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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

奇跡よ、数多に折り重なれ

作者: あいろん

 あの時の僕には、きっと幸運の女神が微笑んでいたのだろう。

「ぐすっ…お母さん…」

 お母さんが死んで、僕を守ってくれる人が誰一人いなくなって、寂しさで泣いているけれど、死への不安もあって、子どもながらにとてつもない恐怖に襲われていた。

「とっ、とっ、とおーりゃっ!…わっ!?」

 けれど、そんなものは、空から舞い降りた天使様の前ではたちまちに消えてしまったのだから。 

「…いたっ!?」

 とはいえ痛いものは痛い。

 空から落ちてきた天使様も同じみたいだ。

「あいたたた…。…ここどこ?

そこの貴方…貴方よそこのボロッボロの服着てる貴方!説明なさい!ここはどこなの!」

 ボロボロの服?普通の服なんだけど…。

「ここは貧民街だよ」

 僕は天使様の泥水よりも柔らかそうなワンピースに見惚れるのを堪えながら、要望に答えた。

「そうなのね!通りで皆汚れまみれなわけなのね!」

 中々ストレートだね!?

 天使様だから、純粋ってことなのかなぁ?

「そ、そんなこと言っちゃ駄目だよ…っ!?」

 僕の視線の端っこで、大人達の目が鋭くなった。

 怒っているのとは違うような気がする。

 天使様が欲しくなったのだろうか?

 視線は天使様に向いている。

「逃げなきゃ、行くよ!」

 僕はとっさに天使様の手を掴んで走り出した。

「何!?どういうことなの!?説明なさい!」

「話は後!」

 幸い、僕達は小さい。

 体格差を活かして、細道を走り抜けた。

 泥水が跳ねる。それでも天使様が綺麗なことに変わりないが…やはり申し訳ない。

「あいた…!?」

 僕が思い詰めていると、天使様が躓いてしまった。   

「どうしたの!?…傷だけど、これくらいなら…どうなんだろう」

 怪我の手当をしなければ、でも、天使様が捕まってしまったら…。

「大丈夫よ!何で追われてるかもわかったし、逃げなきゃいけないんでしょ?」

 天使様は自ら立ち上がって、僕に手を差し出した。

「うん!」

 天使様のご指示に従い、僕達は走った。

「でも、貴方何をしたの?

私も植木鉢を倒しちゃった時とか、屋根の上にいるのがバレた時は追いかけられるけど…

こんなたくさんの人っていうのは、初めてよ?」 

「違うよ!?」

 …天使様って思ったより、人間っぽい。

「じゃあなんなのよ…!?」

 ドタバタと耳障りな足音が大きくなってきた。

 こんなふうに話していたら見つかってしまう。

 僕達は目を合わせると、何も言わず、前を向いた。


「はぁ…はぁ…」

「ふぅ…中々いい運動になったわね」

「そ、そう…」

 天使様の御身体は人間とは違うものなのかな。

 そりゃそっか。

「追手もいなくなったし、帰り方を探そうかしら、門限を過ぎたら御祖父様が怒るもの」

 天使様にも、家族がいるんだ。

「この壁を登ればいいのかしら」

 天使様は壁を見ながら呟いた。

「この壁がどうしたの?」

「私この壁の外から来たのよ。だから上に行ったら帰り道が見えるはず…」

 天使様の世界…。天国だろうか。

「壁より外の世界なんてあるの?」

「あるに決まってんじゃない。

梯子か台か…」

 天使様が周りを見回すのを真似してキョロキョロしていると、どこかから地面を叩く音が聞こえた。

「音?」

 視線の先に、天使様と似た服…ボロボロだけど…を着たおじいさんが見えた。

 おじいさんは手に持った杖でもう一度自身の存在を示した。

 天使様も気づいたみたいだ。

 おじいさんは僕達が見ていることに気づくと、後ろにある小屋に入っていった。

「私達を呼んでいるのかしら?」

「さっきみたいな奴かも…」

「…いってみましょう、いいわね?」

 何かあったら、僕が天使様を守らなくちゃ。

 僕はそう決心すると、いつの間にか先に行っていた天使様に追いつけるようにと走った。

 小屋に入ると、おじいさんが…なんだろアレ?蓋の付いた容器から白いモヤが出てる。

「来てくれて嬉しいぞ、紅茶を淹れてやるから少しまて…っと沸いたな」

 危ないものかと思ったけれど、天使様の嬉しそうな顔を見るに、天国の物なのかもしれない。

 ボロボロだけど。

 人数分のコップの中に注がれた液体からも白いモヤが出ていた。

「あつっ…!?」

 白いモヤも、コップそのものもとても熱い。

 天使様と同じように飲みたいので、僕は我慢して飲んだ。

「…不味いわね」

「…美味しい」

 こんな物、初めて飲んだ…と感動している僕と天使様の感想は真逆だった。

「私の好みじゃないだけなのかしら」

「いやいや、紅茶を飲み慣れた人間にゃ不味いだけさ。

お嬢さん、あんた外の人間だろう?ここの人間にしちゃ何もかも綺麗すぎる」

 人間?天使様ではないのだろうか?

 …外の世界には、こんな天使みたいなヒトがたくさんいるんだ。いいな。

「このボロボロの街…貧民街だったかしら?

ここのことを内と言ってるんならそうよ。私は家に帰りたいの、手伝ってくれるかしら?」

「言う前に頼まれるとは思わんかったが…元々そのつもりじゃ、そこにある梯子を取ってくれ」

「これ?」

「梯子…?」

 梯子って何だろう…?知らないのは僕だけみたいだ。

「ほっほっほ、そちはここの人間じゃな。

そうじゃこれは梯子、ここから外の世界へ行けるものじゃ」

 なにそれ凄い。

「おじい様…私のお祖父様とかぶっちゃうわね…なんて呼ぼうかしら」

「儂の名はディアンじゃ」

「…ディアン?わかったわ!

ディアンさんは梯子を使わないの?」

「はっはっは…儂はここに居たくてな。使う理由がないのじゃよ」

「なるほどね!ありがとう!これで帰れるわ!

このお礼は必ずするからそれまで生きててね!」

「礼なんぞいらん。ただの自己満足じゃ。

儂はその梯子が役目を果たせたら良い」

「そう?わかったわ!」

「梯子ってどうやって使うの?」

 僕はおじいさんと女の子が話し終えるのを見ると質問を投げかけた。

「近くで見た方が早いわ!二人共行きましょ!」

 そう言うと同時に女の子は壁まで走っていった。

「はっはっは…子どもの体力は無尽蔵じゃの」

 あの女の子特有のものだと思いますよ。

 僕は女の子を追いかけながら思った。


「梯子はこうやって…立て掛けて…こうやって登るの」

「降りる時はどうするの?

こんな大きいもの、持つのは難しそうだけど…」

「落ちたらいいのよ。受け身を取れば簡単よ?」

やっぱり僕とは体の構造が違うのかもしれない。

「貴方も一緒に来る?

怖いなら私が抱えるわ」

「……僕はいいよ。よくわからないし」

「わかったわ」

「でも!…いつか行くから、待ってて」

「わかったわ!楽しみにしてる!

…帰ったらお口直しに紅茶を飲もっと!

って…あれ?…あっはっは!」        

「どうしたの!?」

「服、汚しちゃったの!

またお祖父様に叱られる!

…もしかして、

…パンが駄目になっちゃった…」

女の子は泥に塗れた、白いふわふわを取り出した。

「…美味しそう」

「……泥って案外美味しいのかしら…。

あげるわ!私を助けた褒美よ!」

「いいよ。君が食べて」

「何言ってるの!私があげるって言ってるんだから逆らわず喜んで受け取りなさいよ!」

「えっと…」

「受け取ってやれ、お嬢さんにとってはそっちの方が嬉しいんじゃろ」

 おじいさんがようやっとたどり着いた。

 女の子が喜ぶならそうしよう。

「…だったら」

「じゃあね、ディアンさん!……そういえば貴方の名前を聞いていなかったわね」

「うん?」

「貴方の名前は何ていうのかしら?」

「……えっと…」

「エットっていうのね!」

「そうじゃなくて…」

「?」

「名前…って何?」

 少年、少女、お母さん…人を呼ぶ言葉はある程度知っていたつもりだけれど、名前というものは生まれて一度も聞いたことがなかった。

「名前は名前でしょ?」

「あー、お嬢さん?

貧民街の住民には名をつける習慣がなくてな、呼びたいならつけてやろう。

少年、名…あぁすまん、名前というのはな、そいつだけを呼ぶための言葉じゃ。人の多い場所で少年と呼びかけたら、お主以外にも何人か反応を返すじゃろ?そうならないための言葉じゃ」

「そうなんだ」

「せっかくじゃし、な?好きなものはあるか?それをもじったりなんだのした名前をつけてやろう」

 好きなもの…僕は手元を見た。

「…ふわふわ、このふわふわのパンみたいな」

「ふわふわというか、ふにゃふにゃなんだけど…」

「ふわふわだよ?こんなに柔らかいものを見たのは、今日が初めてだもん」

 女の子にとってはどうあれ、僕にとってはふわふわなのだ。うん、そうなのだ。

「ふわふわ…フラッフ…

よし!お前の名前はフラッフじゃ!」

「僕の名前はフラッフ…」

「…じゃあまたね!ディアンさん、フラッフ!」

「待って!君の名前は!?」

「あっ!うっかりしちゃったぁ…

私の名前はエリザベートよ!

エリザって呼んでね!」

「またね、エリザ!」

 僕がそう言うと、女の子…エリザは勢い良く梯子を登っていった。速い。

「お前は行かぬのか?」

「うん、外の世界ってよくわからないし…

それに、僕はあの娘に並び立てる人間じゃないと思うから」

 僕にとって初めてのことだったんだ。

 綺麗なお洋服を見たのも、元気一杯の人を見たのも、ふわふわのパンを、家族でもないのに貰ったことも。

 僕はきっと恋をしたのだろう。

 そして願った。

 『あの娘に並び立てるような人間になりたい』と。

「お願い、ディアンさん。外の世界のことを知ってるんでしょ?教えてよ。…もしよければ、だけど…」

「構わんよ。どうせ暇なんじゃ。

儂の名…いや、私の名にかけて、君を立派な紳士に育てあげようじゃないか」


◇◇◇

sideエリザ 


「よーしっ戻ってこれたー!

あとはバレないうちに帰るだけ…」

『うちの植木鉢ちゃんをぶっ壊したやつは誰だー!』『どこなのー!煙突に隠してたへそくりさーん!』

「…バレなきゃセーフよ!」


「エリザ!」

「たっだいまー!」

 私はそう言うと、お祖父様の怒声を華麗にスルーしてお部屋のベッドですやすや眠った。


「エリザ、起きなさい」

「…んぅ?」

 お祖父様の声と陽の光で目が覚める。

と、同時に意識がはっきりしてくる。

 泥まみれの服で眠ったこともはっきりしてくる。

 一瞬慌てたが、ふと服が変わっていることに気がつく。

 あれは夢だったのだろうか?

 私は残念なような、ほっとしたような、複雑な気持ちでお祖父様の顔を見る。

 サングラスをかけているから、感情を読み取るのは難しいのだけれど…

「…」

 怒ってるわね!

「エリザ」

「はいっ!」

 お祖父様の落ち着いた、それでいて威圧するような雰囲気に私の声は裏返ってしまった。

「昨日は、どこに行っていたんだい?」

「貧民街!

そうよ、お祖父様聞いて!フラッフって子とディアンって人に会ったの!」

「…ディアン?」

 お祖父様は急にピリッとした雰囲気になった。

「そうディアン、お祖父様と一緒の名前よ!

食器なんかもお家のとおんなじだったわ!

…ボロかったけど」

「そいつは、私に何か言っていたかい?」

「何も言わなかったわ…どうして?」

「あー、何、夢の中の私なのかもなとね?

その人は元気だったかい?」

「歩くのは遅かったけど…それ以外は元気そうだったわ!」

「そうか…。そうか」

 お祖父様は嬉しそうに呟いた。

「…と、忘れるところだった。エリザ?」

「なぁに?」

「夢で記憶が塗りつぶされているみたいだね。

エリザ、貧民街なんて場所はこの国のどこにもないよ」


◇◇◇

sideフラッフ


「?」

 いつもと紅茶の味が違う。

「ディアンさん!」

「フラッフ?どうした今は授業の時間では…

ふむ?それは…」

「紅茶を淹れてみたんだけど、いつもと味が違ってて…ディアンさんならわかる?」

「…これは!」

「ディアンさん?」

「これじゃ!これこそ私が望んだ…」

「それが、ディアンさんが言ってた本物の紅茶?」

「そうだ!すごいぞフラッフ!」

「やった!」


 ディアンさんは僕に色んなことを教えてくれた。

 算術、礼儀、紅茶の淹れ方…数え上げるときりが無い。

 僕はディアンさんの期待に応えるために、エリザと並び立てる人間になるために、知識を吸収していった。

 ディアンさんはそんな僕を見るたびに、弟のようだ、と褒めてくれた。

 どうやらディアンさんは弟のことが大好きらしく、時折思い出話をしてくれた。

 昔のディアンさんはあまり感情が表情にでなかったけれど、弟の笑顔を見ると心が温まっただとか、弟は何もないところでコケるようなドジだけれど、それ以外は何でもできて、自分よりとても優秀な子だと、笑顔で語っていた。


「ディアンさん…」

 数年後、ディアンさんは眠りについた。

 ディアンから「フラッフが梯子を使うところが見たい!」と駄々を捏ねられて、布団を玄関の近くまで移したが、他人に見られないよう時間は真夜中、きちんと見れただろうか。


 僕は外の世界に出て、ディアンさんがくれた地図に従って歩いた。

 大きな建物に辿り着くと、門の前に一人の老人が立っていた。

「ディアンさん…?」

「お前がフラッフか?」

 僕の知ってるディアンさんはこんな乱暴な言葉遣いはしない。よく見ると瞳の色が違った。

「そうですが…」

「中に入れ」


「さて、フラッフ。お前を雇ってやろう」

「本当ですか!」

「ただし、条件がある。

エリザがお前の住んでいた土地の話をしない限りは、自身の正体を明かさず、ただのフラッフであれ。いいな?

了承しないのなら、エリザには会わせん」

「…わかりました」

 エリザに「久しぶり!」と言えないのは残念だけれど、会うためには仕方がない。


 そう思って働き出したけれど、エリザ…お嬢様と会う機会なんてそうそうない。

 僕は頑張った。


「フラッフ、今日はストレートティーの気分だわ」

「お菓子は昨日のものと同じでよろしいですか?」

「ええ、お願いね」

「承知いたしました」

 僕は紅茶の淹れ方を買われ、お嬢様専属の執事になった。努力の甲斐があったというものだ。嬉しい。

 お嬢様は僕に気付いていないご様子だけれども、それでも僕は幸せです。

「結婚したらお菓子を二人一緒に…なんて良いことでしょう!楽しみだわ!」

 入りますよと声をかける前に、お嬢様は楽しげな独り言をそこそこの大声で呟いた。うん、呟きじゃないかも。

「…お嬢様、紅茶とお菓子を持ってまいりました」

 聞こえてるよ、とは言いづらかった。

「あっ!?フラッフ…いたのね!

……紅茶はちゃんとストレートティーかしら!」

「ええ、もちろん。

お菓子もこちらに」

「ありがとう!」

 胸の痛みは無視しよう。

 僕は幸せだと思い込もう。

「フラッフ?

このクッキー、紅茶に浸したら美味しいのかしら?」

「どうでしょうかね?」

「試せば判るわね!

…美味しい!」

「そうなんですか!?」

「フラッフも食べる?

一枚上げるわよ」

「それらは全てお嬢様のために作られたもの。私めが食べるなど料理人への冒涜です」

「そう?美味しく食べてもらえたら嬉しいんじゃないかしら」

「…では一枚」

「浸さないの?」

「カップがありませんので」

「そのままつけていいわよ!」

「…クッキーの粉が入りやいたしませんでしょうか」

「構わないわよ?美味しく食べてほしいわ」

「わかりました」

 もぐもぐとお嬢様から貰ったクッキーを頬張る。

 お嬢様が僕の反応をじーっと見てくるのが何か気まずい。

「美味しいです」

 正直、貴方様から貰ったものは全て美味しく感じられます。という言葉は飲み込んだ。

「そうでしょ!やっぱうちの料理人は最高でしょ!」

「…」

「あ、2枚目はないわよ!他はぜーんぶ私のものなんだから!」

「もちろん、これ以上は望みませんとも」

 ええ、無論。


「フラッフ?面白い話があるの、聞いてくれない?」

「貴方の話ならいくらでも」

「ありがとう、夢の話なんだけどね、昔の私はお転婆だったの」

「そうですか」

「夢の中でも私は屋根の上をぴょんぴょんかけてったの」

「屋根の上を!?」

 さすがエリザ…お嬢様だ。

「それは別にいいでしょ。楽しいんだし。

でね、そうやって駆けてると、壁があったの、そんなに高くないんだけど、横に長くってね、中には何があるんだろうなってね、壁の上を歩いてたんだけど」

「……」

「落ちちゃったの、こうすーっと」

「はい!?

そんなノリで落ちてきてたんですか貴方は!?」

「知ってるみたいな口ぶりね?」

「……えーと、もしかしてその夢、おじいさんが出てきたりします?旦那様…貴方のお祖父様によく似た」

「あぁ…出てきたわ!

しかも貴方とおんなじ顔したおんなじ名前の子も!

ねぇフラッフ!これ夢じゃないの!?

現実なの!?」

「私めとお嬢様の記憶が間違っていなければ、きっと」 

 僕がそう言うと、お嬢様は踊り始めた。

 あぁ、きっと旦那様にバレたら大目玉を飛び越してクビになるだろう。僕は遠い目をしてお嬢様を眺めた。

「…じゃあなんで、お祖父様は夢だなんて言ってたのかしら?」

 お嬢様はピタッと止まった。

「え?」

「言ってたのよ。だから私は夢だと思ってたんだけど…何でなのかしらね?」

「…さぁ、何ででしょうね?」

 この平穏な日々を僕は愛する。

 いずれ崩れ去るものと知りながら、それでも今だけは、この幸せを味わいたいんだ。


「わぁー!あの木、登りたい!

……淑女なんだから、そんなことしちゃだめよね」


「…今なら誰も見ていないわよね…こう登るのよね…わっ!受け止めてくれてありがとう。

フラッフかしら…?そうだといいんだけど」

「そうですよ」

「良かった…あ、そっか。フラッフは服が黒いから…。にしてもブランクがあるとだめね…」   


「やっぱり、大好きなものを食べられるおやつの時間って最高ね!お部屋だからフラッフくらいしかいないし…しかもフラッフは口が硬いし、紅茶を入れるのがとっても上手だし…

唯一の幸福な時間をくれてありがとう、フラッフ」

 僕は鳥籠の中でさえ縛られているようなお嬢様を幸せにできて、とても幸せだ。

 そう思いたいんだ。


 平穏な日々は思うよりも早く崩れ落ちた。

 平民たちに貧民街のことがバレて、反乱が起きた。

 屋敷の中に裏切り者がいたのかもしれない。

 夜中のうちにこっそりつけられた火は屋敷の廊下を真っ赤に照らしている。

 住んでいた土地柄、異変の察知には敏感だった僕は目を覚ますとすぐにお嬢様の元へ向かった。

「お嬢様!」

 ドアをけたたましく叩いたが、反応がない。

「お嬢様!」

 僕はドアを蹴破るとベッドにいるお嬢様のお体を揺らした。

「ん…?フラッフ!?」

「逃げますよ!」

「何!?どういうことなの!?説明なさい!」

「話は後!」

 僕はお嬢様の手を掴むと急いで部屋を出て、玄関の方角に向かった。

「…なるほどね。

私が前を走るわ!

ついてきて!」

「…わかりました」

 お嬢様は僕の進行方向とは真逆の方角へ向かった。

 壁…?

「お嬢様!?ぶつかりますよ!?」

「いいのよ!突っ込みましょう!」

「っ!?」

 お嬢様が壁に突っ込んだ途端、壁が回って先の廊下が見えた。

「びっくりした?回転扉ってやつよ!

さぁ、このまま行くわよ!」

「…はい!」

 回転するとはいえ、壁に当たったら痛い気がするけれど、お嬢様は何ともないご様子だ。

丈夫だなぁ…。


「止まって!

…よし!ここにジャーンプ!」

 急に言われたので、転けかけたが何とか持ち直した。

 バリッと、床から出るにはおかしな音が鳴り、床が抜けた。声は出ない。

「あっはっは!久しぶりでも中々イケるもんね!…フラッフ?」

 僕たちは深い穴の中に落ちていった。

「…あいたっ!?」

 下はクッションになっていたようで、僕はお嬢様の上に落ちてしまった。

「ぎゃふっ!?」

「っ…!…お嬢様、申し訳ございません!このお詫びは私めの命を持って…」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!

まぁ、ここまでくればそこまで危険ではないのかもね。…ここね」

 お嬢様がドアを開けた。先が見えない。こわい。

「また…降りるんですか…?

い、いえ!気後れしているわけではないのですが…」

「あはは!

安心して、今度はすこーし階段を降りるだけだから。そこからは歩きよ」

「…承知いたしました。行きましょう。

…お嬢様?」

「…フラッフ、お祖父様も連れてこられる?」

「申し訳ありません、先程までの燃え盛りようを見るに難しいでしょう。

…しかしながら、もし、お嬢様が旦那様を連れてこいと命令されるのならば、私めは喜んで行きましょう」

「やめてよ!貴方まで死んじゃったら…」

「…承知いたしました」

「…行きましょう」

 僕達は目を合わせると何も言わず、前を向いた。


◇◇◇ 

sideお祖父様


「ははっ…年貢の納め時ってわけか…」

 私…どうせ死ぬんだから口調を戻すか。

 俺には兄がいた。兄上は空っぽな人間だった。

 空っぽの器に紅茶だけをじゃぶじゃぶ入れたような、そんな人間だった。

 俺は、俺が笑うと月のような笑顔を見せる兄上が大好きだった。いくら愛を与えても返してくれない兄上が大嫌いだった。

 俺は兄上より優秀だった。周りからも「どうして先に生まれてくれなかったのか」と良く陰で言われたものだ。

 そうだ、優秀な人間が治めるべきなんだ。

 期待に応えるべきなんだ。

 幸い、俺と兄上は似ていたから、サングラスをかけてりゃ入れ替わりにバレることはなかった。

 まぁ暗い所だったらさすがに周りが見えねえから外すが。

 とはいえ、兄上とて人間だ。いつか報復されるだろう、殺さなければならない。けれど…俺は殺せなかった。

 どうしたら良い?遠くの国にでも追いやれば良いのか?…それはだめだ。

 だから、作ったんだ。

 兄上が死なないように、いつか兄上が俺を殺しに来てくれるように、革命思考の犯罪者共を詰め込んだ。

とはいえ、俺も人間。殺されたいけれど、死にたくはない。

 だから、犯罪者共をしっかり調教した。

 出てこないよう、みっちりと。

 言うなれば、中途半端な愛と恐怖がないまぜになって出来た、不完全な、檻以下の箱。

 それこそが貧民街。

「アポロ」

「…兄上?」

 その声は、その姿は、知らない者のはずなのに、何故か兄上だと確信できた。

 あぁ、やっと、兄上が俺を殺しに来てくれた!

 やっと、兄上がからっぽじゃない瞳で俺を見てくれた!

 これ程幸せなことが他にあるだろうか!

「アポロ…愛している」

 …きっとこれは、幻なのだろう。

 兄上が俺を愛しているわけがない。

「俺も…愛してます…兄上」

 けれど、とても、暖かいんだ。


◇◇◇

sideフラッフ


「燃えたわね」

「燃えましたね」

 通路を歩き、梯子を登った先は山の中だった。

 ここなら姿を隠して逃げることができるだろう。

「…これからどうしよう

私、普通に暮らす術なんて知らないわ」

「私めが教えましょう。詳しいですから」

「あら?ありがとう。

でもそんなに堅苦しくしなくていいわよ。どうせ貴族には戻れないんだしね」

「しかし…」

「お嬢様として、最後の命令よ。

逆らうの?」

「…わかりまし」

「わかった」 

 お嬢様は僕の言葉を断ち切るように言った。

 本当に我儘な方だ。

「…わかった」

「あと、私のことは名前で呼びなさいよ!お嬢様じゃないんだからね!」

「…なんか、楽しそうだね」

「なんていうか、振り切れちゃったの、

それにね?木登りや目一杯走ること…淑女として出来なかったことが全部出来るようになったのよ!…複雑なのは否定しないけど、嬉しいわ」

「そっか」

「というか名前!呼んでよ!」

「あ、ごめん……エリザ」

 エリザは天使様みたいに微笑んだ。

 僕は幸せだ。


 こうして、僕とエリザは、苦労しながらも、二人一緒に力を合わせて、この大変な世界を変えることになるのですが、それは別のお話。

 まぁ、それでもとりあえずは、めでたしめでたし。

 もし良ければ、感想や脱字・誤字の報告、評価などしていただけると嬉しいです。

 最後まで見てくださってありがとうございました。

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