第六話 ラハム・シャルク・アーテ
朝ご飯の後、ウワドゥさんに何かを聞かれる。多分、次の目的地はどこか、そんな話だ。
あの地図の次のバツ印の場所を思い出そうとするけど、内海から離れたところはぼんやりとしていて思い出せない。あの地図を出しても大丈夫だろうか、とウワドゥさんの顔を伺う。
黙ってしまった俺に、ウワドゥさんも口を閉じて、ちょっと眉を寄せた。
案内をしてくれたこととか、ドライロヌムを「ユーヤの分」と言って渡してくれたことだとか、それから明るく「大丈夫」て言ってくれたことなんかを思い出す。
そして、あまり根拠はないけど、きっと大丈夫だと思った。
「ええと……地図、したい、見る……駄目、出す」
俺の言葉に、ウワドゥさんは最初、意味がわからないとでも言いたげに瞬きをした。俺は周囲の人を見回して、それからもう一度「駄目、出す」と言った。
ウワドゥさんも、俺の視線に釣られたように周囲を見た。それから少しの間、何か考えるように黙って、そして立ち上がった。
「はい・行く」
俺も立ち上がって、隣でトホグ・アスを食べていたシルを振り返る。
「どこかに行く?」
「うん、地図を見て、次にどこに行くか考えるよ」
「わかった」
シルもこくりと頷いて、立ち上がった。
森の中程、家の下で座ってヤパを食べている人がいて、ウワドゥさんが頭上の家を指差して何事かを会話すると、そのまま縄梯子を登り始めた。上から呼ばれて、俺とシルも家に上り込む。
向き合って座ると、ウワドゥさんが言う。
「出す・地図」
肩掛けのバッグから取り出して広げた地図を見て、ウワドゥさんは目を見開いた。
「アーヤ・いいえ……いいえ……ジッダ・アーヤ」
そんな風に繰り返す「アーヤ」と「マヤー」は、多分そんなに意味のある言葉じゃないんだと思う。ウワドゥさんは、しばらくそんな言葉を口にしながら地図を眺めていたけれど、ようやく顔を上げて俺の方を見た。
今度は黙り込んで、俺の顔をじっと見る。やけに真面目な顔で。
俺は、地図を指差す。最初は、ドラゴンの島のバツ印。ウワドゥさんも、俺の指先を見る。
「俺、した、行く、ニッシ・メ・ラーゴ」
次は、ドラゴンの骨のバツ印。
「俺、した、行く、アズムル・クビーラ」
そして、ナガの背中のバツ印。
「俺、した、行く、ドゥルサ・ナガ」
ウワドゥさんは、「アー」と声を出した。溜息のように、長く。
地図を辿っていた俺の指先が、行き先を失くす。次のバツ印はずっと遠い。海岸線をずっと下に辿って、その先だ。
その遠いバツ印を、ウワドゥさんは指差した。
「はい・はい・アー……あなたたち・行きたい・ここ・か?」
「はい」
ウワドゥさんの指が、海岸線を辿って戻ってくる。そうして、また「アー」と言って俺を見た。
「ユーヤ……ユーヤ・ム・タフル・アーリブ」
真面目な顔で、ウワドゥさんは言う。けれど、俺にはその意味がわからない。ウワドゥさんは、俺がその言葉の意味をわからないと知っていて、俺にその言葉を言ったみたいだった。
「タフル・アーリブ」
前にも言われた気がすると思いながら、その言葉を繰り返す。ウワドゥさんは、ちょっと困ったように笑って、それから俺の頭に手を置いてぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜた。
「良いこと・あなたの分」
この言葉は、少しは意味がわかるものだった。良いことがあなたの分──それは、幸運を祈るような、そんな言葉らしい。
「ありがとう」
俺が口にしたお礼の言葉に、ウワドゥさんは拳を軽く握って額に当てた。
ここまで、「良いこと・あなたの分」という言葉は何度か聞く機会があった。誰かと別れる時だったから、それは別れの言葉なんだと思っていた。
きっと、ウワドゥさんとはここで別れる。だから俺はもう一度「ありがとう」と伝えた。
シルがドゥルサ・ナガの砂浜で拾った石を入れるのに、ウワドゥさんがちょうど良い袋を用意してくれた。太めの糸を編んで作ってある、手のひらくらいの小袋。ウリングラスやウリングモラの人たちが作っているものらしい。
シルは嬉しそうに、袋から石を出して手のひらに乗せて眺めては、また袋にしまってポシェットに入れるのを何度も繰り返した。こういう石を「海の卵」と呼ぶらしい。
シルが拾った石は、マティワニのような深い海の色や、砂浜のような白、夕日のような赤と様々だ。それを乗せているシルの白い手のひらは、まるでドゥルサ・ナガの砂浜みたいだった。
俺が代わりに差し出せるものはなくて──シルが閉じ込められていたあの部屋にあったものは、きっと出さない方が良いものだ──これまでは、ウワドゥさんにタザーヘル・ガニュンのお金を渡して肩代わりしてもらっていた。
そのお金も尽きそうで、困った俺は、あの部屋から持ち出したコインを一枚取り出して、ウワドゥさんに渡した。ウワドゥさんは受け取ったコインをまじまじと眺め、それから怒ったような顔をして、「タフル・アーリブ」と言った。
それで、ウリングラスを抜ける先までの旅の案内や、道中の食べ物や水、そういった手配を全部済ませてくれた。怒った顔で「タフル・アーリブ」を繰り返しながら。
そして最後に、見知らぬコインを詰めた袋を渡された。
「これ・ユーヤの分」
きっと、ウワドゥさんの方で良いようにしてくれたんだろうと思って、俺はそれを受け取る。
「ありがとう」
返ってきたのは、いつもの額に拳を当てる仕草じゃなくて、やっぱり「タフル・アーリブ」という言葉だった。
時間をかけて「タフル・アーリブ」の意味を聞いたところ、どうやら「変わっている」とか──もっと言ってしまえば「馬鹿」とか、そんな言葉みたいだ。
けれど、ウワドゥさんが俺を悪く言っている雰囲気はこれまでにも感じていなかった。ウワドゥさんはずっと俺を心配してくれていると思っていた。それだけじゃなくて、もしかしたら、呆れていたんじゃないかとも思うけど。
それで、ウワドゥさんとも別れて、ウリングモラの人が漕ぐ舟の上で、俺とシルは揺られている。
時々交代したけど、俺が漕ぐとほとんど進まない。シルはすぐにコツを掴んで、楽しそうに漕いでいた。
俺がウワドゥさんから受け取ったコインは、ウリングラスの先で使われているものみたいだ。ウワドゥさんは、本当に最後まで面倒を見てくれた。
ウリングモラの人に「良い・良い」と言われながら、シルが舟を漕いでいる。強い日差しを反射して、青い海が輝いて、櫂が跳ね上がると水滴が飛び散って、それがきらきらと海面に落ちてゆく。
その眩しいくらいの光の中で、暑い海風に、シルの青いスカートと銀の髪の毛が涼しげに揺れている。
きっとこの世界の中では俺もシルもとても変わり者なんだろうなと思ったけど、シルが楽しそうにしている姿を見ながら、それでも良いかと思ったりした。
『第十章 海に住む人』終わり
『第十一章 幸いの海』へ続く