第一話 行ってみたい
暖かい季節になって、雪の鳥を追いかけるように湖を船で渡って、俺とシルはトネム・センルベトに向かった。
まだ残っている雪の間から、草木の柔らかな緑が鮮やかに見えていた。湖の氷はすぐに砕けるくらいに薄く柔らかくなっていた。柔らかな陽射しに空気もぬかるんでいた。
船上で景色を眺めていたシルが、木々の影に見え隠れするウペラの角を指差す。その白い横顔を眺める。銀色の髪が暖かな陽射しを反射して虹色に輝いている。
寒い季節の間、一度だけシルに「レキウレシュラに行きたい?」って聞いてしまったことを思い出す。あれは確か寒い季節が終わる少し前で、最後の吹雪の日で、寝る前で、森の飾りを外して髪を梳かしているときだった。
「シルは、レキウレシュラに行きたいと思う?」
椅子に座っていたシルは瞬きをして、後ろに立つ俺を振り返って見上げてきた。俺は櫛の動きを止めて、シルを見下ろして応えを待つ。
沈黙が続いて、こんなこと聞くんじゃなかったって不安になり始めた頃、ようやく口を開いた。
「ユーヤは、一緒だよね。約束だよね」
シルの言葉に、俺は慌てて大きく頷いた。
「シルのことを勝手に置いてったりしない。一緒にいる。約束」
「ユーヤと一緒なら行ってみたい」
俺の言葉に嬉しそうに笑って、シルはまた前を向いた。俺が髪を梳かし始めると、そのままシルが言葉を続けた。
「レキウレシュラにはドラゴンがいる?」
「それは、わからないけど。でも、シルみたいな髪の色の人がいるって。それに、シルが歌っていた雪の歌」
「レキウレシュラの歌なんだよね?」
「そう。だから、シルのことが何かわかるかも。わからないかもしれないけど」
それ以上何を言ったら良いかわからなくて、俺は誤魔化すように櫛を止めて「髪の毛おしまい」と声をかけた。シルがまた振り返って俺を見上げる。
「あのね、ユーヤ」
梳かしたばかりの髪がさらりと揺れて、部屋の灯りを映して輝いた。俺はまだ言葉を見失っていて、黙ったまま首を傾けた。
「今まで、初めて見るものがたくさんで楽しかった。わたしはずっと動けなかったけど、ユーヤが来て動けるようになって、楽しいことがいっぱいあった。どこかに行くのも何かわかるのも楽しい。だから、わたしはレキウレシュラに行ってみたい。ドラゴンがいるなら会ってみたい」
きっと俺は、なんのためにレキウレシュラに行くのかって、この時になってもどこかで考えていたんだと思う。
ドラゴンなんか見付からなくても、本当のことなんかわからなくても、構わないんじゃないかって。このまま、何も知らないまま、ずっとシルと旅をしていたって良いじゃないかって。
シルに「行きたい?」って聞いて「行きたくない」って言われたら、レキウレシュラには行かずにずっと、ずっとこうして旅を続けていられるんじゃないかって。
「楽しいことは全部ユーヤがいたからで、ユーヤが助けてくれたから。だから、ユーヤと一緒が良い。ユーヤと一緒にレキウレシュラに行きたい」
そう言って笑ったシルが、椅子から立ち上がる。そして俺の手から櫛を取り上げた。
「今度はユーヤの番」
シルに促されて、俺は髪に結んでいた森の飾りを解いて椅子に座る。シルの手が俺の髪に櫛を通してゆく。
シルは俺と一緒にいるって約束してくれた。俺もシルに一緒にいるって約束をした。けど俺は、きっと自分の約束を信じきれていないんだと思う。まっすぐなシルと違って。いつまで経っても。
「シル」
声をかけて振り向けば、シルは手を止めて俺を見下ろした。俺はさっきのシルみたいに、シルを見上げる。
「一緒に行こう」
本当はもっと、いろいろと言いたいことがあった気がする。約束のこととか、ここまでの旅のこととか、この先のこととか。でも、それをどう言葉にして良いかわからなくて、出てきた言葉はたったそれだけだった。
それでもシルは嬉しそうに笑って、頷いた。
ウペラの角を追いかけていたシルの視線は、今度は飛び立つ黒い鳥──歌うたいを追いかけた。柔らかな陽射しの中で羽ばたく黒い羽の中に艶やかな虹色が見える。
シルの髪が広がって、風の流れが見えた。湖の上を滑る風はひんやりと雪を感じさせて、それがすっきりと体の中に入り込んできて心地良い。
シルは顔にかかる髪に頭を振って、くすぐったそうに笑って俺を見た。
トネム・センルベトは、トネム・イカシによく似た街だった。トネム・イカシよりも少しだけ雪解けが遅いかもしれない。到着したのはもう夕方で、街のあちこちで歌うたいの歌が歌われていた。
到着したらまずは、泊まるところを見付ける。船の人、船を降りた先の人、食べ物を売っている店の人、と聞いて回って辿り着く。ただ聞くのも申し訳なくて、店ではちゃんと買い物もした。木の器に入ったパンを持って歩いていると、トネム・イカシに到着した日のルームさんを思い出す。
宿屋らしき建物で先に幾らか支払って部屋に案内される。「お願い、きのこのお茶」と言えば、笑って「はい」と返事してもらえた。
その日はそのまま部屋でパンを食べてきのこのお茶を飲んで寝る。シルは外から聞こえる音楽にそわそわしていたけど、「明日は見に行くから」と言えば大人しく頷いた。
パンを頬張るシルはいつも通りに笑っていて、俺も笑ってお茶を飲んだ。なんだかいつも通りな気がして、少し力が抜けたところで、自分が緊張していたことに気が付いた。
そんなにすぐに何かが変わるはずもないのに。
そう思いながらも、俺は弱くて自信もないから、自分の中の不安をどうにもできないままだった。