第七話 そして旅の始まり
その川の名前は、「ラク・メ・アニェーゼ」というらしい。
そのどれかが「川」という意味なのかと思ったのだけど、どうやら違うみたいだ。デチモさんのジェスチャーと説明から察するに「ラク」というのは涙のことだ。「アニェーゼ」というのは誰かの名前みたいで、であれば「メ」は助詞かもしれない。
川は「フィウ」と呼ぶ、らしい。
アニェーゼという人の涙が、この川ということだろうか。
険しい山道から、ずっと、この川は流れている。
山道を抜けて平原に差し掛かると、川幅はぐっと広くなる。そして、牧草地や果樹園や畑なんかの中をゆったりと流れてゆく。
デチモさんの言葉の中に「ラク・メ・アルミロ」という言葉が出てくる。「ラク・メ・アニェーゼ」と、どうやら対になる概念みたいだ。きっと、あの地図のもう一本の川の名前なのだろう。
アニェーゼという人とアルミロという人は、川になるほどの涙を流したのか。いったい何があったのだろう。
それから「フィウ・メ・ラク」という言葉。涙の川。
そして「フィウ・メ・アメティ」という言葉も。何かの川。「アメティ」という言葉は前にも聞いた気がする。わからない言葉はいっぱいある。
ラク・メ・アニェーゼの川幅が広くなってゆくにつれて、道もしっかりしたものになっていった。建物も増えてゆく。そして気付けば、道の両脇に建物が並ぶようになっていた。
その街の名前は「フィウ・ド・チタ」というそうだ。
デチモさんとは、街に入って少ししたところで別れた。
別れる前に、デチモさんは俺たちを道の脇に寄せた。自分が背負っていた大きな荷物を道に置いて、その影に隠れるように、俺にずっしりとした皮袋を出してくる。
「急ぐ」
小さな声で鋭く言われて、俺は慌ててそれを受け取って肩掛けのバッグに入れた。
デチモさんは懐から、初日に渡したあのコインを取り出して、俺に見せるとまたすぐにしまった。
デチモさんの言っていることは半分もわからなかったけれど、どうやら俺がデチモさんに渡したコインは今は通貨として使われていないものらしい。多分だけど。
今は使われていない古いものだけど、あるいは古いものだから、この皮袋の中身くらいの価値がある、多分。
デチモさんが渡してくれたコインの量は多くて戸惑ったけれど、ここまでの食料とか面倒をかけた分とかは差し引いて、それでもまだこれだけの価値がある──ということだと思った。
「ありがとう」
俺がそう言ったら、デチモさんは笑ってくれた。
もしかしたら、あの部屋から持ち出した使い道のわからない他のものも、すごく価値のあるものなのかもしれない。
そういえば一度だけ、デチモさんにあの部屋から持ち出した紙の束を見せてみた。デチモさんはチラと見るなり「古い」と呟いて、俺にそれを突き返した。
その後、また早口で何かを言われた。内容はほとんど聞き取れなかったけど、最後に強く「駄目・出す」と言われて、それだけは意味がわかった。
あまり人に見せない方が良いらしい。
確かに、価値のあるものだとしたら、それを見せて回るのは不用心だ。思い返せば最初から、俺はデチモさんに対して不用心なことばかりしていたことになる。
不用意に出さない。デチモさんが良い人で、本当に良かった。
俺はデチモさんから受け取ったコインを小さな皮袋に少しだけ移し変えて、残りのほとんどは例の肩掛けバッグに入れる。
デチモさんは、最後に手の甲を見せるその時まで──手の甲を見せるのは別れの挨拶らしい──心配そうに俺とシルを見ていた。
元々、俺とシルには、目的がない。
たまたま出会ったデチモさんの目的地まで、一緒に来ただけのことだ。そして、デチモさんと別れた今、目的地も一緒に失ってしまった。
道端で二人、シルと顔を見合わせる。
「シルは、どこか行きたいところある?」
俺の問い掛けに、シルは首を振る。シルの答えはいつも同じだ。
「わからない。ユーヤに付いてく」
シルは、その透き通った瞳をまっすぐに俺に向ける。それもいつも通りだ。
俺はただ、なぜかあの場所にいたというだけなのに、なんでシルはこんなに懐いてくれているのだろう。
何も知らない俺は「助ける」だなんて言ったけれど、実際は何もできないでいる。
本当の意味でシルを助けられるような──ドラゴンのことに詳しい誰か──あるいは、他のドラゴンがいたら。
「シルの仲間って、どこかにいないのかな」
「仲間?」
シルが不思議そうに俺を見る。街の色彩は賑やかで、シルの銀色の髪はその様々な色を受け止めて、キラキラとした輝きを添えて反射させる。
まるで万華鏡みたいだ。
「うん、他のドラゴン。最初にシルの隣にいたドラゴンて、どこに行ったのかな」
シルは、困ったように首を傾けた。
「殻を破った時に隣にいたアレがどこに行ったか、わからない。よく、思い出せない」
隣にいたというその存在は、シルにとっての何者なのだろうか。どうしてシルは、あの場所に閉じ込められていたのだろうか。
「そのドラゴンって、シルの家族なのかな」
「家族……」
シルは、どこかぼんやりした表情で、俺の言葉を繰り返した。それから、ゆるゆると首を振った。
「わからない」
「そっか……ごめん」
シルは、どれほど長い間、あの部屋で一人きりでいたんだろうか。
動くこともできずにずっと誰かを待っていたシル。俺は、彼女の仲間を見付けてあげたいと思った。
あの地図のバツ印は、何かの手掛かりになるかもしれない。俺はそのことをシルに話す。
「それに、他にもドラゴンがいそうなところがあれば、行ってみよう。もしかしたら、シルの仲間が見付かるかもしれないし」
「ユーヤがそうしたいなら。わたしは、ユーヤに付いていくから」
シルはあまりピンときていないようで、やっぱり少しぼんやりしたまま俺を見て、いつものようにそう言った。
自分のことだというのによくわかっていない様子のシルを見て、いつか彼女が自分でやりたいことを見付けられたら良いな、とその時俺は思った。
それが、俺の──俺とシルの旅の始まりだった。
『第一章 ドラゴンの少女との出会い、そして旅の始まり』終わり
『第二章 二つの川の街』へ続く