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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜を越えて

作者: 桜雪 翠

 雨に濡れた彼女の姿は、外の冷たい空気と相まって幻のようだった。恐らく天界から堕ちた天使はこのように拾われるのだろうなと妙に納得してしまう。傘も持たずにこちらに来た彼女は、髪の先から雨を滴らせていた。

「今夜、泊めてほしいの。急で悪いけれど」

 そう言って俯いて懇願する牧田さんに、私はある種の妖艶ささえ感じてしまった。

 私は今、どんな表情をしているだろう。手元に鏡があればそちらを見て確認したが、無いので牧田さんの瞳に映る私を見ようと彼女の瞳を覗く。牧田さんの瞳は揺れていて、今にも溢れ落ちそうな雫は雨に濡れたせいなのか涙を溜めているせいなのかはわからなかった。

 だが今はそんなことはどうでもいい。他の女性が突然押しかけてきて「泊めてほしい」なんて言われても、私は門前払いしただろう。しかし、牧田さんなら話は別だ。むしろこちらにとっては好都合とまで言える。

「いいですよ。お風呂沸かしますね」

 断られると思っていたのか、牧田さんは目を大きく開いて、安堵したような甘い吐息を漏らした。それを見て私は、胸の奥に疼きを覚える。今すぐ抱きしめてしまいたいくらいだった。

「ありがとう……いつも今井さんに頼ってばかりでごめんなさい。まさかプライベートでもお世話になるなんて……」

「別にいいですよ。それより、これから夕食を取るところなのですがお風呂上がりにいかがですか。その様子だと何も召し上がってないでしょうし」

「……遠慮しておくわ。そういう気分じゃないの」

「食べたくない気持ちはわかりますが、食べるべき時に食べておかないと大事な局面で力を発揮できませんよ」

 私は給湯器のスイッチを入れてお湯が出ることを確認してから、牧田さんに入浴を促した。幸いお風呂場は玄関を開けてすぐのところにある。牧田さんは促されるまま脱衣所に向かい、服を脱ぎ始めた。牧田さんが自身の背中に手を伸ばし、ピンク色のホックを外すのをついまじまじと眺めてしまう。それを悟られないように、私は「部屋着も用意しますね」とその背中に声をかけて、脱衣所を後にした。最後にもう一度だけ横目で覗いた時には、すでに白い肌が露出していた。

 このくらい何ともない。そう言い聞かせて胸を撫でると、いつもより速い鼓動が聞こえた。

 タンスを開けて服を探す。牧田さんは別段小さい方ではないが、私より十センチほど背が低い。正しい言い方をすれば、私が平均的な女性より少し身長が高いのだ。オーバーサイズの服を着せるのも申し訳ないな、と思いつつ、急に押しかけて来たのは向こうなのだから着られれば何でもいいのかもしれないとも思う。というか、下着はどうしたらいいのだろう。今着ている物は濡れているだろうし、かと言ってサイズの合わない下着は履けない。サイズを聞き出してコンビニにでも買いに行こうか。

 胸の高鳴りを感じていた矢先、私の下着より大きめなカップ付きのキャミソールと、私のものではないショーツを発見してしまった。苦さが胸の奥に広がっていく。前に付き合っていた子が置いていった物を捨てずに放置していたのだ。さすがに洗濯はしただろう。念の為に鼻を近づけたが、特に問題は無かった。

 タンスから出した私のスウェットの上下を脱衣所のかごに置き、その上に先ほどの下着類を重ねて置く。帰りは牧田さんが自分の服で帰れるように、牧田さんが脱いだ物を洗濯機に入れてスイッチを押した。

 私と牧田さんは、別段プライベートでも仲がいいわけではない。牧田さんが家に来るのは二回目だが、一度目も酔った私を部屋まで送ってくれただけで家に上げたのは今回が初めてだった。一度来ただけで家の場所や階数まで覚えていたのだろうか。牧田さんから事前に連絡は無かった。だから覗き穴から牧田さんの姿を確認した時、私はシチューを温める際に使っていたお玉を危うく落としそうになった。この時ばかりは事前に火を止めていてよかったと思った。

 牧田さんが初めて私を部屋まで送ってくれた日、上がっていってもいいと言ったのに断られてしまった。あの日は私が入社して初めての職場の飲み会で、なぜか私ではなく牧田さんが面倒な上司に絡まれて酒を注がれ、代わって私が彼女の分までその酒を飲み干してしまったのが事の始まりだった。

「お酒弱いなら無理しなくていいのに」

 牧田さんが私の腕を彼女の首に回して、私は牧田さんに支えられながらまだ寒さの残る四月の夜道を二人で歩いていた。

「本来の役目を果たしたまでです。あの席でいびられるのは牧田さんではなく私のはずでしょう」

 ふふ、と柔らかく微笑んだあの横顔を今日まで忘れたことはない。今振り返ってみると、あの時からすでに私の想いは芽を出していたのだと思う。

「おかしいですか?」

「うん、おかしい。私が先輩なんだからあなたが肩を持つ必要はないのに」

「でも牧田さん、私より仕事できないし私より年下ですよね」

「……今井さんってそういうところあるわよね……」

「事実を言ったまでです」

「あなたのそういうはっきりとした性格が、あなた自身の首を絞めることになる。気をつけた方がいいわよ」

「リスクは承知の上です」

 ふふ、と牧田さんが口を隠すように手をかざして笑う。「変な子」と独り言つ牧田さんは、どこか嬉しそうだった。

 最初はそう、ただそれだけだった。可愛く笑う人だな、と。それが一緒に仕事をする内にだんだんとその横顔を独り占めしたいと思うようになってしまった。前職の経験もあり、実際私は牧田さんより仕事ができた。だから常に牧田さんのサポートをし、一緒にいる時間を増やすようにした。だが、それでも仕事仲間以上の関係に進めなかったのは、ある日、牧田さんがいつもは何も無い左手のその部分に指輪がはめられていることに気がついてしまったからだろうか。

「ああ、これ? 言ってなかったかしら。これでも結婚してるのよ、一応。ここ一年くらい失くしていたのだけれど、昨日ふと思いついて探してみたら見つけたの。嬉しくてはめてきちゃった」

 そう言って笑う牧田さんの姿をいつものように可愛いと思うことができなかった。鳩尾の辺りに毒気が溜まり、胃がむかつくようだった。この恋は諦めようと思った。

 私はその時初めて牧田さんが好きなのだと気づいた。

「お風呂ありがとう。さすがにこの時期に濡れると生死に関わるわ」

 牧田さんのことを考えながら鍋をかき回していると、頬を上気させて濡れた髪をタオルで優しく抑えながら、私の部屋着を纏った牧田さんが声をかけてきた。その声で私は一気に現実に引き戻される。いや、私の服を着て私の家のお風呂場から出てきた牧田さんと一緒に夕飯を食べようとしているこの光景の方が夢のようなのだが。

「ドライヤーそこにありますから使ってください。シチュー入れますね」

 私はあくまで平静を装って、夕飯をテーブルに並べる。牧田さんはいつも弁当を作ってデスクで食べていた。「旦那の分も作るから一人分も二人分も同じなのよ」と言っていた。

 牧田さんが髪を乾かしている間に、サラダを盛り付けて鍋の火を止める。牧田さんが食べる寸前まで温かくあってほしいので、彼女が髪を乾かし終えるまで火加減を調整してシチューを温めていた。

「いただきます」

 押しかけて来た時よりも牧田さんの顔色は良くなっているように感じた。体が温まったせいもあるだろう。来た時は無いと言っていた食欲も戻っているようだ。

「おいしい……今井さん、料理上手ならお昼も持ってくればいいのに」

「弁当を仕込んでる時間はないですよ。それにシチューなんて誰でもおいしく作れます」

 そうは言いつつも、牧田さんにおいしいと言ってもらえて安堵している自分がいた。

 テレビはあるが食事中は見ない。朝と夜、ニュースを確認して終わりだ。食事中は静かに過ごしたい。もちろん談笑が嫌いなわけではなく、むしろ二人で食べる時は話に集中したいので、やはりテレビはつけない。今は牧田さんと過ごすこの時間を大切にしたかった。

「そろそろお聞きしてもいいですか」

 私の言葉に、牧田さんはスプーンを口に運ぶ手を止めて俯いた。皿にはまだシチューが半分ほど残っている。大切にしたいと思っていた手前、自分から穏やかな時間を壊すのもどうかと思ったが、これは夢ではなく現実なのだ。

 言いたくなければ言わないでいい、とは言えなかった。牧田さんのことを少しでも知りたい。それが立場の悪用だと言われても、私はその傲慢さを隠す気は無かった。それに牧田さんだってここに来た時点で理由を聞かれることは覚悟しているだろう。

「……端的に言えば、夫が不倫していたの」

 牧田さんは絞るように声を出した。その声色は濡れている。テーブルに置かれた左の拳が強く握られていた。

「結婚してからずっと、私は彼に愛されていると思っていたし私も彼を愛していた。でもね、円満だと思っていたのは私だけみたい」

 涙こそ落とさないが、牧田さんの声は震えていた。

「だから頭に血が昇っちゃって、気づいたら走ってた。けれど、外の冷たい雨に打たれて頭がある程度働くようになったらどうしたものかと途方に暮れちゃって。その時ふと今井さんの顔が浮かんだの」

 急に心地が悪くなって、私は背筋を伸ばした。嬉しさで胸が膨らんで持ち上がるような気分になる。もぞもぞと体を捻るようにお尻を片方ずつ上げて居住まいを正した。

「……迷惑よね、急に上司が押しかけてきて泊めてほしいなんて」

「いえ、迷惑だなんてことはありません」

「それは、どうして?」

 牧田さんの返答に言葉を詰まらせてしまう。理由を聞かれてもそれを素直に口にするのは憚られた。

 なぜなら牧田さんには旦那さんがいて、それを知ってもなお私は牧田さんへの好意を捨てられずにいるからだ。それなのに、その好意を伝えてもきっと牧田さんを困らせるだけだ。

「私が上司だから、優しくしてくれるの? それとも私が今井さんより仕事ができないから、面倒を見てくれているの? 私に魅力がないから、私を憐れんで――」

「やめてください。自分を卑下しないで」

 張り詰めた空気がより引き締まったような気がした。私は自分の声から出た怒声にも近い音に、内心驚いていた。それは牧田さんも同じだったようで、その証拠に牧田さんは目を見開いて私を見つめた。

 けれども、なぜかすぐに牧田さんは肩を震わせて笑い出した。

「私なにかおかしなこと言いましたか」

「うん。だって今井さん、普段周りから何て呼ばれてるか知ってる? 能面よ、能面」

 ころころと笑う牧田さんの肩はどんどん大きく上下し、体を揺らしながら目に涙を溜めて破顔した。

「……説明を求めます」

「能面呼びについて? それともこの状況について?」

「どっちもです」

「今井さん、普段から表情をあまり表に出さないし仕事もテキパキこなしちゃうから、会社の子たちが能面って呼んでるのよ」

「それって普通に悪口じゃないですか?」

「捉え方によってはそうだし、彼女たちもいい意味では使ってないでしょうね。でもね今井さん、能面って本当は色々な表情があって、とても感情豊かなの。だから私はあなたが能面だって言うのも強ち間違いではないと思ったわ。今の言葉を聞いてより確信した」

 そして牧田さんは少し真剣な表情を見せた。その表情の中にも、牧田さんの優しさが滲み出ている。とても柔らかく、見ていると凍った心が氷解するような穏やかで温かい顔だ。

「今井さん、私のこと好き?」

 そんな表情から出たとは思えないほど虚を突く質問に、私は思わずたじろいだ。鼻から一気に酸素が入ってきてむせそうになる。

「ほら、動揺してる」

「からかわないでください」

「からかってないわ。至って真剣よ」

 それでも牧田さんは柔らかい笑みを崩さなかった。

「だって今井さん、本当はとても感情豊かで、でもそれを表に出すのが下手というか、不器用なだけだもの」

「それがどう私が牧田さんのことを好きだという話に繋がるんですか」

「単純な話よ。私に対するあなたの好意が私には見えたってだけ」

「……だから今日、私のところに来たんですか? 私が牧田さんに好意を抱いているのがわかっているから」

「あなたが認めるなら私も否定しないわ」

「今さらですよ。それに、わかっているなら話が早いです」

 私は腰を浮かせて、向かいに座る牧田さんの左の頬を右手で包み込んだ。お風呂を上がってから少し時間が経っているとはいえ、牧田さんの頬はまだ温かかった。久し振りに感じた他人の体温に、私は真綿で首を絞められるような息苦しさと甘さを感じた。

 牧田さんを困らせたくはない。その気持ちに偽りはないが、牧田さんは私が好意を抱いていることに気づいていた。その上で私に助けを求めて来たのなら、私がこの想いを隠す必要はもう無いだろう。そう考えると、むしろ牧田さんを困らせてしまいたくなった。

 牧田さんは頬に置かれた私の手を取り、ゆっくりと指を絡ませた。思わぬ反応に、私は目を開いてしまう。心臓の跳ねる音が聞こえた気がした。

 牧田さんは目を伏せ、ゆっくりと顔を近づけて来た。そして唇が重なった。唇を重ねたほんの少しの時間が、永遠をも思わせるほどに長く感じた。

「びっくりした? 私、女性経験もあるのよ」

 その言葉が余計に私を暗い気持ちにさせる。牧田さんは女性経験があって男性を選んだのだ。それならやっぱり、この恋は叶わない。

 それでも一夜を共にできるなら、私はそれで自分を慰めるしかない。

「旦那さんがいるのにいいんですか、私とこんなことをして」

「今日くらい許されるわよ。付き合ってくれる?」

「同性同士のまぐわいだって不貞行為に当たりますよ」

「そんなこと言って、私の手を離す気なんて無いくせに」

 溺れるような甘いキスを何度も重ねていく。その度に私の心は昏く燃え上がるようだった。

 きっとこの恋が終わる頃には、シチューも冷めてしまっているだろう。せっかく牧田さんのために温めたのにな。

 二人の気持ちが昂ぶると「名前で呼んで」と牧田さんから懇願された。牧田さんの耳元で「雫さん」と囁くと、牧田さんの息が少し荒くなった気がした。名前で呼ばれることに意味があるんだろうか。そう考えていると牧田さんが私の耳に唇を近づけて、言葉を発した。

 里子(さとこ)、とたった三文字の言葉だけだったのに、その甘い囁きは私の中を駆け巡るのに十分だった。脳が揺れた気がした。

 そうして事を終えた後、借り物の服を着直しながら牧田さんは私に昇進の話が来ていることを伝えてきた。

「答えは急がなくてもいいらしいわ。来月までに返事をくれればいいって」

 ふと壁にかけられたカレンダーを見やる。今日はまだ月初めだから約一ヶ月ほどある。それでも私の中の答えはすでに決まっていた。

 ただその前に一つだけ、どうしても牧田さんに確認したいことがあった。

「旦那さんとはこれからどうするつもりなんですか?」

「帰ったら話し合う予定よ。まあでも、彼がまだ私のことを好きなら、私にはそれで十分一緒にいる理由になるわ」

 そう語る背中は少し寂しそうだった。牧田さんは立ち上がってダイニングへ向かい、テーブルに置かれたコップを取って水を飲み干した。

 もう日付が変わって夜も更けている。さすがに今からこの冷えたシチューを食べる気にはなれなかった。牧田さんも皿には手をつけようとしなかった。

 それが牧田さんと過ごした最初で最後の夜になった。

 明朝、牧田さんは徒歩で家に帰った。財布を持たずに出てきてしまったらしいが、私の家から牧田さんの家まで幸い徒歩十五分ほどだったので、電車に乗る必要も無かった。

 あの日以来、牧田さんと仕事仲間以上の関係になることは無く、いつも通り私は牧田さんのサポートをしていた。ただ違うのは、牧田さんの左手にはあの日の翌日からずっと指輪がはめられていることと、私が牧田さんの下で働くのが今日で最後だということだけだ。

「昇進おめでとう、今井さん」

 私は部署異動になるため、牧田さんと顔を合わせるのもこれが最後になるかもしれない。

「ありがとうございます。昇進できるのも牧田さんのおかげです」

「何言ってるの。あなたの力が認められただけよ。私は口添えをしただけ」

 私たちの間に若干の沈黙が流れた。それでも牧田さんは柔らかい笑みを崩さず、私の言葉を待っているようだった。裏を返せばそれは、私に対してそれ以上言うことは無いという意思表示でもあるのだろうか。

 昇進祝いに飲みにでも誘おうかと思ったが、鈍色に光る銀色の指輪が目に入る。私はその眩しさにほんの少し目を細めて、彼女に背を向けた。

「それでは、お世話になりました」

「ええ」

 多分今、牧田さんは私に手を振っているだろう。それでよかった。牧田さんに見送られるなら、それで。

 それに昇進祝いの場を設けるなら、私から言うのではなく牧田さんがやるべきではないだろうか。だからそう、私が牧田さんを誘わないのは、別におかしくないのだ。やましいことなど何も無い。

 それなのに、私の心臓があの夜感じた体温や鼓動を忘れるのにはまだ時間がかかりそうだった。

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