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第二章(一)

 布瀬の水辺の族長の住まいは、〝媛ヶ崎〟と呼ばれる岬からほど近いところに河口を開けている水門(みなと)川を舟で遡り、潟湖の岸を北に向かって少し進んだ場所にある。岸辺のぬかるみに赤松の杭を打って建てた母屋や正殿、湖の上へせり出して建てられた祭殿などの建物郡がそれだ。

 族長は水の祭祀を司るゆえ文字通り湖畔に暮らしていたが、この立地は少々厄介だった。

 というのも、大潮の際には湖の水位も上昇するので、祭殿の床すれすれのところまで水が迫る。そして雨や風の具合がよくない日が重なると、浸水してしまうことがあった。

 そんな憂事がつい三月ほど前にあったばかりなので、(たる)が帰った館の祭殿は真新しく、爽やかな木の香りに溢れていた。

 族長の代替わりに相応しい。彼女は心を躍らせながら毎日の祭祀に向かっている。

 桜はいよいよ満開の時期を迎え、館から見える湖畔の山肌には薄紅のまだら模様が出来ていた。散った花弁が風で運ばれ、やわらかな水の上に彩りを添える。穏やかな春。

 すべてが日常に戻ろうとしている。田勢比古(たせひこ)が身罷る前の日常に。

 桜色の風を見送りつつ、今朝の祈りを終えた垂は祭殿から居館へ続く桟橋を渡った。

「ずいぶん長いこと祭殿(まつりどの)にお籠もりでしたのね、垂媛さま」

 すると、正殿には垂の戻りを待つ客人があった。

 朱で浪の模様に染めた上衣に白い裳を着て、結い上げた髪には若い青笹を挿した女だった。金と翡翠の粒を連ねた首飾りは布瀬の水辺の族長から下賜されるもの――邑長(むらおさ)の証である。

 彼女は湖畔の(さと)のひとつを治める長、倭文織(しどり)だ。三十路も半ばの老成した雰囲気はあるが、垂に向ける笑みは母親のようにやわらかかった。

「倭文織、いつから待っていたの。報せてくれていればいつもの時間に戻ってきたのに」

「恐れ入ります。海辺へ出る前に立ち寄ることをふと思いついたもので。……何か、障りでも?」

 倭文織の笑みは一見穏やかなままだったが、その目に剣呑な光が過ぎったことに垂は気がついた。

「さほどのことではないのだけど、まだ地霊(ちみ)()()()を恐れて近寄ってきてくれないの。だから時間をかけて語りかけているのだけど……」

「まあ、それは気がかりですこと」

 ()()()。垂に染みついた死の匂い、田勢比古の亡骸のにおいだ。

 夫を看取り、(もがり)を行ったためについたにおいは御祓で落ちたはずだが、地霊は垂のもっと深いところについたにおいを感じ取っていた。

 倭文織は得心がいった様子で、けれど一瞬でその表情は消し去り、眉尻を下げて考え込む振りをする。

「地霊の好む桜の生木を炙ってみてはいかがでしょう。よい香りが、その()()()とやらも薄めてくれましょうぞ」

「よい考えね。明日はそうしてみるわ」

 二人の会話は何気なく終わった。彼女らの間に流れる連帯感を知る者はいない。垂が正殿の最奥、族長の席に布かれた敷物の上に腰を下ろし、倭文織がそれを見てほくそ笑んでも、二人が怪しげな笑みを浮かべ合う理由を知る者はいない。

「それで、わたくしになんの用があったの?」

「先日お召しがあったものをそろえて参りました」

「もう? 急がなくてもよかったのよ。お前も祭祀の準備で忙しいでしょうに」

「垂媛さまはともかく、ご当人や国久流(くにくる)殿がお困りのようでしたから」

「気にすることなどないのに。本当はもっと替えを貰ってきたかったところを手加減してやったんだから」

「あらまあ。お二人の仲は相変わらずですのね」

 倭文織はころころと笑いだしたが、垂はひとつも面白くなかった。どうせ相変わらずだ。

 むっとする垂をよそに笑い続けていた倭文織だったが、その声がふとおさまる。

 噂の若者が一人、垂と倭文織が向き合う正殿へやって来たのだ。彼はほかの侍婢(まかたち)とともに垂の朝餉が乗った高坏(たかつき)を捧げ持っていた。そして、二人の女の視線が自分に向いていることに気づき、高坏を持ったまま大きく瞬きをする。松脂のような明るい色の目が狼狽えている様はどこか可愛らしい。

 しかし、垂はそれを愛でるでもなく、重たい溜め息をついた。

(さら)、お前は下僕のような真似をしなくてもいいと言ったでしょう」

 記憶を失い、またあちこちに怪我をしている更を療養させるためここへ連れてきたというのに、彼はその翌朝から侍婢の真似をして垂の周りをうろつき始めた。

 身体はもう大丈夫だと言い張るし、顔色も確かによいし、ちょろちょろと動き回るくらいの体力は戻っているようだが、予想していなかった若者の行動に垂は呆れていた。

「いいえ。ほかにすることもありません。垂媛さまのお世話をさせてください」

 更もまた困ったように笑い、結局は慣れない手つきで垂の朝餉の形を整える。そして侍婢と同じように正殿の隅へさがっていった。

 突然やって来て自分たちの真似をし始めた見目のよい男の存在に、侍婢も戸惑っている。しかし、嬉しそうなのもまた目に見えて分かった。彼女たちの色目にも気づかず、更は熱心に垂のことを見ているわけだが。

「すっかり垂媛さまに懐いてしまって」

「まったくよ。まるで鴨の雛のようにあとをついてくるの」

「わたくしがここへ来たときも、更殿が母屋の廻り廊から祭殿をご覧になっているのが見えましたよ。よほど垂媛さまから離れていたくないのでしょうね」

「まあ……」

 呆れはするが、そうまで慕われると悪い気はしない。まるですり寄ってくれなくなった地霊の代わりに、更が傍にいるかのよう。

 やはり彼の魂に直接触れて慰めたのが効いているのだろう。更の中には、垂から与えられた安心感がそのまま残っているのだ。

 更の視線には気づかない素振りで、垂はあさりの潮汁の器を手に取った。

 さて、更を引き取ったはよいものの、この先どうしようということは特に考えていなかった垂だ。

 繊細な霊力を持ち、その見目も繊細で美しい以外、更のことは何も分からない。もしこのまま行き先がないのであれば垂に仕える巫覡(ふげき)として育ててもよいが、籠の鳥にしてしまうのも可哀想ではある。

 更を引き取ると言ったのは、単に彼に霊力があると分かったからではなかった。今は駄々をこねていても、いずれ垂は国久流を夫に迎えるであろうと甘い考えを抱いている海辺の連中――田津比古(たづひこ)や国久流本人に、それは違うと思い知らせたかったのだ。

 垂には自分の足で立つ意志がある。垂が田勢比古の跡を継いだ以上、津守(つもり)の一族は垂の配下であって、垂の婚姻を決定する権限は垂が持つ。

 血筋を外の国へと開き、迎え入れてもよいと考えているのも本気だ。だから国久流以外の男を選ぶこともあり得るのだと彼らが実感するには、更はよい飾りだと思った。

 更は垂の事情に巻き込まれてしまっただけ。

 だから更は、更が帰るべきところへ帰る。それが一番であろうと思う。

 己の出自を思い出せば故郷へ帰りたいとも思うだろう。だったらもうしばらくは自由にさせて――たとえ垂に並々ならぬ熱っぽい視線を向けてこようとも――更がしたいようにさせておこう。

 とはいえ落ち着かない心地で食事を続ける垂の傍に、いつの間にか酒の入った()()()を持って倭文織がにじり寄ってきていた。

御酒(ごしゅ)をお注ぎいたしましょう」

「飲まないわ」

「まあ、まあ」

 倭文織が引き下がらないので、垂は仕方なく杯を手に取った。

 酒が出るのは形ばかりだと倭文織は知っているだろうに、いったいなんなのだろう。

「侍婢どもがこうるさくさえずっておりますよ。垂媛さまは更殿を夫にしたいがため、国久流殿とのお話しをお断りになったのだと」

 まろやかに濁った酒が浅い杯を満たした途端、垂の手が震えた。目をすがめて見れば、ほときを手にした倭文織がにこにこと笑っている。それを囁きたくて近づいてきたらしい。

「更のことには関わりなく、国久流殿との話を受けるつもりなど初めからなかったわ。お前も知っているでしょう?」

「ほほほ。しかし間がよかったのか悪かったのか、そのように見えても致し方ないことでございましょうねぇ。更殿もあの容姿では……」

 艶めいた倭文織の視線がちらりと更に向けられる。

「垂媛さまがひと目で気に入り、傍に置きたいとお考えになったのだと思われても無理からぬことですわ。わたくしもあと十年若ければ」

 侍婢にそう見えるのなら、きっと田津比古や国久流の目にもそう映っているのだろう。ならば好都合と、垂はほのかな笑みを浮かべた。

「冗談はよしてちょうだい。更は客分として扱いたいわ。彼がお前のところへ行きたいと言うなら連れて行けばいいけれど」

「望みは薄うございましょう。わたくしが見ていることに気がついてもおりませぬ」

 倭文織が溜め息をつく通り、更の顔はこちらに向けられていたが、倭文織の意味深な視線をまったく知らないようだった。明るい色の目が映しているのは、杯を持って苦笑する垂だけだ。

「更、こちらへ来なさい。倭文織がお前の着物を用意してきてくれたわよ」

 垂が呼ぶと、夢を見ているようだった更の瞳にほうっと意思が目覚めた。怪訝そうにしながらも彼は従順に頷く。そして倭文織の侍婢が大きな包みを解いている傍までやって来る。

「待たせて悪かったわ。田勢比古さまのものが残っていれば、なんでもお前に着せてやったのだけど、生憎とすべて燃やしてしまっていたから……」

 〝病〟で死んだ田勢比古のものは、もうこの館に一切残っていない。衣も、寝具も、疫神が触れたものはすべて焼き払うのが普通なのだ。例えそれが曰くつきの〝病〟だったとしても。

 それゆえ垂は、更を己の館に連れ帰ると宣言したあと、取り急ぎ更の暮らしに必要な衣類を国久流のところから持ってきた。本人の諒承は得ている……というか諒承させたので垂は問題ないと思っていたが、更はえらく気にしていた。

「我が御倉には布瀬の水辺でこしらえた布から(から)渡りの布まで、たんと収められておりますゆえ、更殿の(きぬ)を用意せよと垂媛さまからおおせつかりました。更殿に似合う色帯を選んで参りましたが、お気に召していただけましょうか?」

「それは、恐れ入ります」

 倭文織も更に衣を差し出す侍婢も、彼の笑みを期待して目を輝かせている。しかし当人はただ戸惑った様子で、やわらかい打ち()の衣と色帯を受け取ろうとしない。どうやら警戒心を解いて話を出来るのは垂だけらしい。

「わたくしが朝餉を食べ終える前に着替えてきなさい。海辺の館へ行くわ。ついでに津守の館へ寄って、国久流殿の衣を返しに行きましょう」

 誰かにとってのただ一人であるというのは、心地よいものだった。垂は土器(かわらけ)に溜まった白い酒を啜り、とろりとした甘さに濡れた唇を歪めて笑った。



 それから、一行は丸木舟に乗って湖畔の館を出た。垂と同じ舟には更と侍婢の(あかね)が乗り、後ろからは倭文織の舟がついてくる。

 広々とした水面の下には濃い土の匂いを含んだ水流が緩やかに巡っていて、対岸の近くには漁をする小舟もいくつか浮かんでいた。

 水の中の、春に目覚めたいのちと魂のいとなみが心地よいざわめきとなって、垂の耳に届く。

 彼女は青白く広がる薄雲を見上げてその声を聞いていたが、視線をふと舟の上に戻した。

 舟に乗って以来、更はずっと水門川の方向を見つめている。その先にある海を。

 垂に背を向けて舟底に座る後ろ姿は、桜を散らす風にそのまま溶けていってしまいそうだった。

「何か思い出すことでもあったかしら」

 垂はついその背に声をかけていた。

 更は、まるで海で拾ったあの日のように虚ろな目をして振り返る。

「更?」

 もう一度呼びかけて、彼はようやく苦い笑みを浮かべて首を振った。

「海に向かって、水の色が変わっているなと思いまして……」

「春の色よ。山からたくさんの雪どけ水が湖に染み出して、川を遡ってくる潮水を緑色に染めているの」

「そうでしたか」

 更の曖昧な笑みに、垂の表情もぎこちなく引き攣れる。

 何が気に入らないのか自分でも分からないが、更が遠くを見つめる様子にはなぜだか胸がざわついた。しかし、機嫌の悪い顔を見せて彼を不安にさせるのもよくなかろう……。

 垂が顔を隠すために水面へ視線を落とすと、前に座っていた更が舟べりから腕を伸ばすのが見えた。

 底の浅い舟だ。彼の長い指先は音もなく湖に潜り、舟とともに(みお)をひいてゆく。

 何をしているのかと垂が驚いている内に、更は水の滴る手を持ち上げ、身体をよじって垂に見せてきた。

「では、これも」

 春の色の水とともに、更の指の間から薄紅色の花弁がこぼれ落ちる。――水面に散っていた、桜のはなびらだ。

 垂はただきょとんとして、たくさんの花弁が貼りついた更の手を見つめていた。が、彼が言わんとしていることに気がつくと、思わずこみ上げてきた笑いを長い袖の奥に隠した。

「ええ、そうね。それも春の色ね」

 目を細めて微笑む更の瞳には、今日も桜の挿頭(かざし)を挿した垂の姿が映っている。

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