第二章(四)
更はあやまたずに垂から教えられた通りの道順をたどって歩いて行く。
国久流は慌ててその背を追いかけ呼び止めた。すると色の淡い若者は素直に振り返り、返しに来たはずの国久流の衣を持ったまま不思議そうに見つめ返してきた。道は合っているはずだが、とでも言いたげだ。
「人のうちの中を勝手にうろつくんじゃない」
数日身柄を預かって世話をしたとはいえ、更はほとんど傍屋の外へ出なかった。それゆえ彼の姿を見た下僕が厨の前で怪訝そうな顔をしている。遠目に見ても色の薄い更の髪や、泥だらけの今の格好は目立つのだ。
「俺のあとをついてこい」
顔の知られていない更がくせ者と間違われないためには、それが一番よい方法だった。
事情を察したのかそうでないのかは分からないが、彼はこっくりと頷いて国久流の背中に従った。
更の顔色はこの館を出て行った日に比べてずっとよい。海から引き上げたときの身体の冷たさを思うと、快復してくれたことは喜ばしいことだ。
海で死んだ者は仲間を喚び、漁師の舟や商い舟に災いをなす。ゆえに海から暮らしの糧を得る津守の一族は、浪間で危うくなった命を手厚く看護し、面倒を見る。更の命を救うことには、国久流らが自らの命を守るという意味もあったのだ。
一方、海で死に、厄神となった魂を慰めて、漁や航路の安全を祈念するのが布瀬の水辺の族長――垂の役目の一つだった。
それが永い間守られてきた掟。お互いの領分。
布瀬の水辺では、海辺と湖畔で担うべき役割のすべてが二極に分かれている。
海辺の長達は商いと漁を行う、湖畔の長達は御倉の管理と農作を行う。
海辺の長達が武力を司り、湖畔の長達が祭祀を司る。
たとえ垂が両方の頂点に立つ存在であっても、潟湖のほとりに住んでいる以上は湖畔の掟に属するべきだった。
少なくとも彼女の夫・田勢比古はそうだった。水辺の頂点に立ちながらも、海のことはすべて義弟であった国久流の父・田津比古に任せていた。
父は今も海辺の支配者だが、垂は族長を名乗ったその日の内に父の担うべき役割に干渉してきた。たかが海難者の一人を連れて行かれただけだが、それ以前の国久流を拒む発言によって、垂に対する父の心証は最悪だ。
いや、本当はもっと前から、父の心には疑いの影が広がり始めていた。
始まりは義兄が病臥したときから。垂ほどの巫女が病に倒れた田勢比古を癒やせない――そんなはずはない、もしや田勢比古が病臥したのは、垂が原因ではないのか。
証拠はなくとも、父の中にある疑いは肌が黒く染まった田勢比古の亡骸を見たとき確信となっただろう。
それでも父が垂を糾弾しないのは、田勢比古のあとを継いで祭祀を行えるのが彼女だけだったからだ。そして、我が子の国久流を彼女の隣に収め、〝族長〟の権威により近づく道があったから。
特に後者の持つ意味は大きかった。垂が国久流の子を産めば、次代の族長の地位に津守の一族が意見出来る。
敬愛する義兄の死の疑惑にすら目を瞑った父の打算と野心を思えば、垂のわがままなど可愛いものだ。
しかし、彼女は分かっているのだろうか。
己の立場がいかに不安定であるか、または水辺の中で湖畔と海辺の勢力が分裂することの意味を。
水場へ着いてようやく、国久流は自分の替えの衣を持ってきていないことを思い出した。それもこれも更がさっさと歩いて行ってしまうからだ。
まあいいと考え、国久流は上衣を脱いで井戸屋形の柱に引っかけ、泥が混じった髪を解く。
「自分で水を汲んで好きに洗え」
縄をつけた瓶を井戸に投げ込みながら言うと、更も頷いて上衣を脱ぎ始める。
近くにあった空の瓶に自分のための水を移しつつ、国久流は露わになった更の半身をちらりと見た。
助けた時に身体を調べたので知っていたが、更の肌にはあちこちに細かな傷痕がある。新しい切り傷や打撲は岩場へ引っかかった時に負ったものだろう。しかし、そのほかは国久流の身体にある傷、すなわち槍や大刀の稽古でつくような刃物の傷と同じであるように見えた。
身体つきも、細いが均整がとれていた。意図してつくられたような美しさだ。
海で見つけた時に着ていたものが絹であったことと合わせて考えれば、更が名のある氏族の生まれである可能性は極めて高かった。
そして、更が話す言葉の訛りを鑑みると、さほど遠い土地から来たわけではなさそうだ。
布瀬の水辺の北の地、二つの潟を持ち半島を東西にまたぐ天宮。または水辺から望める弓形の湾、その中ほどにそそぐ二上川を遡った先にある平野を支配する二野。水辺が接する主な国といえばこの二つだ。
どちらもこの布瀬の水辺と同じ海に育まれた勢力であり、互いに交易の舟を絶やすことがない。それゆえ自然と言葉も似通ってくる。
強いていうならば、更の話す言葉は天宮のそれに近いように感じられた。確かめたいところだが、今日は更が話している声をろくに聞いていない。
もし、更が天宮の族長の血筋に連なる者であったら。
垂がよそから夫を迎えると言ったのが本気であったら。
さっき、垂が親しげな手つきで更の顔や首筋をぬぐっていた光景が思い出された。
更には霊力があるようだから、連れ帰って自分の傍で養生させる。垂の中には、その言葉だけでは片付けられない更への関心が芽生えているように感じられてならなかった。
そして、更の中にも。
思えば彼は二度目に目覚めたときから垂のことを気にしていた。いったい二人の間に何があったのやら。国久流にはまったく分からない。分からないので彼らの間に割って入れない、それが腹立たしい。
更も井戸に落とした瓶を引き上げ、その水で髪を洗い始めている。色の薄い髪と白い肌。この世のものではないようなその色は、ある意味異形だった。
けれども、この色が霊力を持っていることと関わりがあるのなら、山津神の娘といわれる垂が、更の見てくれに親しみを覚えるのも無理はない。その謂われのために、国久流の父に生贄とされた垂なら。
ところが、国久流はそう納得してしまうのが嫌だった。
霊力があろうとなかろうと、より長く垂のことを見てきたのは自分だ。一時はこの館できょうだいのように過ごした。垂が族長の妻となったのも見た。
そして彼女が、夫の殯を行う仮宮へ入る時に浮かべた仄暗い笑みも見た。
その時確信したのは、夫を亡くした彼女が、大人しく国久流の腕の中に収まる気はないのだということ。
その確信は現実のものとなり、垂は国久流を拒んだ。その真意も量りかねているというのに、そこへよそ者に割り込まれてはさらに垂が遠ざかる。
罪のない更には悪いが、どうにかして彼を垂の傍から引き離さねばならない……。
いらいらしながら髪をすすいでいた国久流が顔を上げると、更は瓶に括り付けられた縄の途中を持ってうずくまっていた。
「どうした?」
「いえ、……髪が」
国久流は汚れた瓶の中の水を棄ててから、井筒の向こうに屈み込む更の手許を覗きに行った。
見れば茶色の髪の一房が、ささくれ立った荒縄にもつれているではないか。解こうとしても濡れた髪はぎっちりと絡み合い、びくともしないようだった。
「切ってしまえ。大した長さじゃない」
「刃物を持っておりません」
更の操る言葉の訛りは――よく聞き分けようと思ったが、ごく短い言葉ではそれも叶わない。また分かったところで、更をどうするかも思いついていない。
「俺の刀子を貸してやる」
国久流は短い溜め息とともに立ち上がり、上衣と一緒に柱に引っかけてあった帯から刀子を外した。
垂のことをよからぬ目で見ている気配があっても、更は悪くない。
帰る場所も己のことも分からぬ心細さの中で、無償の庇護を与えてくれるという垂に親しみを覚えても、それは仕方のないことだと思えてしまう。
「ほら、これを使え」
意地悪になりきれない自分にうんざりしながら、国久流は更に向かってひょいと刀子を投げた。
何気ない動作だった。しかし投げた一瞬、国久流は手に残った違和感にしまったと思った。
宙へ放り出された刀子は、くるりと回った途端に鞘を脱ぎ捨てた。掌に収まる小さな刃がぴかりと光り、顔を伏せたままの更に向かって飛び――形のよい長い指に、吸い寄せられるように受け止められる。
花びらでも掴むかのように刀子の峰を捉えた更は、遅れてゆっくりと顔を上げた。
薄い茶色の瞳に国久流の姿が映った瞬間、赤松の葉ずれが不意に大きくなった。いや、聞こえたのは葉ずれの音ではなく、耳の奥に湧き起こった別のざわめきかも知れない。
国久流はしばし言葉を忘れて更を見つめる。彼も静かに国久流を見上げてくる。
「……すまん、きちんと鞘に収まっていなかった。怪我はないか」
国久流が恐る恐る発した言葉に、更はそっと瞬きながら応えた。
「はい」
そして、何ごともなかったかのように刀子を持ち直し、惜しみもせずに縄と絡んだ髪を切り落とした。