくれた名前はコードネームであり、社会の擬態番号なのである。
詩音も深雪姉も同じなのだろう。詩音の部屋に集まる私たちの長い土曜日の夜は続く。チョコレートのかかったビスケットのお菓子とキャラメルポップコーンとポテトチップス。オレンジジュースと麦茶と炭酸水。ベッドの上と楕円のローテーブルの上。たくさんの作家たちの本を読みふけり、自分たちがノートに書いた物語を回し読みする。「ここが好き」「ここが良い」と褒め合いながら、お互いの心の中にある言葉や感情を解き放つ。ずっとこの時間が続けばいいのに。私たちの話し声の上を、きっと流星群が通過する。いくらでも願いが叶いそうな気がしていた。
高校二年の夏休み。深雪姉が私たちを誘ってくれた。
「夏休みだし、私が引率するって言えば、きっと私たちの親はすぐにOKって言うでしょう。同人誌の即売会のイベントに行かない? 私の大学の同人サークル仲間も一緒に行くし、ふたりを連れて行ってあげる。どう?」
普段の行いほど免罪符として役立つものはこの世にない。そんな賢さを私たちは擬態から学んでいた。本当の賢さは百点を取ることではない。塾の模試で志望校判定Aを取ることでもない。自分が望む未来へ最短で行けるルートを確保するために、日々伏線を用意し続けること。それができることなのだと思う。少なくとも、私と詩音は、その伏線がほぼ完璧だった。普段の行いは自由を作る。
「行きたい!」
「私、お年玉貯めていたの、まだ残ってる。」
夏休みの秘密計画は実行に移された。私たちは深雪姉の同人仲間たちと一緒に図書館で勉強会をするという建前をしっかり親に伝え、いくらかのお小遣いももらい、「勉強、がんばってね」「いいお姉さんよね」「迷惑をかけないようにね」と、まるで教科書のような素晴らしい回答をする両親に笑顔で「はい」と答えればよい。
高校二年生の夏休み。ハチミツは初めて同人誌即売会に行くのである。