第三話 コココヤの踊り
何回も階段やはしごを登って──階段も怖いけど、はしごはもっと怖い。はしごを登っている間にもし落ちたらと頭を過ぎる。その想像は、背筋がひやっとするどころじゃない。それに、油断すると、遠近感で小さくなった谷底が見えてしまう。
俺が慎重に登っているせいか、先に登っていたシルが上から手を差し出してくれる。俺はその手を掴んで、最後の何段かを登り切る。
ルームさんには「チャーチャー・パーソム」と声をかけられる。意味はわからないけど、励まされているんだと思う。
そうして、気付けば崖のかなり高いところまで来ていた。
強い風に乗って、かろかろと、音が響いている。うっすらと聞こえていたその音は、高く登るにつれてはっきりと聞こえるようになっていた。なんの音だろうかと思うけど、ルームさんになんて言って聞けば良いのかがわからない。
見上げれば、崖に挟まれた空。下の方から見た時は、細長く切り取られた白い光にしか見えなかったけど、今は空の色が見える。隙間もずっと広い。手を伸ばせば届きそうに近い。
さらに階段を登れば、かろかろとした音が大きくなる。楽器で何か演奏しているような音ではなくて、風鈴やドアチャイムがひっきりなしに鳴っているみたいな、そんな感じでずっとからからと聞こえてくる。木と木を打ち付け合うみたいな、そんな音だ。
強い風が吹き抜けるとその音は一層賑やかに響くから、本当に風鈴みたいなものなのかもしれない。
ルームさんが手のひらを上に向けて、こちらに向かって招くような仕草をする。これは多分、見た通りに招かれていると思って良さそうだった。慌てて、シルと手を繋いで後を追う。
その進む先の横穴の前に、音の塊があった。横穴の周囲の壁に何かがたくさんぶら下げてある。強い風が吹いてそのぶら下げてあるものが揺れるたびに、あの、かろかろとした音が鳴る。道路にも、棒のようなものが立てられていて、そこにたくさんの細長いものが揺れて、やっぱりかろかろと音を鳴らしていた。
ルームさんは、その音に囲まれた横穴に入っていく。俺もシルの手を引いてそれを追いかける。シルは興味深そうに、瞳孔を大きく開いて、その音を鳴らしているものをあちこち眺めていた。
それは、コココヤという楽器らしい。ワンマという動物の骨で作られているのだそうだ。
細長い棒のような骨、あるいは平ったい板のような骨を打ち鳴らして音を響かせる。あるいは、大きな骨を棒のような骨で叩く。
骨だとわかる形のものもあったし、削られて、磨かれて、言われないと骨だとわからないものもあった。
紐をつけてぶら下げて風が吹くたびに音を鳴らすのは、ちょっとうまく聞き取れなかったんだけど、どうやら鳥除けなんじゃないかと思う。鳥は崖の中にまでは入ってこないけど、崖の上にはいる。だから、音を出して鳥を寄せ付けないようにしている。ということじゃないかと思う。
この横穴は、つまり鳥除けの楽器を売っている店ってことみたいだ。
ルームさんが二言、三言、何かを言うと、店のお姉さんは近くにぶら下がっていた小さな板状のものを二つ手にとって、指の間に挟んだ。人差し指と中指の間に一つ、中指と薬指の間に一つ。
その状態で、軽い調子で手を振ると、かかかっと小気味の良い音が響いた。そのまま、何度か手を振って、かかか、かろ、かか、と音を鳴らすと曲のようになった。
それから、自分が持っていたのと似たようなコココヤを俺とシルに持たせた。自分でも握りながら、説明をしてくれる。言葉はあまりわからなかったけど、そんなに複雑な楽器じゃないから、身振りだけでも音を鳴らすくらいはできるようになった。
軽く握り込むように指を曲げる。お姉さんの指先が、俺の中指を押さえる。どうやら、人差し指と中指で挟む方は、こうやって中指で押さえて動かないようにするらしい。中指と薬指で押さえる方は、動くように軽く。
その状態で軽く手を振ると、かろ、と音がする。
シルは、強く握りすぎてしまうせいで、音がうまく鳴らないみたいだった。
「指に挟むけど、力は抜いて……このくらい」
シルの目の前で握って、軽く振る。かろかろと音が響くのが楽しい。
俺の手元を見て、シルは力を緩めて手を振ったけど、今度はコココヤが落っこちてしまった。
「うまくいかない」
落ちたコココヤを拾って、シルは唇を尖らせた。力の加減の問題だと思うから、もうちょっと試したらできるようになりそうな気もするけど、シルはもう飽きてしまったみたいだった。
「ユーヤ、もっと音出して。ユーヤの音を聞くから、それで良い」
俺は苦笑して、手を振る。さっきのお姉さんのようにはいかない。けれど、手の振り方、その速さで音が変わることがわかってきた。素早く左右に振ると、何度か打ち合わされてかかかっと音がする。
かかか、かろ、かかか、かか、と辿々しくはあるけど、まるでその音は何かのリズムのようになって、それがなんだか少し楽しくなってくる。
店のお姉さんが、別のものを持ってきた。糸を編んだところに、小さな骨がいくつかぶら下がっている。俺が髪を結ぶのに使ってる森の飾りの牙の飾りに似てるかもしれない。
お姉さんはシルの前で、それを振ってみせた。コココヤほど大きな音じゃないけど、それはシルの目の前でかちかちと音を立てた。つまり、コココヤをうまく鳴らせないシルでも扱えそうなものを持ってきてくれたんだと思う。
シルは瞳孔を膨らませて、それを見た。お姉さんがシルの手を取って、手首に持ってきたそれを巻いて、結んだ。もう一つ、お姉さんは自分の手首に巻きつけて、シルに向かって振ってみせた。
かちかちちりちりと音がする。周囲のコココヤの音に紛れてしまいそうだけど、お姉さんの手の動きに合わせて鳴るその音は、確かに楽器の音だった。
お姉さんが手首をくるりと回したり、手を振ったりするのをじっと見ていたシルは、真似をして手を動かした。シルの白い手がひらりと動くと、かちかち、と小さな音が鳴る。
シルの目が、嬉しそうに細くなった。
お姉さんは今度は、シルの目の前で足を動かし始める。ステップを踏むようなそれは、きっとダンスだ。
シルは戸惑ったように俺の方を向く。
「真似してみたら。踊ったら楽しいかもしれない」
俺の言葉にシルはほっとしたように頷いて、それからお姉さんの真似をして足を動かし始めた。右足を出して踏み込んで、左足のつま先で床を叩いてから体重を戻す。次はもうちょっと複雑な足さばき。そうやって、いくつも、いくつも。
足だけの動きができるようになってきたら、今度は手の動き。手を上げて、振って、胸の前に持ってきて、広げて、その間も細かく振ったり手首を返したりして、その度に手首に巻いた骨が音を鳴らす。
お姉さんは、近くにあったコココヤを手にして、それを持ち上げた。かろ、かかっと音を鳴らす。
打ち合わせる音に合わせて、右足と左足を交互に踏み出して、戻って。その間に小さな複雑な動きが挟まる。小さなステップを踏みながら、コココヤを持った手がしなやかにくねって動く。
シルがそれを真似て足を動かす。お姉さんがコココヤを持った右手を振りながら持ち上げてゆくのを真似て、シルの白い手も上がってゆく。お姉さんがシルを見て笑った。
不意にお姉さんが俺を見て何かを言った。何を言われたのか、言葉がわからない。けど、言葉の最後にひときわ大きくコココヤの音が響く。それできっと、演奏に参加しろって言われたんだと思った。
お姉さんの演奏に合わせるなんてできないし、自信もない。迷っていたら、シルが俺を見た。
その視線に引っ張られて、俺も手を振り始めた。お姉さんの音に合わせようとして、でもあまり合わない音が、かか、と響く。こんなに下手で大丈夫かと心配だったけど、お姉さんは笑ったし、シルも嬉しそうにしてるから大丈夫なのかもしれない。
それにもともと、店の外に並ぶコココヤが、かろかろと賑やかに音を出している。だから、俺の出す音なんかそんなに気にするものじゃないのかもしれない。そんなことを思いながら、俺はお姉さんが鳴らすコココヤの鋭い音を、懸命に追い掛ける。
お姉さんの袖がひらりひらりと舞う。ズボンの膨らんだ裾がステップに合わせて揺れる。
シルのスカートの裾が揺れて、銀色の髪とそこに飾られた森の飾りの花が動きに合わせて輝いて、シルの白い手がくねるように動く。空中で何かを掴むように指先が握られて、それを胸の前に持ってくる。腕全体を大きく広げる。まるで、光を掴まえて周囲に振りまいているみたいに、少ない光の中でシルの指先が輝いていた。
最後に、くるりと回る。真似をしてシルも回る。シルの髪の毛とスカートが広がって、ふわりと落ちる。
シルは自分のスカートの裾が落ち着くまで眺めて、それから顔を上げて俺の方を見た。それまでも楽しそうな顔をしていたシルだけど、俺と目が合うと、はっきりと嬉しそうに笑った。