第二話 クフ・プワ
翌朝ルームさんに案内されたのは、食べ物を売ってるところ。油とスパイスのようなにおいに鼻をくすぐられて、空腹を自覚する。
崖の穴の中だから当たり前なんだろうけど、店の中は暗い。もちろん、あちこちに灯りはある。天井にぶら下げられた灯りはゆらゆらと、あちこちに影を映していた。朝だというのに、まるで夜みたいな気分になる。
通路のように細長い横穴の片側に石を削って平らにしただけのような椅子が並んでいる。深さのある器とスプーンを持った人たちが、そこに座ってどろりとしたスープのようなものを食べている。そこに、ごろごろと大きな肉の塊が入っているのが見えて、思わず唾を飲み込んでしまう。
シルも食べ物が気になっているらしく、ぼんやりと危なっかしいので、強めに手を引いて奥に進んだ。
そのスープは、クフ・プワという名前の料理らしい。
横穴の突き当たりで、ルームさんと一緒にクフ・プワが盛られた器を受け取る。お金はルームさんがまとめて払ってくれた。その分のコインは事前に渡してあるし、足りなければまた言われるだろうと思う。
器を両手で受け取って胸の前で持つと、そのスパイシーなにおいが昇ってきて、ぎゅうっと胃が動くのを感じる。シルは両手で受け取った器に鼻を近付けて、湯気に顔を突っ込んで目を細めた。
奥までやってきた通路をまた戻って、途中で空いた椅子に座って、そのスープをそれぞれ食べる。
まずは、スパイシーなにおいのスープを恐る恐る一口。においの通りに舌に刺激を感じたけど、すごく辛いってほどじゃなくてほっとする。カレーの中辛よりは辛くない。
スープの底には、スープを吸い込んで膨らんだ穀物っぽい粒が沈んでいた。そのほんのりと甘い味のおかげで、スパイスの刺激を美味しく味わえている気がする。
シルは警戒することもなく、まずはごろりと大きな肉の塊をスプーンに乗せて、それを頬張った。シルの瞳孔が膨れて、頬はせわしなく動いて、唇は閉じているのにその端から肉汁がつ、と垂れる。
ハンカチを出して拭いてあげるかどうか悩んでいる間に、シルは自分の手の甲でそれをぐ、と拭った。そして、顎を上げて白い喉を晒して飲み込む。
「お肉、美味しい」
飲み込んで、大きく息を吐き出したシルが、俺の方を見てそう言った。油で濡れた唇を舌が舐めて、それから口角が持ち上がる。言葉を聞かなくても、それだけできっと美味しかったんだってわかる顔をしていた。
「スープも美味しかったよ」
俺の言葉に、シルはまた目を細めて、それからスプーンでスープを掬い上げた。俺も、大きな肉の塊を口にする。
一口で食べるには大きめだったから噛み切ろうとしたけど、スプーンだけだとうまくできなくて、結局そのまま口に入れてしまった。
少し硬めの噛みごたえのある肉で、スパイスがよく馴染んでいる。口の中で噛んでいると、肉を食べているという満足感がすごい。長いこと噛んでようやく飲み込めば、スパイスの味が口の中に残って、もっと食べたくなる。
次に口に入れたのは、何かの野菜だった。それも大きめに切られてごろごろとしていたけど、よく煮込んであって、口の中で柔らかく潰れた。甘みが強くて、それもやっぱりスパイスによく合ってると思った。
飲み込んで、一息つく。飲み込んだスープが、体の中で温かい。
隣で、シルも肉を飲み込んだところだった。顎に垂れたスープをスプーンを握ったままの手の甲で拭って、舌を出してそれを舐める。それからまた、スプーンを器に入れて、スープを掬って持ち上げる。
それを口に入れる前に、ちらりと俺の方を見た。
「辛いかと思ったら、そんなに辛くないね。でも、美味しい」
「あんまり辛いと食べられないから、俺はこのくらいで良かったって思ってる」
俺の返事が終わるよりも前に、シルはスープを口に含んだ。そのまま顎を上げて、シルがスープを飲み込む。多分だけど穀物の粒はほとんど噛まずに飲み込んでいると思う。
白い喉が動いたかと思うと、シルはその顔を俺の方に向けた。
「ユーヤは、前も食べなかったよね、辛いの。そっか、ユーヤは食べられない……」
シルはそのまま、何か考え込むように黙ってしまった。視線が、ぼんやりとどこかをさまよう。大丈夫かな、と思う頃、シルの視線がまた戻ってきた。
「わたしは、もっと辛くても好き。でも、この味も美味しい。どっちも好き」
「このスープは、俺も好きだよ。美味しい。もっと辛いものは……また、どこかで食べられるかもね」
俺の言葉に、シルは嬉しそうに目を細めて頷くと、スープの中から大きな肉の塊を掬い上げた。
朝ご飯の後、ルームさんに行き先を聞かれたけど、チャイマ・タ・ナチャミにどんなところがあるのかもわからないので、何も答えられない。困って、シルを見る。
「行きたいところ、ある?」
シルは少し考えるように首を傾けてから、空を指差した。
「上に行きたい。この一番上まで」
シルの指先につられて、上を見る。崖に切り取られた空は、細長く白い光だった。
俺も空を指差して、ルームさんを見た。
「上」
ルームさんも上を見る。そのまましばらくの間、黙り込んでしまった。俺の言葉はどう考えても足りないし、だから通じてないのかもしれない。あるいは、崖の上までは行けないのかも。
そんなことを考えていたら、やがてルームさんが俺とシルを見比べてから口を開いた。
「チャー……はい・そう」
ザウラの意味は、ちょっと自信がないけど、肯定的な返事だと思っている。だからきっと、上まで連れて行ってもらえるのだと、そう思った。
ルームさんの思っている上がどこのことかはわからないからちょっと不安だけど。
ルームさんに案内されて、崖を登り始める。道を辿って、階段やはしごを登って、少しずつ高く登ってゆく。
深い崖の中は角度によって陽がほとんど入らない。崖にはぽつぽつと灯りが揺れていて、それを頼りに歩く。昼間だっていうのに、まるで夕暮れどきみたいな気分になってくる。
シルの手を引いたり、引かれたりしながら、ルームさんに付いていく。こうやって途中まででも、視線が高くなるたびに、シルは辺りを見回して、「高くなった」とはしゃいだ声を出す。
シルはきっと、高いところが好きだ。本当は飛びたいんだろうなと思いながら、ドラゴンの姿になって大丈夫なのかわからないまま、何もできないでいる。
そのことについて、シルなりには何か考えてはいるみたいだけど、何も言わない。ただ時々こうやって、高いところに行ってはしゃぐだけだ。
俺もシルと一緒に辺りを見回すけど、正直なところ、面白がるよりも先に足がすくむような気分になってしまう。もうかなり高いところまで来ている。
握っているシルの手が頼もしい。いや、それもちょっと情けないか。