表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空 黎明  作者: 甲斐 雫
1/4

1 開局準備

「Life of this sky」シリーズ3作目


 「菊池空、FOI日本支局専任捜査官に着任します」

 そう言って、彼女は踵を合わせ 流れるような動作で敬礼した。


 ソラ・リセリ・キクチは、菊知空となって生きる。


 A国に本部を置く犯罪捜査機関FOI。その新しく創設された日本支局の一室で、(ヒロ)こと高木博之と、(ソラ)こと菊知空は多忙な日々を送っていた。

 今はまだ、局長1人専任捜査官1人しかいないので、開局準備の忙しさが半端ない。


 日本支局は、警視庁に近い7階建てのビルである。流石に狭い都心で新しいビルを建設するのは難しく、丸ごと1つビルを購入したFOI本部だ。けれど外観も全て新しくし 犯罪捜査組織としてのセキュリティーや強固さは完璧になっている。内装もほぼ完成しているが、まだ設備や機材が完全には整っていなかった。

 その日も朝から、支局のメインルームで各自のノートパソコンに向かっている博と空の2人。

 この部屋は、正式に開局したらミーティングルーム兼リビングルームになる。


 そんな時、突然2人の人物が飛び込んできた。(シン)こと山口真治郎と、その妻であり同僚の鳴丘小夜子である。2人はどちらも警視庁の刑事だが、夫婦別性で共稼ぎの新婚夫婦だ。ちなみに真は博の腹違いの弟になる。

「おい、今朝いきなり辞令が届いたぞ!ここの嘱託捜査官ってどういうこった!」

 相談も無しだったことが、腑に落ちないのだろう。

「ああ、おはようございます真。事前に連絡しなくてすみませんね。とにかく忙しかったものですから。でももし断りたいのなら、辞退も可能ですよ」

 博はイヤホンを外すとノートパソコンを閉じて立ち上がり、笑顔で答える。視覚障碍者である彼は、周囲にそれを知らしめるためとアイカメラを装着する目的でサングラスをつけている。レンズの色が薄いため、瞼を閉じているのが解る。

「嘱託捜査官というのは、FOIと警視庁の間で取り決めた勤務形態で、この場合は警視庁の刑事という身分はそのままでFOIの捜査官になるということです」

 FOI捜査官を辞めたら自動的に刑事に戻る。逆に刑事を辞めたら専任捜査官になる。自由度の高い取り決めというわけだ。一応刑事のままなので、警視庁内でも行動できる。仕事内容は専任と全く変わらないが、指揮順位は専任より一つ下がる。

「・・・つまり?」

「例えば僕が全体を指揮できない状態になった場合、空に指揮権が移ります。そしてもし空も指揮できない状態になったら、次に指揮権が移るのが真ということです。真はFOIの研修経験がありますからね」


 話がそこまで進んだ後、真のすぐ後ろに立っていた小夜子が発言した。

「鳴丘小夜子刑事です。辞令に関して、伺いたいことがあるので来ました」

 丸顔で少しぽっちゃりした体形の小夜子は、優し気なアルトでけれどはっきりと話す。

「辞令が降りたのは、私が山口刑事の配偶者だからでしょうか?」

 刑事らしくない見た目の小夜子は、微かに不満が含まれるような声で続けた。夫のおまけのように扱われるのは許せないのだろう。筋が通らないことは納得できないという、芯の強さが解る。

「いいえ、貴女の能力と人柄を調査させてもらって決めました。FOI捜査官として適任だと判断したからです。もし貴女が山口刑事の配偶者じゃなかったしても、辞令は降りました」

 きっぱりと言うヒロの言葉に、少しだけ疑いの目を向けた小夜子だが、すぐにはっきりと答える。

「辞令、お受けします。よろしくお願いします」

 おっとり型の見かけにも関わらず、中身は即断即決なのだろう。小夜子は姿勢を正すと、軽く頭を下げて笑った。切り替えの早いタイプでもあるのだ。

「ありがとうございます。こちらこそよろしく。・・・それで、真の方は?」

 博は弟の方を向き、やはり笑顔で尋ねる。

「・・・辞退する理由がないね」

 真はFOI本部があるA国で3か月間研修を受けている。肉親であるという理由ではなく、彼も適任だと判断されたのだ。そんな兄の考えも解っているので、受ける気になった真である。


 これでメンバーは4人になった。


「ええと、呼び方は『小夜子』でいいですか? 苗字より呼びやすいですし、響きが良いです。ここはとても小規模なので、僕はアットホームな職場にしたいんですよ。ちなみに僕は、肩書無しで『(ヒロ)』と呼び捨てにして下さい。それでは、小夜子は初対面なので紹介しておきますね。空?」

「はい」

 空は小夜子の前に立つと、穏やかな笑みを浮かべる。

「菊知空、専任捜査官です。よろしくお願いします」

 マナーのお手本のように、完璧なお辞儀をする空に、小夜子は目を丸くしながら慌てて自分もよろしくと頭を下げた。


「次は・・・先ずは登録でしょうか。少し待っていて下さい」

 博はそう言って、ノートパソコンの前に座り、空もその傍でサポートを始める。

 それを待つ間、小夜子はこそっと真に耳打ちした。

「アナタの表現力って貧困ね。空って思ってたよりずっと美人じゃないの。プロポーションだって抜群よ。今度、お化粧法とか聞いてみようかしら。あの肌の透明感、何使ってるんだろう・・・」

 女に対する女の観察力はやはり違ってるな、と妙なところで感心する真。

 そして、空に聞いても情報は得られないぞ、と思う。彼女はいつもスッピンなのだから。


 そして博は、空にノートパソコンを持たせて 4人でビルの玄関から外に出る。白杖を持ってはいるが、だいぶ辺りに慣れているようで危なげなく建物の後ろに回った。そこには数台の車が置ける駐車場と裏口があった。

「地下にも駐車場はあるんですが、ここも自由に使ってください。こっちの入り口が、捜査官専用になります。ロビーの受付を通らずに、上がってこれますから」

 そう言って二人を自動ドアの前に立つよう促す。ソラがノートパソコンを操作すると、ドアは音もなく開いた。そして中に入り、エレベーターの前に立つ。

 《ヤマグチシンジロウ ナルオカサヨコ カクニン》

 無機質な音声が上から聞こえる。

 《 ニホンシキョクヘ ヨウコソ ワタシハ メインコンピューターノ ケトル デス 》

 二人は無事に登録されたようだが・・・

(・・・ケトル?・・・ヤカンかよ)

 誰が命名したんだ、と心で突っ込みを入れる真だが、機械系はあまり得意ではないのであっさりと流す。

「このビルの全てを管理するメインコンピューターです。会話もある程度はできますし、相談などもできますから用事がある時はどうぞ呼びかけて下さい」

 笑いを含みながら博が言うと、小夜子が面白そうに乗ってきた。

「それじゃ、ケトル。この近辺のお店のセール情報とか、新しいお店とかの情報を集めておいてくれる?毎朝、それを教えてくれると助かるわ~」

 《了解(ラジャー)

 気さくな犯罪捜査期機関のコンピューターは、お買いもの情報まで管理することになった。


 とりあえず今日は、警視庁で仕事の引継ぎをしてくると言って、真と小夜子は帰って行った。

 初出勤は、明日になる。



 そして翌日、出勤してきた真と小夜子に館内を案内する博と空である。

 1階が受付とロビー、2~4階までがFOI本部の下部組織が運営する貿易会社になっている。

 5階が支局のメインフロアで、広いミーティングルーム兼リビングルームと、まだ設備が整っていない医務室と研究室(ラボ)、そして食堂がある。

研究室(ラボ)の管理は空がします。医務室の方は、少し遅れていますが医師が1人入る予定です。食堂の方も、準備が出来次第オープンする予定です」

 博は先に7階へ上がりましょう、と言って一行を案内する。

 そこはフロア全部がマンションのような作りになっていた。

「仕事上、24時間体制になることもあるので、捜査官の住まいは基本ここになります。家賃・光熱費などは全てFOIから出ますので、お得ですよ。外部に住居を持つ場合は、申請してください。ここのフロアがプライベート空間になるわけです。ちなみに真と小夜子の家がこの突き当りになります」

 そう言って博は、廊下の突き当りを示す。

「ご夫婦なので、中は広めの作りになっています。向かって左側の個室も、自由に使ってください。物置としてでも、夫婦喧嘩して顔も見たくないという時なども」

 至れり尽くせりの生活保障だ。

「僕の部屋は、反対側の突き当りです。向かって左側のドアが、空の部屋になります。それ以外は、今は空室になっていますが、メンバーが増えたら使ってもらいますし、A国からの研修者の宿泊場所としても使います」

 これで新居を探す手間が省けた真と小夜子の夫婦だが、明日からは先ず引っ越しの準備をしなければならなくなった。


 そして一行は、最後に6階に向かった。

「このフロアは、全てトレーニング施設になっています。ケトルと繋がっているトレーニング専用コンピューターが管理している最新設備なんですよ」

 本部と同レベルのクォリティだと、自慢げに説明する博。

 先ずは様々なマシンが置かれた、基礎トレーニングルーム。そこに設置されたパネルで、個人の身体状況やトレーニングの計測値などを確認できる。

 他にも、様々なトレーニングが、現実に近い形で行える部屋が幾つもある。そのうちの1つに入ると、博が横に控える空に向かって言った。

「空、ちょっとデモンストレーションしてもらえませんか?」

 彼女は軽く返事をして上着を脱ぐと、パネルを操作して部屋の中央に立った。

 正面の赤いランプがスタートの合図を告げると、部屋のあちこちから何かが発射される。数も多いが速度も速い。けれど空は、最低限の動きでそれらをかわす。その動きは、さながら舞踊のようにも見えた。当たらなかったそれらが、ピシャリと音を立てて壁や床を汚して行った。

「ペイント弾です。射出個数や速度は自由に変えられます。敏捷性や動体視力のトレーニングになりますね。終わった後は、自動的にクリーニングされますので使用者の床掃除は不要です」


 そして射撃練習場が2室。静止して撃つ部屋と、移動しながら撃つ部屋に分かれている。

 静止射撃の部屋では、博がデモンストレーションを行った。アイカメラの指示で、的を狙っていた。

「まだまだなので、目下訓練中です。的が動くと、的中率がさがるんですよねぇ」

 それでも楽しそうに話す博だ。

 移動射撃の部屋では、また空が実演して見せた。

 パネルを操作すると、部屋のあちこちに障害物が出現する。

 相当に広い室内を、空はウィップを使って自在に動き、打ち出される射撃用クレーを次々と撃ち落としていった。

「障害物は自由に選べますし、クレーの大きさも選べます」

 体感型ゲームのようだが、難易度が高そうだ。

「何時でも、自由に使って下さいね。向こうの部屋は、近接戦闘用のトレーニングルームなので、相手がいれば 真も柔道や剣道ができますよ。道具もひと通り、練習用のが揃っていますから」

そんな博の言葉に、真はまた心中で突っ込む。

(誰とやれって?)

 メンバーの上限は6人までだと聞いていたが、その中で柔道や剣道の経験者はどれだけいるのだろうか。

(・・・小夜子とか?)

 その様子を想像してみて、何となくやめておこうと真は思う。とりあえず他の誰かとの制圧訓練にしておこうと決めた。


 最後は屋上に出て、4人は和やかに話し合う。

「明日っから、とりあえず引っ越しだな。大変だぜ」

 そう言う真に、小夜子が突っ込む。

「あら、簡単でしょ。今の部屋のゴミ出しをしたら、運び込むものは少ししかないんだから」

 要は、散らかった家具調度の無い部屋ということである。

「だから、私の方の引っ越しを手伝ってね。さぁ、忙しくなるわよ~~」

 どうやらプライベートでは、女房の尻にしっかり敷かれているらしいと解る。

「引っ越しが終わったら、開局準備を手伝ってくださいね。まだまだ、やる事は多いんですよ」

 博はそう言って、頭の上を見上げた。

 青い空を、白い雲が流れてゆく。

 アイカメラの音声を聞きながら、博の顔は終始楽しげだった。


 真と小夜子は、警視庁での仕事の引継ぎをするために帰っていった。

「さて、準備の方もメンバーが増えたのでこれからは楽になりますね。空、ちょっと外出しませんか?」

 この建物の周囲を確認しておきたいし、近くのお店なども見て回りましょう、と博は空を誘った。


 FOI日本支局のビルの周辺をザっと見て回り、それから一番近いショッピングモールに足を延ばす。ファーストフード、雑貨、衣類、スーパーマーケット。全ての物がここで揃えられそうだと見て取ると、博は1軒の眼鏡屋に空を誘う。

「ブルーライトカット眼鏡を買いましょう。内勤が多くなっていますからね。多少でも眼精疲労を軽減した方が良いと思いますよ」

 聴覚障碍者である空は、視覚に頼るところが大きい。出動先での立ち回りでは、視覚能力をフルに使うのだ。眼精疲労で視力が低下していたりすれば、大事故につながる可能性もある。これからは、今まで以上にPC前に座ることが多くなるだろう空を、博は過保護なくらい心配している。

「・・・そうですね」

 納得した空は、博に選んでもらった眼鏡を購入した。


 FOIのメインルームに戻ると、空は早速PC前で眼鏡の使い心地を試してみる。

 《 ソラ メガネ ニアッテイマス 》

 博のアイカメラのAIが告げる。

(・・・それは良いのですが、表現が物足りないですね)

 博はもう少しAIの育成方向を変えてみようかと思う。様々なメディアからも、勉強させるべきかもしれない。

 眼鏡美人の形容詞には、どんなものがあるのだろうか。

 やがてソラは、眼鏡をはずしてPCの傍に置くと、博に向かって口を開いた。

「ありがとうございます。使い勝手は良いです。・・・この眼鏡の代金も含めて、今までかかった費用の概算を出しておいていただけませんか。3日後には給与が振り込まれるはずなので」

 いつまでも好意に甘えるわけにはいかない、と思っているのだろう。好意を金銭で返すのは失礼だと充分解ってはいるが、他にどうすればいいのか解らないのだ。


 けれど博は、そんな空の言葉にはもう慣れていた。

「空がどうしてもお返しをしたいと思うなら、僕が喜ぶものにしてくれませんか?」

 博は気分を害することも無く、微笑みながら彼女の前に立ち 腕を出して細い腰を抱き寄せる。そして右手を彼女の背中に回し、そっと抱き締めた。

「・・・あの、これは?」

 ハグの意味が解らず、聞き返す空。そして博の返事をしっかり理解しようと、彼の唇を読むためにそこに注目する。僅かに上を向いたソラの顔に、待っていたかのように降ってきたキス。

「・・・・っン・・・」

 更に意味が解らず、息をつめてしまう。

 幸いディープキスには至らず唇は解放されたが、まだ身体は抱き込まれたままだ。空はこの場合、どうすれば良いか解らない。

「ハグやキスは、嫌いですか?」

 耳元で囁く優しい声。

「・・・いえ・・・多分、嫌いでは・・ないと・・」

 けれど空の返事は、何とも歯切れが悪い。

(ああ、そうでした。空の場合、好きとか嫌いとかの感情もはっきり浮かばないのでしたっけ)


 好きや嫌いの概念は知っている。けれどそれらを自分の感情として出さず、蓋をするように生きてきた彼女なのだ。

「でしたら『もう二度と同じことはされたくない』と思ったことは、嫌いなことだと判断すればいいと思いますよ。嫌いなことは、イヤだと意思表示してください」

 空は僅かな時間考え、直ぐに解りましたと返事をする。

「・・・嫌いではありません」

『多分』も『おそらく』も言葉にはつかず、小さいけれどはっきりした声で空は答えた。

「では、これが僕の喜ぶことですので、お礼はこれでお願いしますね。今後、機会があるごとにお礼してください」

(ハグとキスをされることがお礼・・・何回で全部お礼出来るのでしょうか?)

 空がそんなことを考えている間に、博の腕の力が強まる。

 そして二度目のキスが始まった。



 翌日、アンジーが来日した。アンジーはFOI本部の人事部長なので多忙なのだが、今回はちゃんと休暇をとっていた。とはいえ半日しか滞在できないのだが、それでも前回来た時よりはだいぶマシである。前回は数分しか対面できなかったのだから。

 今回の来訪の目的の一つは、空のパートナーであるヨウムのビートを連れてくることだ。鳥インフルエンザの影響で、前回は連れてこられなかったのだが、どうにか手続きも終わったので一緒に連れて来たのである。

 事前連絡は受けていたのだが、空も忙しすぎて空港まで出迎えに行かれず、アンジーは直接メインルームにやって来る。

「お待たせ、来たわよ」

 朗らかな声にかぶって、甲高いヨウムの声が響く。

 《 ツイタ? ツイタ? 》

 賢いビートが、ケージの中から叫んだ。

 アンジーがケージの扉を開けると、灰色の鳥は弾丸のように飛び出し、真っすぐ空の胸に飛びつく。そして胸に掴まったまま空の顎に頭をこすりつけ、忙しなくしゃべり続けた。

 《 ソラ~ ソラ~ アイタカッタヨ ビート イイコニシテタヨ ソラ マッテタヨ~ 》

「ごめんね、ビート・・・ごめんね」

 空は俯きながら、ずっとビートの背中を撫でていた。


 日本に来る前、空はビートを保護団体に渡していた。子供の頃からずっと一緒にいたパートナーのビートだが、いつも寂しい想いをさせていると思っていたのだ。仕事中はずっと1羽で寮の空の部屋にいて、長期任務の時には何日も孤独な時間を過ごす。餌と水は自分で用意できる賢いビートだが、つらかったのではないかと思う。保護団体で新しい里親に出会うことが出来たら、ビートはもっと幸せに暮らせるのではないかと考えた。

 全てを白紙に戻して日本に行くつもりだったこともあり、またA国にいつ戻ってくるか、いや戻って来るかどうかも解らなかった。費用もギリギリしか貯めることができなかったので、ペットホテルに長期預けることは無理だったのもある。

 ビートには、『ここで待っているように』とだけ告げて、空は日本に来たのだ。


「保護団体で、里親候補は結構あったみたいだけど、この子ったら全部自分で断ってたらしいわ」

 待ってるだけだ、と。

 空が来るまでここで待ってる、と。

 だからここから連れて行くな、と。

 アンジーが迎えに行った時、ビートは直ぐに空のことを聞いてきたらしい。すべてを説明してやっと、ビートはアンジーの所に移動することを受け入れたという。


「空、ビートの止まり木を、ここと自室に用意しないといけませんね」

 博は自然な表情でビートと話している空に、優しい笑顔で伝えるのだった。


 アンジーは大きなボストンバッグも持ってきていた。中身は空が寮に残してきた支給品の衣類、現場に出る時着用していた黒のTシャツとパンツが数組と、新しくアンジーが用意した様々な服が入っている。

「とりあえずこれだけあれば、仕事もプライベートも大丈夫でしょ。新しい職場への転属祝いだと思って受け取ってね」

 アンジーはそう言って空に暖かい笑顔を向けると、次は博に向かってニヤリと笑いながら告げる。

「さて、フライト時間までは付き合ってもらうわよ、博。エアポートで1杯やりながら、話を聞かせてもらうわね。空は、ビートと一緒にいてあげなさい」

 話とは、以前『あとでゆっくり』と言っていた、空を保護した後の状況についてだろう。博は覚悟を決めて、アンジーと共に出て行った。


 これでメンバーは、4人と1羽になった。



 それから数日後。

 季節外れの暑い日が続いていたが、真と小夜子の引っ越しも終わり、博と空の部屋も整ったので、4人は支局に住んで忙しく働いていた。ビートだけが、そんな様子をのんびりと眺めている。それでも人数が倍に増えたので、様々な雑事は順調に片付いていった。


 その日は、真と小夜子が外回りの仕事を引き受けてくれたので、博と空は最終調整の意味で、午前中をトレーニングルームで過ごした。

 適度な運動を終えた二人は、メインルームに戻ってくる。ドアを開けると、向かって左側がリビングスペースで、ソファーセットとダイニングセットが配置されている。キッチンスペースには冷蔵庫や食器棚も並び、簡単な料理なら作れるだろう。ここも3人が3か月を過ごしたA国のホテルと同じ、日本で博が借りていたマンションとも同じ作りと家具配置になっている。

 向かって右側がミーティングスペースで、会議用の机と椅子、大型スクリーンなどがある。


 今では殆どその室内に慣れた博は、手探りすることもなくリビングスペースの冷蔵庫に近づいてその扉を開ける。

「おや、真の好きなビールが冷えていますね」

 アイカメラの音声で、銘柄まで確認した博が、1本のビール瓶を取り出した。

「沢山ありますし、今は開局前なので厳しいことは抜きにしましょう」

 博は悪戯っぽい笑顔になって、キッチンから栓抜きとグラスを2つ取ってくる。確かにこのところ暑い日が続いているし、エアコンが効いているとはいえトレーニングルームで汗を流した後である。さぞかし美味しいことだろう。

 博は栓抜きで王冠を外すと、冷えたビールをグラスに注いでその1つを空に手渡した。


 受け取った空は、先にそのグラスに口を付ける。FOIでは基本、部下が先に毒見の意味でそうするのが慣習のようになっている。身に着いた習性のように軽くビールの匂いを嗅ぎ、少量を口に含んだ瞬間、ソラの右手はグラスを落とし、今まさに口を付けようとしていたヒロのグラスを腕の一振りで叩き落した。そして床に口に含んだ液体を吐き出すと、無表情で叫ぶ。

「ダメですっ!」

 それだけを言い残し、空は口元を押さえて洗面所に駆け込んだ。


 一瞬で手の中のグラスを叩き落とされ驚いた博だが、直ぐにソラの後を追う。

 空は洗面台に向かって吐いていた。

 赤いべっとりとした塊とともに、胃液で薄まった血が白い洗面台に散ってゆく。

「空っ!」

 あのビールに、毒物が?



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ