第五話 チャーチャー・パーソム
「ユーヤ! ユーヤ!」
こうやってシルが駆けてくるのは何度目か。でも今度はさっきまでと違って、俺の隣の椅子に座った。疲れたのか、満足できたのか。
「もう踊るのは良いの?」
「うん、楽しかった。それで、見て、これ」
そう言ってシルが見せてくれたのは、手のひらに乗るくらい小さな人形だった。木の体と、頭、手と足。そのパーツが紐で結ばれている。頭には、鹿の角のような形のものがくっついていた。
「どうしたの、これ」
「一緒に踊っていた人にもらった。だからね、わたしは海で拾った石をあげた」
「海で拾った……マティワニかな、それともトホグ・モーラのこと?」
俺の言葉に、シルは困ったように首を傾けた。俺は慌てて、ウリングモラ・ナングスのドゥルサ・ナガの景色を思い出す。
「あの、木の上に家があったところで、すごい雨が降って……木の葉っぱの方? それとも島に行って砂浜で拾ったいろんな色の」
「いろんな色の! 青いのをあげた!」
シルはそう言って、手の中の人形を見てまた笑った。
「それは・イェミネ」
シルの持っている人形を親指で指して、ルームさんがそう言った。
「イェミネ?」
「ミンヤー……レク・ヒュチャーイ」
ミンヤー──チャイマ・タ・ナチャミの別名がミンヤー・ブッカウだったと思い出す。ブッカウは谷で、ミンヤーの意味は結局わからないまま。
そして、小さい人。人形のことをそう呼ぶんだろうか。それとも、本当に小人のようなものか。
考えたけれど結局「イェミネ」がなんなのかはわからなかった。また知る機会はあるかと思って、俺は「はい」と返す。ルームさんもきっと、伝わらなかったことがわかったんだと思う。苦笑するような表情で小さく「チャー」と言った。
俺とルームさんの遣り取りに、シルは不思議そうな顔をした。俺はシルに笑ってみせる。
「イェミネって言うみたい、それ。意味はわからないけど」
「それって、名前?」
「名前なのかな。どういうものなのか、よくわからないけど」
「イェミネ?」
シルが何か考えるように首を傾ける。視線がふわふわと宙を彷徨う。
「イェミネって、言われたかもしれない」
「じゃあ、その人も教えてくれてたのかな、名前を」
俺の言葉に何度か瞬きをして、シルは手の中の人形を見下ろした。シルの顔が俯いて、長い銀色の髪がさらりと落ちかかる。
「わたし……名前だってわからなかった」
「言葉がわからないんだから、仕方ないよ」
「でも、石も……わたしも名前、教えたかった」
小さな声で、シルはそう言った。シルの指先が、人形の頭に生えた角の形をなぞる。
「『トホグ・モーラ』っていうんだよ」
「トホグ・モーラ?」
シルの声はやっぱり小さいままだったけど、でも顔を上げて俺を見た。目が合って、俺は頷いた。
「そう。あの砂浜で拾った綺麗な石。あの場所の言葉で『トホグ・モーラ』って名前」
「トホグ・モーラ」
「名前を覚えておけば、次にまた会った時に教えられると思うから」
「次にまた……会える?」
「どうだろう、わからないけど。また踊るなら、会えるかも」
俺の言葉に納得したのかどうかわからない。それでもシルは、手の中の人形を大事そうに握って、小さく頷いた。
シェニア・エフウの「シェニア」というのは、どうやらきのこのことらしい。スープの中でも、きのこがたっぷり入ったものを「きのこのスープ」と呼ぶ。
スープの中に入っていたきのこらしきものを持ち上げて、ルームさんに「きのこですか?」と聞いたら「はい」と返ってきた。
つまりこのお茶は「きのこのお茶」ということだ。言われてみれば、魚とは違うけど出汁っぽいというか、懐かしい感じがする。気のせいかもしれないけど。
きのこのスープと細長いパン、それから夜も食べた小さな果物──これの名前はムシシッカというらしい──で遅めの朝食。ムシシッカは夜に見たときは黒っぽく見えたけど、明るい中で見たら濃い赤い色をしていた。
食べ終えて、シルと二人で食器を返しにいって戻ってきたら、ルームさんがテーブルの上に地図を広げていた。ルームさんが親指でテーブルをとんとんと叩く。
それでシルと二人で椅子に座って地図を覗き込む。
それは多分、トネム・シャビの地図だ。
真ん中を大きく囲んだ線の中がトネム・シャビ──湖。こうやって見ると、横に潰れたような形をしている。その左側をルームさんの親指が指す。
「ここは・トネム・イカシ」
全体が横に潰れて、そこからさらに細長く飛び出た端っこ。そこが現在地。俺は地図から目を離さずに「はい」と言った。
ルームさんの指が、湖を横断して反対の端に向かう。反対の端っこにも細長く飛び出たところがあって、そこで止まった。
「ここは・トネム・センルベト」
「トネム・センルベト」
ルームさんの言葉を繰り返すと、ルームさんは少し前傾していた体を起こして、それから左足を床から持ち上げた。そして、自分の持ち上げた左足を親指で指し示す。
「センルベト」
そういえば「イカシ」というのも腕の意味だった。「センルベト」というのは足という意味なのかもしれない。
そう思って地図を見ると、人の形のように見えないこともない。トネム・イカシの辺りはちょうど手を上げていて、トネム・センルベトの辺りの細長く飛び出たところは足。湖を人の体に例えて街の名前が付けられているんだろうか。
俺は、トネム・センルベトの近くにもう一つある細長く飛び出た先を指差して、ルームさんに聞く。
「何ですか?」
「チャー・トネム・イールバツ」
ルームさんは俺の指先を見てそう言った後、今度は右足を持ち上げてその爪先を親指で指した。
「イールバツ」
これはきっと、足の爪先の意味。ルームさんの指先が、もう一度爪先を指す。そこから脛を辿って、膝。
「ルバツ・ルベト」
次は右の膝と左の膝を順番に指し示す。
「イールベト・センルベト」
つまり、右と左ってことだ。今俺たちがいる場所は右腕で、ルームさんが指差した場所は左膝。
さっきまでぼんやりとしか見えてなかった人の形が、今はもうはっきりと見えて、俺は溜息とともに「はい」と応えた。ルームさんも満足そうに笑った。
不思議そうにこちらを見てくるシルに、地図を指差しながら「ここが右手で」と一つ一つ伝えてゆく。シルは首を傾けてじっと地図を見た後に、ぽつりと呟いた。
「踊ってるみたい」
確かに、手を上げて飛び跳ねているようにも見えた。それは、昨日ずっとシルが踊るのを見ていたからかもしれない。
俺は「本当だ」と笑った。
ルームさんには、寒い季節の間はトネム・イカシにいる方が良いと言われた。寒い季節が終わって次の暖かい季節になったらトネム・センルベトに向かう。
トネム・センルベトの先には大きな山がある。そこから川がトネム・センルベトに向かって流れ込んでいる。その川を遡った先に、レキウレシュラがある、らしい。
ルームさんは心配そうな顔で「違う・簡単」と言った。俺は笑って「ありがとう」と返す。それでも気持ちに足りなくて、大丈夫と言いたくて、言葉を付け加える。
「チャーチャー・パーソム」
ルームさんは俺の言葉に気が抜けたように笑った。もしかしたら、俺の使い方はおかしいのかもしれない。でも、ルームさんはまた、その言葉を言ってくれた。
「チャーチャー・パーソム」
きっと、ルームさんとのこんなやりとりも、もうすぐ終わりだ。