第二章(二)
春の漁が始まったので、水門川の途中にある中津にはほとんど舟がいなかった。杭と石積みで護岸が施された入り江へ入って舟を降り、浜辺の防砂林を目指していけば田津比古の館がある。
しかし、そこへ向かう前に垂は国久流と鉢合わせた。彼は中津の入り口にある物見櫓の上から陸の方を睨んでいて、入り江へ入り込んできた垂の舟にもすぐ気がついた。
「海を見張る櫓から陸など見て、いったい何をしていたの」
垂が訊ねると、猿のようにするすると櫓から降りてきた国久流は渋面で答える。
「ちょっとな」
でも答えになっていない。櫓の上に残る物見番達がくすくす笑っているのが気になったけれど、垂は「ふうん」と適当な相槌を打ち、茜に持たせていた荷物を今日も国久流に押しつけた。
「お前のうちに行こうと思っていたところよ。荷物を持ちなさい」
「なんで俺が」
「重たいのよ。というかお前のよ。返すわ。どうもありがとう」
「俺のぉ?」
怪訝そうで不服そうな顔をした国久流だったが、垂から渡された一抱えある包みを受け止めてはっとした。その視線は途端に棘を帯び、最後に舟から降りてきた更に刺さる。
睨めつけられていることに気づいた更は、遠慮がちに笑みを浮かべて頭をたれた。
垂が国久流に渡したものの中身は、彼女が更のために借りた衣だった。更はきちんとお礼をしたいのだ。ところがその恭しい態度がかえって国久流の気に障ったようだった。彼はふんと鼻を鳴らし、包みを垂につき返してきた。
「いらん。返されても、困る。勝手に盗っていったくせに何が返すだ」
「盗ったですって? 好きにしろとお前は言ったわ」
「何も言わないうちから櫃をひっくり返していただろう」
「蓋を開けただけよ」
「誰が開けていいと言った」
「開けて欲しくないなら在処を言わなければよかったじゃない」
包みを押しつけ合って言い争う二人の傍で、茜と更はおろおろと彼らの顔を順番に窺い、倭文織とその侍婢は袖の影で笑いを堪えている。櫓の上からも笑う声がいくつも降ってきた。
せっかく返すと言っているのに。こんなところで押し問答をしていては見世物になるだけだ。国久流がもう一度いらないとのたまうのなら棄ててやる――歯噛みしながら垂がそう思った時。
「や! 見えましたぞ若さま!」
櫓の上で物見番が叫んだ。思わず上を見ると、物見番が弓を振りながら田津比古の館の方を指差している。けれどその表情は実に愉快そうで、緊急事態というわけではいらしい。が、国久流だけは狼狽えた。
「ちっ、しつこい――」
「いたぞーっ!」
国久流の舌打ちに甲高い叫び声が重なった。何ごとかと思えば、物見番が指差していた方角、赤松の林の中からわらわらと子供の集団が飛び出してきた。
「クニがいたぞー! 捕まえろーっ!」
先頭を突っ走ってくる齢十ほどのおのこは、持っていた木ぎれを振り上げ後ろをついてくる仲間の一団に大号令を発した。わーっと歓声があがり、めいめいに木ぎれなどを持った子供の軍団が喜々としてこちらへ走ってくる。
「これは強敵じゃ、お逃げくだされ若さま!」
櫓の上にいる男達は手を叩いて大盛り上がりだ。
「笑いごとじゃない!」
国久流は物見番を怒鳴る勢いのまま垂に荷物を押しつけた。後ろに向かってよろけた彼女を更が支える。
「いい加減にしろ海比古! さもないと、」
国久流は先頭を走ってくるおのこをも怒鳴りつけようとしたのだろう。けれどそれより早く、子供は「えい」と気合いを入れて何かを投げる。それは滴の尾を引きながら矢のように飛来して、振り返った瞬間の国久流の顔面にぶつかった。
「当たったぁ!」
悶絶してうずくまる国久流に、飛び上がって喜ぶ子供。それがまた合図になって、ほかの子供達も手にしていたものを次々と投げ始めた。
「きゃああ!」
侍婢や倭文織が悲鳴を上げてうずくまるところへ容赦なく飛んでくるもの。田んぼの土を丸めた泥玉だ。足許に落ちて弾けたものに裳裾と沓を汚され、垂は驚きと不快感とで眉間に皺を寄せた。
なんだこの襲撃は。
そしてふと顔を上げ、今度は目を瞠る。
生臭い滴とともに真っ黒な泥玉がこちらへ向かってくるではないか。
避けられない――と思ってとっさに目をつむったが、泥玉が弾けた水音こそすれ、どこにも何もぶつからない。代わりに長い腕で抱え込まれていた。
恐る恐る目を開けると、泥で汚れた肩や白い首が見え、遅れて色の薄い髪が一筋こぼれ落ちてくる。
「更……」
「お怪我は」
「ないわ。ないけど、お前……」
泥が飛び散った更の白い頬を、垂は指先でぬぐう。すると彼は微笑み、まだ背後から飛んでくる泥玉の気配を察知して覆い被さるように垂を抱きすくめた。
周りで泥が弾ける音が遠ざかる。代わりに真新しい衣にくるまれた更のぬくもりと、燃え上がるように彼の魂が光るのを感じる。
目眩がしそうだった。その輝きが垂に向かって放たれているものだったゆえに。
「ええい、無礼者め! 何をしておるのじゃ、早う降りてきてあのわっぱどもを捕らえぬか!!」
ついに痺れを切らした倭文織が喚く。どうやら彼女もいくつか泥玉を喰らったらしい。すると大笑いをしながら櫓の上で見物していた男達はぴたりと黙り、倭文織の剣幕に狼狽えながらも弓と大刀を持って櫓から降りてきた。
しかし子供の方がうんと動きが速かった。彼らは本物の武器を持った大人達が追いかけてくる前に、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「許せませぬ。族長に泥を投げつけるなど……しかと罰を与えましょうぞ、垂媛さま。子供のしたことと見逃しては、族長の威信に関わりまする」
泥だらけになった玉の首飾りを磨く倭文織。その恨み言を聞きながら、垂は濡れた手ぬぐいで更の頬を拭いてやっていた。冷静になって欲しいものだと思いつつ、返事はしない。
泥まみれの一行はそれぞれに怒ったりすすり泣いたり呆れたりしながら、田津比古の館へたどり着いた。
ひとまず顔に泥玉を喰らった国久流の目が心配だったので、顔をぬぐわせ垂が具合を診た。本人が言う通り、こちらは大丈夫そうだ。
しかしそれが分かるや否や、今度は自分の番だといわんばかりに倭文織が怒りを爆発させた。邑長の首飾りも青笹の挿頭も泥だらけにされた彼女は、先ほどの子供の所在を国久流に問いただし、奴らをここへ引っ立ててくるまで出て行かないと息巻いている。
「だから謝っているではないか、倭文織殿。巻き込んで悪かったと」
「国久流殿を責めてはおりませぬ。泥を投げたあの者どもを責めております」
「子供のしたことだぞ」
「万が一垂媛さまのお身体に傷をつけていたならば、子供といえど命をもって償うことになるのですよ!」
床を叩いて怒る倭文織に対し、国久流は黙らざるを得なかった。それが水辺の掟であるがゆえに。
しかし、倭文織の怒りは垂の身体云々ではなく、自分が泥を被る羽目になったことが原因であるのは明らかだ。垂が何を言おうと、倭文織自身の心が鎮まらない限り彼女は恨み言をこぼすのもやめないし、喚くのもやめないだろう。
「そもそも、なぜ津守の若君が泥玉を持った子供に追い回されているのです」
ついに怒りの矛先を向けられ、国久流はまだ泥の残った顔でしゅんと悄れる。
「海比古が遊べ遊べというのを無視していたら、ああいうことに……」
「まあ。最初に泥を投げたあの子供は古汰茅比古殿の小倅ですか。粗野で頭の悪い海辺の長の筆頭ともいうべきお方と思うておりましたが、跡目を継ぐ若子まであれでは。海での漁も商いも、この先の汰茅邑には期待が持てぬというもの」
「子供の遊びくらいで、それは言いすぎでは――」
「お黙り!」
さすがにむっとした国久流は身を乗り出して抗議しようとしたが、倭文織が持っている首飾りを引き千切らんばかりの勢いで叫んだので、元のように押し戻される。
「子供といえども若子は若子。そして国久流殿、田津比古殿の跡取りであるそなたが、海辺の若子達の頭でありましょう。好き放題に遊ばせておかず、ひとところに集めて韓語でも教えてはどうなのです。十にもなればじきに大人。学ばせることは韓語以外にもたくさんあるのですよ。それを――」
いくら国久流が津守の一族の跡取りであっても、一つの邑を治めている倭文織の方が格上だ。そうして大人しく怒られるのがお前の仕事よ、と思いながら、垂は泥のついた更の髪もぬぐい始めた。
今朝きれいに結ってやった更の髪は台無しだった。新しい衣も、気づけば三つも泥玉を受け止めてくれたらしいので真っ黒だ。これも倭文織が激昂する要因の一つかも知れない。彼女が選んだという絹の色帯も泥だらけだったので。
柔らかく細い更の髪を、垂は傷つけないように丹念に拭き清める。いくらぬぐっても麻布が茶色く染まるから、なかなか更から離れることが出来ない。
彼は初め、いつものように垂のことを見つめていたが、まるで撫でられることに満足した子犬のようにうっとりとしながら目をつむった。
「ひどい目に遭わせてしまったわね。でも、おかげでわたくしは泥まみれにならずに済んだわ」
「ご無事で何よりです。お守り出来てよかった」
「だけどお前は客よ。危ないことをせずに怪我の養生に努めていればいいの。己のことを思い出したら、ちゃんと帰れるようにね」
大人しく触らせてくれる更の存在は、やはりすり寄ってくる地霊の気配に似ていた。先ほど強い光を発して更の魂が燃えたのも、垂がそれを感じたのも、二人がよく似た場所にいるからだろう。
地霊の毛並みを撫でるつもりで、垂は柔らかい茶色の髪を手で梳りながらぬぐい続ける。そうしているだけで垂も心地よくなってくるから不思議だ。
「いいえ。帰るべきところがあるかも知れないのならなおのこと、垂媛さまにはお返しをしておきたいのです」
しかし、何気なく続けていた会話のさなか、更の声が急に沈む。うっすらと瞼を持ち上げた彼は、己の髪を撫でる垂の手に視線を落とした。
「お返し?」
「命を助けていただいたお返しを」
「……大袈裟ね。わたくしはお前を見つけただけ。引き上げて世話をしてくれたのは、むしろ国久流殿よ」
「国久流殿にもご恩があります。けれど、」
それはとても密かな行為だった。
手を止めて更の言葉に耳を傾けていた垂は、ともすれば気づかなかった。ゆっくりと持ち上げられた更の手が、手拭いを持った垂の手首にかかろうとする。けれど彼女の肌に触れる寸前のところでその指が逃げていく。
そのさまだけを、垂は見た。
「……」
垂は何も言わなかったが、更は気まずそうに顔を逸らした。涼やかな目許が悲しそうに翳る。
はて、帰れと言っているように聞こえてしまったのだろうか。そんなつもりはなかったのだが。
「身体が治ったら出て行けとは言わないから、安心なさい。お前がここにいたいのならいればいいし、どこかへ行きたくなったら行けばいい。追い出すことも、無理に留めることもしないわ」
ただ自由にしてくれればいいのだ。更に触れる時の心地よさを手放すのは少々惜しい気もするが、この若者は垂のものではない。水辺に迷い込んだだけの哀れな更は、ただの渡り鳥。
「はい」
更は笑ったが、それが無理にこしらえた笑みであることはひと目で分かった。垂の言葉は彼が求めていたものではなかったようだ。けれどそれ以上、事情を問うことも新たな言葉をかけることもなく、垂は静かに手を引いた。
「……やっぱりぬぐっただけでは泥が落ちきらないわ。国久流殿と一緒に髪を洗ってきなさい。そうしたらまた結い直してあげる。国久流殿、倭文織も、もうよいでしょう。喧嘩をやめてきれいにしてきなさい」
「そんな、垂媛さま、あの子らにお咎めはないのですか? 垂媛さまがお怪我をなさらなかったからよいものの……」
「国久流殿の言う通り、子供のしたことよ。わたくしが少ない供回りで出歩いているのもいけないの。でも、そうね、泥まみれにされた倭文織の上衣は、よい玉飾りで贖って貰ってはどう? わたくしもちょうど琥珀の玉が欲しかったのよ。国久流殿、更の髪を洗わせてやって。その間に、一番新しく買い入れた丸玉を見せてちょうだい」
倭文織も国久流も不服そうな顔をしたが、垂が更を促して一緒に立ち上がるので、その場での口論はお開きとなった。