第六話 初めての挨拶
冬──シャビマで言うところの寒い季節の間、俺はレキウレシュラで過ごした。雪が深いので、どこにも行くことができない。
この先どうするかを考えるには、ちょうど良い時間だったような気がする。
シルは毎朝毎晩、俺のところに来た。
朝には森の飾りを俺に差し出してくる。だから、シルの髪に森の飾りを編み込んで結ぶのは、まだ俺の仕事だった。
その後にはシルが俺の髪を梳かす。俺の髪を梳かすのもシルの仕事のままだった。俺の荷物は、シルが持っていてくれた。ルキエーで買って貝殻真珠で飾った櫛も、ちゃんとあった。
失くしたと思った俺の森の飾りもだ。あの時に解けて落ちただけで、シルが拾って持っていてくれた。俺はシルに髪を梳かしてもらった後、すっかり馴染んだ角の飾りで、髪の毛をまとめる。
レキウレシュラで俺が話すのは、シルとレキさんとハクットゥレさんくらいだけど、シルはいろんな人と話しているみたいだった。他の人と一緒に料理の手伝いみたいなちょっとした仕事をして、すっかりレキウレシュラに馴染んでいるように見える。
それに、話して、笑って、楽しそうにしている。
歌も、あの雪の歌だけじゃなくて、いくつか教えてもらって覚えたみたいだった。夜にシルの髪を梳かしている間、シルはいつも何かを歌ってくれる。歌詞の意味はわからなくても、俺はそれを聞いて綺麗だと思うことができた。
そうやってシルの歌を聞きながら森の飾りを外して髪を梳かしていると、いつかこれも俺の仕事じゃなくなるのかもしれない、と思ったりする。
シルがどう思っているのかは、わからない。
前はもうちょっと、シルの気持ちがわかっているような気がしていたけれど、なんだか今はわからなくなってしまった気がする。言葉が通じなくなってしまったせいもあるだろうし、それだけじゃなくて、一緒に旅をしていた頃とは何かが変わってしまったってことかもしれない。
一緒に旅をしてたときだって、わかっているような気がしていただけで、本当は何もわかっていなかったのかもしれない。
シルはレキウレシュラでいろんなことをやっているし、ハクットゥレさんも何かやることがあって忙しいみたいだった。
レキさんには何もない。レキさんは、自分が何をやりたいのか、何をしたら良いのかもわからなくて困惑しているように見えた。多分、レキさんがそれを見付けるためには、まだ時間が必要なんだと思う。
それは俺も同じだった。俺はまだ、この先どうしたら良いのかわからない。今このレキウレシュラで何をしたら良いかだってわからない。
一日二日はぼんやりと過ごしていたけど、ただぼんやりするには冬は長過ぎた。別な言い方をすれば、時間はいっぱいあった。
それで、俺はレキさんに頼んで、レキウレシュラの言葉を教えてもらうことにした。レキさんはとても嫌そうな顔をするけれど、それでも付き合ってくれている。
本当に、レキさんと俺にとっては、時間だけはいっぱいあった。
教えてもらうと言っても、ただ話しているだけだ。俺の質問にレキさんが答える。大抵は短い言葉。俺はその発音と意味を覚える。同じ言葉を繰り返し言ってもらうこともあった。
レキウレシュラの言葉は難しい。まず、聞き取れない。独特な抑揚を聞くと、やっぱり言葉ではなくハミングか何かに聞こえてしまう。
それを乗り越えてようやく言葉のように聞こえてはきたけど、それでも単語と単語の境目がわかりにくい。知っている単語でも前後の単語とくっつくと、もう見失ってしまう。
同じ単語でも、レキさんの発音がハクットゥレさんの発音と違って聞こえることも多かった。
そんなだから喋る方も自信がない。いくつかの単語を覚えはしたけれど、こんな調子で話すことができるんだろうか、と思う。
それで時々、前はシルと話せていたのに、とも思ったりする。
シルと言葉が通じなくなった理由は、わからない。言葉が通じるという状況が昔に誰かが残した術というもののせいだと言うのなら、その術の効果が切れたということかもしれない。
あるいは、レキさんに残されていた術と何か関係しているのかもしれない。レキさんとは、以前のシルのように言葉が通じるのだから。
なんにせよ、考えたところで答え合わせができることではないだろうから、と思うことにしている。
ある日、レキさんとの会話が続かなくなって困った俺は、シルがいたあの部屋から持ち出したもの──文字らしきものが書かれた紙だとか──を取り出してレキさんに見せてみた。レキさんはちょっと見て、顔をしかめてひどく嫌そうな顔をした。
「俺には古いものらしいってことしかわからなかったんですけど、何か知らないかと思って」
「人のことなんかわかるわけがないだろう」
それで今度は、地図を取り出して広げてみた。こっちの方は、レキさんは嫌な顔をしなかった。ただ、不思議そうに瞬きをして眺めていた。
俺は、レキウレシュラだと思う場所を指差した。俺から見て、右下の山脈だ。
「多分、レキウレシュラはこの辺りだと思います。この川を下っていった先にある、この大きな湖がトネム・シャビ」
指で川を辿って少し左上に動かして、そこにある大きな湖の形をなぞる。レキさんは眉を寄せた。
「トネム・シャビというのは、名前は聞いたことがある……まだみんながいた頃だ。大きな湖だと誰かが言っていたけど、わたしは湖を見たことがないから、わからない」
「湖を……トネム・シャビをってわけじゃなくて?」
「レキウレシュラの外に出たことがない」
「外にっていうのは、地上にって意味ですか?」
「地上?」
そんな噛み合わない会話を続けて、それからようやく、レキさんは初めて会ったときのシルと同じなんだと気付いた。レキさんは、きっと外の景色を見たことがない。
「冬が終わったら、外に出てみたら良いと思います」
「外に出たら、人に攫われて戻ってこれないと言われていた。結局、外に出なくても人はやってきたけど。それでわたしは縛られたし、みんな攫われてしまった」
「昔のことは俺にはわからないけど、シルはあの姿でここまで来ました。ハクットゥレさんだって、あの姿でトネム・シャビまで出かけています。ドラゴンの姿にならなければ、きっと大丈夫だと思います。あ、でも、言葉が通じないと不便だから、ハクットゥレさんに連れて行ってもらうのが良いかもしれません」
「ハウム」
そう言って、レキさんは地図を見たまま考え込んでしまった。
レキさんはまだ、名前がないままだ。レキさんがそれをどう思っているのかは、わからないけれど。
とてもゆっくりと流れる時間の中で、俺は暖かい季節になった時のことをぼんやりと考えていた。
レキウレシュラの言葉を覚えるのは、そのために必要なことだ、きっと。とても大変だったけど、それでも話せることは増えてきた。本当に、少しずつだけど。
夜、いつもみたいにやってきたシルの森の飾りを外して、髪を梳かす。やっぱりいつものようにシルは歌う。俺はシャビマの言葉で「ありがとう」と伝える。
シルは笑って俺の手から櫛を取り上げる。俺は自分の髪に結んだ森の飾りを外して、シルの前に座る。シルの手が、俺の髪に櫛を通してゆく。
俺は一回深呼吸をしてから、ゆっくりと口を開いた。
「シル」
俺の声に、シルは手を止めた。振り返ってシルを見上げると、シルは不思議そうな顔で首を傾けた。
「シル、わたしの、名前は、優也」
シルの表情はきょとんとしたまま変わらなかった。俺の言葉は何か間違っていただろうかと、不安になってもう一度言う。
「わたしの、名前は、優也」
「ユーヤ」
シルはやっぱりよくわかってないみたいに、俺の名前を呟いた。
それで、シルからしたら、突然に知っている名前を言われただけなんだ、と気付いた。慌てて、知っている言葉を掻き集めて口にする。
「わたしは、話す、できる……少し」
シルはしばらくぱちぱちと瞬きをして、それから嬉しそうに目を細めた。
「ユーヤ、ハラエータですか?」
この「ハラエータ」はきっと「話す」と「できる」だ。繋がると発音が変わるみたいだけど、そういう言葉が多すぎて聞き分けるのも喋るのも難しい。
自分の発音の拙さを思い知って、それでも伝わったのが嬉しくて、俺は頷いた。
「わたしの、名前は、優也。あなた、の、名前は、シル」
俺の言葉に、シルは大きく頷いた。
「わたしの名前はシル。あなたの名前はユーヤ。わたしはシル。ユーヤエーラーエフ」
「わかる、できる」
シルは目を細めて何度も頷いて、それから椅子に座って見上げたままの俺を見下ろして、ゆっくりと言った。
「ユーヤ、ダイジョーブ」
シルがその言葉を──その音の響きを覚えてしまったのは、きっと俺が「大丈夫」って言い過ぎたからだ。
俺の「大丈夫」はいったいどれだけシルを不安にさせただろうか。それでも、俺の気持ちはちゃんとシルに届いていたのかもしれない。
俺はシルに頷いて、「大丈夫、わかる」と返した。