第七話 そしてドラゴンの少女と
気付けば春になっていた。雪が溶けてわずかに地面が見えたかと思うと、そのほんの短い間にそこに草が生えて花が咲く。小さな白い花の周りを蝶のような虫が飛んでいるのを見て、虫はもう動き出しているのか、と思ったらあとはあっという間だった。
地面に染み込んだ雪解け水は、窪地の湖を大きくしたり、どこかから流れ出して川になって走ってゆく。その行く先は、きっとトネム・センルベトだ。
まだ雪を被る山に囲まれた広い草地。柔らかな草が生えて、小さな花がぽつぽつと咲いて、虫が飛び回っている。その中に、まるで解け残った雪のような銀色のドラゴンがいた。
体を伸ばすように大きく羽を広げて、顎を空に向かって持ち上げて、首を伸ばしていた。俺が近付くと、羽を畳んでその顔を俺の方に向ける。そのアイスブルーの瞳は、確かにシルだと思った。
「シル」
顔を上げて呼びかける。シルはじっと、俺を見下ろしていた。
「わたしは、行く、したい」
俺の言葉が届いたのかどうか、シルの応えはない。それでも、俺は言葉を止めなかった。
レキウレシュラの言葉で話すのは、やっぱり自信がないままだ。それでも、片言でも、俺はシルと話したかった。シルに聞いて欲しかった。だから、諦めずに俺は全部言葉にした。
「わたしは、旅、したい。たくさん、見る、食べる、楽しい、綺麗」
俺の言葉は結局、俺の気持ちにはちっとも足りなかった。
本当はこんなことじゃなくて、もっと、たくさんのいろんなことが言いたい。たくさんの面白いこととか、たくさんの美味しいものとか、綺麗なものとか、嬉しかったこととか。シルと一緒で楽しかったってこととか。
シルの首が俺の目の前まで降りてきた。縦に長い瞳孔が、じっと俺を見る。俺はその鼻先をそっと撫でる。嫌がられてはいないみたいで、ほっとする。
「シル、一緒、旅、したい。シル、一緒、楽しい、したい」
一緒に行きたいというのは、俺のわがままだ。こうやって伝えている今だって、それを言ってしまって良いのか、わからないでいる。レキウレシュラにいれば、シルは言葉も通じるし、普通に暮らせる。レキウレシュラでも、シルは楽しそうにしている。
それに、旅をしていればドラゴンの姿になるのはきっと難しい。俺はきっと、シルにいろいろと我慢させてしまうことになる。
でも、旅の中でいろんなものを見て笑っていたシルを、俺は見たいと思ってしまった。もう一度──違う、何度だって、ずっと、シルと旅をしたい。
ふわり、と風が吹き抜けた。
それで次の瞬間、そこにいたのはドラゴンの姿のシルじゃなくて、人の姿のシルだった。初めての時みたいに、裸だった。その胸にあったはずの金色の模様はなくなっていて、今はただ滑らかな白い肌だ。
その素足が柔らかな草を踏んでいる。
「ユーヤ」
シルの声が、俺の名前を呼ぶ。そして、シルの白い足が地面を軽く蹴ると、シルの体が俺に飛び付いてきた。
「イエールユーヤサウム。ユーヤサウムラウーファーラウムウ」
シルの言葉は、まだ全部は聞き取れない。でも、きっと大丈夫だと思った。俺の足りない言葉でも、きっと気持ちは伝わったんだと思った。シルの気持ちも、きっと俺は受け取れている。
ところで、シルは裸だったので、とても扱いに困った。俺にしがみついてくる白い体を上着で覆って隠すと、辺りを見回す。シルは服をどこで脱いできたんだろうか。
「シル、服、どこか、ですか?」
俺の声に、シルはしがみつく手の力を緩めて、俺を見上げた。その隙に俺は自分の上着を脱いでシルの肩に掛ける。前の合わせをきっちりと閉じる。
「服……あっちに」
シルはそう言って片方の手を持ち上げて、窪地にできた小さな湖の方を指差した。無造作に手を持ち上げるものだから、せっかく羽織らせた上着の意味がなくなってしまっている。
慌てて目を逸らすと、俺はシルの指差す方に走り出した。
そこにあるのは、服とたくさんの装飾品。
シルはもう一人で服を着ることができるから、俺はただ視線を逸らしてそれを待つ。服を着たら涙の石を首にかける。
ハイフイダズで買った貝のブレスレットを手首に巻くのはまだ難しいらしく、俺がやっている。反対の手にはチャイマ・タ・ナチャミで買ったコココヤも。
森の飾りを髪に結ぶのも俺の仕事。森の飾りは二つ、花の飾りのものと、俺が編んだちょっと不恰好な貝殻真珠が縫い付けられたもの。
シルはそれから、トウム・ウル・ネイで買ったポシェットを肩にかけた。中に入っているものを一つ一つ思い出す。
ドラゴンの島で買ったローモスの鱗、タザーヘル・ガニュンで買った石、ラハル・クビーラ、ウリングラスで拾ったマティワニ、ドゥルサ・ナガで拾った海の卵、バイグォ・ハサムで買ったバイグォ・ハイ、トネム・イカシでもらったイェミネの人形、雪の季節に拾った歌うたいの黒い羽。それから、俺が書いたシルと俺の名前の文字。
全部、シルが旅の中で見付けて手に入れたものだった。
それから何日も経たないうちに、俺とシルはレキウレシュラを出発した。ハクットゥレさんとレキさんも一緒だ。
役目が終わればどこにでも行けると言っていたハクットゥレさんだけど、レキウレシュラを出てどこかに行くのかどうかは聞いていない。でも、レキウレシュラに冬支度を持ち帰るための荷車を引いていたので、また寒い季節になる前に戻ってくるつもりなんじゃないかって気がしている。
レキさんは、やっぱりまだ名前がないままだ。レキウレシュラの人たちには「ドラゴン」と呼ばれているらしいから、もうそれが名前みたいなものかもしれない。
そして、本当に初めて外に出たらしい。恐る恐るといった様子で周囲を見回して、ぼんやりと歩いていた。
俺は「歩くのが遅い」と言われて、また荷車に乗せられてしまった。
今一緒にいる三人はみんな多分ちょっと規格外だと思うので、これは俺の体力がないとかそういうことではない、と思っている。
トネム・センルベトでレキさんとハクットゥレさんの二人とは別れた。レキさんは人がたくさんいるのが落ち着かないみたいだったけど、ハクットゥレさんもいるから、きっと大丈夫だと思う。
それで、シルと二人になって、夕方の街の道端で顔を見合わせる。
「シル、どこか、行く、したい、ですか」
辿々しい俺の片言に、シルは笑って応えた。聞き取りが難しい俺のために、シルはゆっくりと話してくれる。
「楽しい・どこか・良い・ユーヤ・一緒・行きたい」
俺も笑って、シルと手を繋ぐ。
街のどこからかトゥやイラカを焼くようなにおいが漂ってきた。それで、まずは何か食べなくちゃと思う。
歌うたいの歌も聞こえてきて、もう踊り出すような時間か、と思う。
シルが俺の手をぎゅっと握ったのは、お腹が空いたのか、踊りたいのかどっちだろう。どっちもかもしれない。弾むように歩き出すシルに引っ張られて、二人で歩く。
シルの銀色の髪が揺れて、夕日の赤に染まる。
「ユーヤ、ユーヤ」
シルが笑いながら俺の名前を呼んで振り向いた。シルの髪はきらきらと、いろんな色を映して輝く。万華鏡みたいだ。
「ユーヤ。わたしは・ユーヤ・一緒。ヤクソク」
シルの辿々しい「ヤクソク」の発音に俺は頷いて、それに応える。
「わたしは、シル、一緒。約束する」
とても大事な言葉だけど、俺はやっぱり辿々しくしか発音できなかった。それでもシルは嬉しそうに笑って頷いてくれたから、きっと伝わったんだと思う。
シルは今度は少し先にあるトゥの店を指差した。シェニア・エフウのにおいもする。
美味しいものを食べて、踊って、面白いものを見て、綺麗なものがあったらまた買おう。そうやって、シルの──シルとの思い出が増えてゆく。今、胸元に下がっているお揃いの涙の石みたいに。鞄の中にそっと入れている雪の鳥の羽みたいに。
シルは何度も俺を振り向いて笑う。そのアイスブルーの瞳に、夜の始まりの空の色が映っていた。
それが、俺とシルの旅の新しい始まりだった。
『旅をする──ドラゴンの少女と巡る異世界』終わり
ここまでユーヤとシルの旅にお付き合いいただけて嬉しいです。
ありがとうございました。