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第二章(三)

 国久流に案内させるまでもなく、垂は田津比古の館のことをよく知っている。田勢比古(たせひこ)に嫁ぐまで暮らしていたのが、ほかならぬこの館だからだ。浜辺で遊んで砂だらけになった時、どこで身体を洗っていたのかもちゃんと覚えていた。

「あの傍屋(かたや)の奥に(くりや)があって、井戸はその北側よ。着替えにこれを持って行きなさい」

 母屋の廻り廊へ出て、更に井戸への道順を教える垂。持たせたのは先ほど国久流が「いらん」と言った替えの衣一式だ。いらないと言ってくれてよかった、と思う垂の後ろで、もとの持ち主が眉間に皺を寄せているのを見たのは倭文織だけだった。

 頭から泥だらけの若者二人が水場へ、倭文織が別室へ去ったあと、母屋には垂が所望した通りきらきらしい玉類が運ばれてきた。

 淡い黄色に、橙色に近い茶色。垂は数ある玉の中から琥珀を選び、光に透かしながらよく吟味する。この色がよいと思うものを見つけると、絹を敷いた小さな籐籠の中に除けていく。

「津守の館によくこれほどの品がありますこと。最上の玉類は玉練(たまねり)の御倉へ納めるのが掟のはず」

 そうしているうちに、髪を丹念に洗い終えた倭文織が先に戻ってきた。泥のにおいもとれ、どうやら国久流の計らいで新しい衣の上下も用意されたらしい彼女の機嫌はずいぶん持ち直していた。

「外つ国からの使者にすぐ渡せる贈りものとして、よい玉を見繕っておくことを田勢比古さまがお許しになっていたのよ。ここにあって助かったわ」

 そう呟きながら垂は琥珀を選り分ける手を止めない。倭文織もその隣に座り、垂が興味を示さなかった瑪瑙や青石の管玉を手にとった。

「更殿に差し上げる御統(みすまる)をお作りになるのですか?」

 今朝同様、そう囁く倭文織の口許はにこにこと微笑んでいる。

「そうあって欲しいとでも言うような口ぶりね」

「そのようなことは。しかしながら、琥珀の御統が一番似合いそうなのは更殿ですもの」

 垂が摘まんだ琥珀の一粒はまろやかな艶を放ち、選ばれたことを喜ぶようにとろりと光った。更の、色の薄い、松脂のような瞳と同じ輝きで。

「使い方を心得ていない霊力ほど危ういものはないわ。悪神が更に依り憑かないように玉の一つも持たせておいた方がよいでしょう?」

「おっしゃる通りでございます。垂媛さまが心をこめて選ばれた御統を賜ることが出来るなら、更殿も心強いでしょう」

「……今朝から変よ、倭文織。何が言いたいの」

 目を細めて笑う倭文織は、その言葉を待っていたと言わんばかりだ。紅をさし直した赤い唇が垂の鼻先まで迫る。

「更殿が、国久流殿のようにどこかの氏族の若君であればよろしいのに」

 そう言われた瞬間、垂は素早く周囲に視線を滑らせた。

 大丈夫。倭文織の声が聞こえる距離に侍婢はいない。

「ここでその話をするのはまずいわ。津守の侍婢に聞かれたら田津比古殿の耳にも入ってしまうのよ」

「ほほ、案ずることはございませぬ。侍婢には身体が冷えたゆえ白湯を持って参れと命じましたもの」

 だとしても、垂は倭文織のいたずらな囁きに応じようと思わなかった。

 垂が国久流を選ばなかったことを、控えめに言って田津比古はよく思っていない。これでは()()()()()()垂を田勢比古のもとへ嫁がせたのか分からない、と歯噛みしているはずだ。

 そんな彼の耳目である侍婢や下僕がうろつく場所で、彼のいらだちを煽るような言葉は慎んでおきたかった。いわばここは敵の館なのだから。

 垂は頷きもせずに琥珀を選び終え、玉と一緒に用意させた丈夫な絹糸に、その一粒一粒を通し始めた。

 冷淡に無視されても、倭文織は口を閉じない。

 田勢比古の許に嫁いだ垂を支え続けてきたその唇で、あなたさまのつくる国が見たいと言ったその唇で、慈悲深い母のように彼女は言う。

「外つ国の血を引く者を夫に迎え、水辺にある古きくびきを打ち破るのが垂媛さまのお望みのはず。それを叶えて下さるのが更殿であったならどんなによいかと、今朝のお二人の様子を見て感じました。今も、御統をお作りになる垂媛さまを見ていると思わずにはおれませぬ。……優しいお顔」

 糸を呑み損ねた丸玉が垂の指から滑り落ちた。こつん、こつんと硬い音を立て、琥珀の玉は逃げていく。

 垂はそれを追わず、空になった指先を握り込んだ。

「己のことすら知らないはぐれ者を哀れんでいるだけよ」

「さようでございますか」

「田津比古殿にも国久流殿にも、わたくしがわたくしの夫を選ぶのだということを分かって貰うには、更はよい飾りだし」

「ええ」

 そして更が己の中に故郷の景色を見つけ出したら、ここを出て行くだろう。垂を見つめていた眼差しも残さず。死のにおいに怯え、垂の許から去った地霊と同じようにあっけなく。それでいいのだ。

 転がり逃げていった琥珀の代わりに、垂は次の玉を摘まむ。するとその手に倭文織の手が重ねられた。冷たい水で肌や髪を清めてきたせいか、彼女の身体は本当に冷えていた。

 けれど、優しく握られた手の甲には、内側から滲む彼女のぬくもりが伝わってきた。

「垂媛さまは、欲しいものを望んでもよいのですよ。それが貴女さまを思う殿御であるなら、更殿のことだって」

 胸の端に追いやっていた闇がじくりと疼いた。

 欲しいもの。垂は喉の奥で声にならない声で呟き、唇を噛む。

「――嫌よ、倭文織。わたくしが欲しいのはそんな小さなものではないわ。言ったでしょう」

 母のように労ってくれる女の手を解き、垂はすっと背筋を伸ばした。

「わたくしが欲しいのはこの『布瀬の水辺』よ。そのために田勢比古さまを黄泉路へ追いやり、族長の座に就いたの。でもまだ終わっていないわ。次は田津比古殿を黙らせる。わたくしがそなたの主なのだと認めさせる。それで初めて、水辺のすべてがわたくしのものになる」

 そしてやっと埋められるのだ。

 『山津神(やまつかみ)の子』という烙印によって空っぽにされていた、何も持たない『垂』という存在そのものを。

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