第二話 俺は何もわからないまま
四角い部屋にいた。それは多分、シルと初めて会った──シルがずっと閉じ込められていたあの部屋だ。
シルに似た銀色のドラゴンが、部屋の奥にうずくまっているのが見えた。どうやら、卵を抱いているらしい。
俺はその様子を眺めながら、ごわごわとした紙に何かを書いている。
もしかしたらこれは、俺じゃないのかもしれない。ただ、この人の視線で見ているというだけで。それならこれは誰かの記憶だろうか。それともやっぱり、ただの夢だろうか。
現実感はないまま、流れるように時間が過ぎてゆく。卵が割れて中から出てきた小さな──小さいと言っても人が抱えるくらいには大きいけど──その小さな、まだ鱗が透き通るようなドラゴンは、きっとシルだ。
俺はただ、それを眺めて紙に何かを書き留めるだけ。
そうやって何を書いているのか、俺にはわからない。
そのうちに、気付けば部屋の中のドラゴンはシルだけになっていた。大きなドラゴンがどうなったのか、わからない。シルの体も、随分と大きくなった。初めて会ったときと同じくらいにはなったかもしれない。
俺は眠るシルの首と脚に何かを呟きながら触れてゆく。
俺が触った跡が金色の光の線になって、その線は、植物の蔦か何かのようにするりと伸びてシルの首と脚に巻き付いた。
その目的がなんだったのか、あの部屋はなんのためにあったのか、シルがなんのためにあそこに閉じ込められることになったのか、俺は何もわからない。
気付けば、また別の場所にいた。洞窟の中のような見回すほどの空間──それはきっと、レキウレシュラの一番奥の、ドラゴンが眠っていたあの場所だ。
その奥に大きな銀色のドラゴンが伏せている。首と脚に金色の光が巻き付いている。
俺が近付くと、ドラゴンは下瞼を下ろして俺を見た。歯を剥き出して、ぐぅ、と低く唸る声。でも、今の俺にはその声が何を言っているのかわからない。
ドラゴンの敵意に気付かないかのように、俺は無造作にドラゴンに近付いて、観察をする。なんのために観察しているのかはわからない。
ドラゴンは苦しげに呻きながら首を持ち上げたけれど、俺の手が脚に巻き付く金色の光に触れたら、一層大きな声を上げて首を地面に落とした。そして、身体を大きく揺らして苦しげに息を吐き出す。
俺はそれにも構わず、ごわごわした紙を地面に置いて、ペンとインク壺を取り出して、そこに何かを書く。苦しげに呻くドラゴンの、すぐ隣で。
その意味も、目的も、やっぱり何もわからない。
目を開けてもまだ夢の中のようで、しばらくぼんやりと天井の岩肌を眺めていた。自分が自分じゃないみたいに感じるのは、きっと夢の名残だ。
夢──だったんだろうか、とぼんやり考える。朧げに残る光景を思い出してみるけど、やっぱり何もわからない。
「エーケトマエーシュ」
声が聞こえて、ぼんやりと思い出していた夢の景色が搔き消える。それでようやく焦点が合った気がして、何度か瞬きをする。肌に当たる布が、汗でじっとりとしている。
銀色の髪の毛がさらりと揺れて、ハクットゥレさんに顔を覗き込まれた。
少しぼんやりとその表情を眺めているうちに、何が起こったのかを思い出してきた。レキウレシュラに来て、ドラゴンの姿を見て、俺はそのドラゴンに──そうだ、シルが俺の名前を呼んでいた、と思い出して慌てて起き上がる。
身体中がぎしぎしと痛む。後頭部がじんじんと熱っぽい気がして、頭をぶつけたことを思い出した。
「気を付けて」
ベッドの脇に立っているハクットゥレさんは、俺を見下ろしたまま、そう声をかけてくれる。
体を包んでいた柔らかな毛の織物や、布団のようなものが落ちて、自分が服を着ていないことを知る。自分の左胸、ちょうど心臓の辺りに見える金色の模様。
自分の胸に手を置いて、ハクットゥレさんを見上げる。
「シル……シルは? シルはどこですか?」
咄嗟に出てきたのは掠れた声の日本語で、ハクットゥレさんは困ったような顔をした。そうだ、通じる言葉で話さないといけない。シャビマの言葉で「どこ」はなんて言うんだったっけ。質問のときの言葉はなんだったっけ。
「あの女は、今は別の部屋だ。きっと寝ている。少し前まではここで煩くしていた」
ハクットゥレさんとは別の声が聞こえて、俺はようやく部屋の中を見回した。レキウレシュラの、地面の下にある部屋の一つのようだった。俺が寝ているベッド、岩肌を掘って作られた棚、木でできた小さなテーブル、同じような材質の簡素な作りの椅子。
その椅子に座っていた男の人が立ち上がって、俺に近付いてきた。ハクットゥレさんの隣に立って、俺を見下ろす。
長い銀色の髪はシルの髪色によく似て、今は部屋の灯りを映して輝いていた。同じ色の睫毛に縁取られた瞳はアイスブルーの淡い青。陳腐な言い回しをすれば、まるで絵から抜け出たように綺麗な顔をしていた。
その顔立ちは、俺やシルよりも大人っぽく見えて、でもこうやって並んでいるのを見ればハクットゥレさんよりは若いように見えた。ハクットゥレさんはもしかしたら、かなり年上の人なのかもしれない、なんて今更気付いた。
ハクットゥレさんの隣で俺を冷たく見下ろしているこの男の人が、きっとあのドラゴンなんだと自然に理解できた。だとすれば、少なくとも俺はあのドラゴンを解放することができたらしい。何から解放したのかもわからないし、それが良いことだったのかもわからないけど。
ハクットゥレさんは、そのドラゴン──今は人の姿だけど──に何かを伝えると部屋を出て行った。それで俺は、そのドラゴンと取り残される。
そして、俺はずっとこのドラゴンに睨まれている。輝くような淡い色合いは、今は冷たく鋭く俺を見下ろしている。居心地の悪さに、俺は目を伏せて落ちかかってくる髪の毛を掻き上げた。髪を結んでいた森の飾りはどこにいってしまったんだろう。
それに、服も。荷物も。荷物があれば、中に服もあるはずなのに。
「マウヌ」
その声に、目を上げる。一応と部屋の中を見回して、二人しかいないことをもう一度確認してから、またその冷え冷えとした顔を見上げる。
「ええと……俺のこと、ですよね?」
「他に誰もいない」
恐る恐る聞けば、低い冷たい声が降ってくる。怯みそうになるのを堪えて、俺は真っ直ぐに見上げて口を開く。
「優也です」
返事はない。訝しげに眉を寄せられただけ。だから俺はもう一度繰り返す。
「俺の名前は優也です。あなたの名前を」
「名乗るな。名乗らせるな」
その声の勢いに、俺は口を閉じる。意味がわからなくてぼんやりと見上げていたら、ぎりぎりと音がしそうなほどに睨まれた。
「マウヌエルそうやってテーレシュ。あの女もそうやって縛ったんだろう。今度はわたしもテーレシュムウエーシュ」
「縛る……? 待ってください、俺は」
「今度は何をしにきた。レキアルまた攫いに来たのか、奪いに来たのか」
「待って、待って話を」
「あの女はラーンファー攫って来た」
頭に流れ込んでくる意味と耳に流れ込んでくるでたらめなハミングのような音。シルの言葉と同じだ。何を言われているのかがなかなか理解できないのはそのせいかもしれない。
それとも、もしかしたら、それは俺がいつもずっと不安に思っていたことだから、理解したくないと拒絶してしまっているのかもしれない。
だって、俺はシルに我慢させている。俺がいるせいで、シルは自分で選べなくなっているんじゃないか。シルのためになんて言いながら、シルの手を掴んで離せないのは俺じゃないか。俺はそうやって、一人になるのが怖いだけなんじゃないか。俺はシルを縛っているんじゃないか。
「待って……お願い、待って……話を……」
自分の口から出てくる言葉はうわごとのようにまともな意味なんかなくて、情けない話、そのまま泣き出してしまった。体が震える、寒い、そうだ、服を着ていないんだった。
震えて、顔を覆って泣き出した俺を見て、そのドラゴンがどんな顔をしたのかはわからない。
ハクットゥレさんが温かな湯気を纏って戻ってきたのは、ちょうどそんな時だった。