第一話 旅の終わり
レキウレシュラの奥深くに、ドラゴンはいた。シルに似た銀色のドラゴン。氷と冷たい石に埋もれて、静かに眠っている。
この旅は、シルの仲間のドラゴンを見付ける旅だった。だから、ここが旅の終わりだと、俺は思った。
深呼吸をすると、肺に冷たい空気が入ってきて引き攣りそうになる。でも、それで少し落ち着くことができた。
ハクットゥレさんが小さな声で何かを言う。俺にはほとんど聞こえなかったけど、シルは聞き取れたらしい。シルを見たら、シルは俺とハクットゥレさんの間で視線を彷徨わせて、それからようやく口を開いた。
「ここから動けなくなったんだって。ずっと昔から、ずっと」
シルが俺への通訳をしてくれたからか、ハクットゥレさんはさらに言葉を続けた。シルがその言葉を繰り返す。
「時々は目を覚ます。でも長い間は起きていられない。何も食べない、何も飲まない。ただ、じっと、ここで眠り続けている。レキウレシュラでは、ドラゴンの血が強い人が呼びかければ、眠りから目を覚ますって言われているんだって」
目を覚まさないドラゴンに呼びかけるのがハクットゥレさんの役目なのかもしれない。でも、ハクットゥレさんではこのドラゴンを解放できないんだ。シルなら解放できると思ったのだろうか。それで、シルをここに連れてきたかったのかもしれない。
でも多分、本当に必要なのはドラゴンの血なんてものじゃないんじゃないか、と俺は思った。
俺がシルを解放できたのがどうしてかはわからないけど、きっとあの時と同じことが必要なんじゃないだろうか。
「それで、この人よりわたしの方がドラゴンの血が強いから、わたしに守る役目をして欲しいって」
「駄目だ」
反射的に言ってしまってから、シルのびっくりした顔を見て、慌てて言葉を続ける。
「あ、ごめん。その……シルが決めて良いことだとは思う。でも……」
ずっとあの部屋にいて、何もできなかったシル。外に出て、いろんな物を見て楽しそうに笑っていたシル。
シルをまたどこかに縛り付けるようなことは、したくなかった。でも、ここにドラゴンがいて、シルがドラゴンの近くにいたいと思うなら、俺がそれを止めるのは間違っている気がする。
シルが何かを言う前に、俺はもう一度口を開く。きっと俺は、シルの答えを聞きたくなかったんだと思う。
「シル、ハクットゥレさんに、このドラゴンを目覚めさせたいのかって聞いてみて」
シルは見開いた目を何度か瞬きしたけど、俺には何も言わずに、ハクットゥレさんに向かって俺の言葉を繰り返してくれた。その言葉を聞いて、ハクットゥレさんは少しためらうように眠るドラゴンの姿を見て、それから口を開いた。
ハクットゥレさんの言葉を、シルが繰り返す。
「目覚めたら、役目が終わって……どこにでも行ける」
ハクットゥレさんも、きっとシルやこのドラゴンと同じなのかもしれない。レキウレシュラから長い間は離れられず、ドラゴンを見守り続けて、目覚めないとわかっているのに呼びかけ続けて──それはきっとしんどいことだとは思う。でも、だからといって、その役目をシルが引き受けても、同じことの繰り返しだ。やっぱり、それじゃ駄目だ。
ハクットゥレさんの声と、それを繰り返すシルの声は続いていた。
「ドラゴンのわたしでも駄目なら、きっと目覚めるのは無理だって」
「違う」
俺は二人の声を遮った。ハクットゥレさんを見て、シャビマの言葉でもう一度言う。
「いいえ」
シルは黙って俺を見ていた。ハクットゥレさんはわずかに眉を寄せた。俺は、ハクットゥレさんをまっすぐに見たまま、言葉を続ける。
「わたし、助ける」
俺の言葉に、ハクットゥレさんはさらに眉を寄せた。訝しげな視線で、戸惑うように俺を見る。
シルの手を離すと、シルも不安そうな顔になった。シルに「大丈夫」と笑ってみせてから、俺はそのドラゴンに近付いた。
頭のどこかが凍りついたみたいにぼんやりと白い。でも、その中に答えがあることはわかっている。
「ハウェタ!」
ハクットゥレさんが叫ぶ。意味はわからないけど、きっと俺を止めようとしてるんだと思った。もっと強い制止──例えば体を押さえられるとか、そういうこともあるかもと想像していたのだけど、動き出そうとするハクットゥレさんの前にシルが立ってくれた。
「ユーヤはわたしを助けてくれた! 何も知らなかったわたしを助けて、ここまで連れてきてくれた! ユーヤはドラゴンを助けるだけ!」
シルを助けたのは、俺にとっては偶然だった。あの時は何もわからなくて、目の前に現れたものに手を伸ばしただけだった。それでも、それがシルにとってどれだけ大きな意味を持っていたのか、今ならわかる。
呼吸をすると、冷たい空気が体の中に入ってくる。ぼんやりと凍りついた頭の中で、曇った氷の中を必死に覗き込む。
こうやってドラゴンを助けることが、俺がこの世界に来た意味かもしれない。それは、覗き込んだ中からようやく見付けた答えの一つ。どうして俺なのかとは思うけど、理由なんて意味のないものかもしれない。
これは俺がやるべきこと。今はその確信だけあれば良い。
俺を一飲みにできそうなほど大きいドラゴンの顔、そのすぐ脇に立って、そっとその鼻先に手を伸ばす。
「助けるよ」
呟くようにそう言ってから、撫でるように、そっと手のひらで鼻先に触れた。
その瞬間、ドラゴンの首と脚に巻き付いていた光の輪が、砕けて弾けた。
ハクットゥレさんの叫び声がする。それと、ぐぅ、という低い音が響いていた。光が収まって目を開けば、ドラゴンの下瞼が降りていて、大きなドラゴンの瞳と目が合った。
シルの瞳に似た淡い青い透き通った湖のような瞳だった。俺の姿をその瞳に映して、縦に長い瞳孔がぶわっと膨れた。口がめくれて、鋭い歯が剥き出しになる。そして、ぐぅ、ぐる、と唸り声が響く。
──返せ。
その唸り声は、確かにそう聞こえた。どういう意味だろうと思った瞬間、俺はその鼻先に押されて地面に倒れ込み、大きな前脚に体を押さえ付けられていた。
倒れ込んだ時に頭を打ったらしい。一瞬気が遠くなって、その後ずくずくとした痛みで思考が鈍る。押さえ付けられた身体も動かせず、息も苦しい。
「ユーヤ!」
シルが俺に駆け寄ってくるのを、ドラゴンの顔が邪魔をした。それでシルが、ドラゴンを睨む。
「ユーヤールカーウファウ!」
頭がずきずきと痛むせいかもしれない。シルの言葉が聞き取れない。シルが何を言っているのか、わからない。
「シル、大丈夫だから。大丈夫」
ドラゴンに押さえ付けられたまま、俺はなんとか声を出した。ようやく絞り出した俺の声は、シルに届いたらしい。シルは大きく目を見開いて、俺の方を振り向いた。その顔が、ぼんやりとして見える。
「ユーヤ! ユーヤ!」
「大丈夫、大丈夫だから」
俺の言葉はシルに届いているだろうか。ずきずきと痛む頭が、思考の邪魔をする。身体も痛い。
そうだ、俺は大丈夫じゃない時に大丈夫だって言い過ぎた。だから俺の大丈夫って言葉じゃ、シルは安心できない。そう思ったのだけど、他にちょうど良い言葉が見付からない。痛いせいだ。
せめて笑ってみせようと思ったのに、それがうまくいったかもわからないまま──俺はそのまま、気を失ってしまった。




