第一章(五)
垂が斎屋に籠ってから三日。
彼女は一人で様々なことを思案した。
田津比古との力関係をこれからどう有利にしていくか、外から婿を迎えるようなことをにおわせたが、果たしてどこからその候補を探し出そうかとか、春の祭祀のこと、商いのこと。
その間、垂はあの若者のことをまったく忘れていたといっていい。彼女が案じねばならないことは山ほどあったので、文字通りこの布瀬の水辺に流れ着いただけの一人の人間に構っている余裕はなかったのだ。
しかし垂が潔斎を終えて斎屋から出てきたその日、あの若者が国久流に連れられて垂のもとを訪れた。
「お前に会わせろと言ってきかなかったんだ」
目を丸くする垂の前に海辺の民からの貢ぎものをずらりと並べさせつつ、国久流は面白くなさそうに言った。
「わたしに会わせろと? なぜ?」
「知らん。本人にもよく分かっていないというか……おかしなことを言っている」
「おかしなことって?」
「お前が励ましに来てくれたとかなんとか。そんなわけがないだろう。お前はあれからずっと御祓のために斎屋に籠っていたんだから」
垂は貢ぎものの中に好物のいしる干しを見つけ、しばしそちらに気を取られていた。しかし国久流が口にした思いもかけない言葉に目を瞠る。
「あの若者が、そう?」
「ああ」
魂をはたかれても蹴られても気づかない国久流は、垂が時折魂駆けて水辺の様子を探っていることなど知りもしない。いや、多くの人間がそうだ。魂に直接触れられても、妙な違和感を覚えるだけで済んでしまう。
ただし、その者に神や霊を感じる力が――巫覡の才があれば話は別だった。魂に触れられた時の感覚はより鮮明であろうし、時には垂のように意思を持って対話することが出来る者もいる。
そういえば、若者は垂に触れられていることを察知しているようだった。彼には巫覡の才があるのかも知れない。
「会うわ。どうせ湖畔の館へ帰る前に様子を見に行くつもりだったのよ。あいにくと暇がないまま、もう顔は見られないかと思っていたけど。ここへ呼んで」
「族長が軽々しく素性の知れない奴と会ったりして――」
「連れてきておいて何を言っているのよ。心配なら、お前もそのあたりにいればいいでしょう」
ううんと唸って考えたものの、同席を許されたならそれ以上反論する言葉が思い浮かばなかったようで、国久流は控えていた茜に若者を連れてくるよう言いつけた。
ほどなくして現れた若者は、国久流に促されて彼の斜め後ろに腰を下ろした。
先日見た時とは比べものにならないほど顔色がよい。そして、国久流の服を借り、きちんと髪も結って身なりを整えた彼の姿は、やはり垂の周りにはいない類いの美しい男だった。
垂は几に悠然ともたれかかりながら若者を迎えた。
「起き上がれるようになったのね、結構なことだわ」
ところが、垂があでやかな笑みを浮かべてそう言っても、若者はすぐに反応を寄越さなかった。彼は色の薄い目でじっと垂を見つめ、何度か瞬きはしてもいっこうに口を開かない。
「おい」
国久流に叱られてようやく、若者の視線はこの世に焦点を結んだように見えた。
「海に漂っていたところを、垂媛さまに見つけていただいたと聞きました。お助けくださり、ありがとうございます」
そうして手をつき、教えられた通りの文言を呟くだけのような平坦な声で若者は言った。
頭はたれず、やはり垂を見つめたままだ。
男にしては柔らかく、かといって女のように高くはない声色。その言葉遣いに訛りがないか、垂は注意深く聞いた。
ちらりと国久流を窺う。すると彼はかすかに頷き返してくる。垂の感じた違和感を国久流も感じているようだった。
「自分がどこの者か、思い出せたかしら」
「……いいえ」
「そう。弱ったわね。けれどお前が話している言葉は、わたくしや国久流が話している言葉とそう変わらないわ。遠い国からやって来たというわけではないのでしょう。お前が着ていたものも上等な絹で出来ていたし、近隣の国に行方知れずになった若子がいないか訊ねてあげる。きっと、すぐに帰る先も見つかるでしょうよ」
希望があるのは事実。しかし淡々としていた若者の表情は不意に翳った。「すぐに」という垂の言葉に確証がないことを、彼自身が分かっているのだ。
(そうね。信じられる言葉ではないわ)
その言葉は耐えて待つための力にはならない。だったら、もっと確かな約束を。
そう考えた時、垂は自然とその言葉を口にしていた。
「お前が国元へ帰るまでの間、わたくしが責任を持って面倒をみてやりましょう。一緒に湖畔の館へ来るといいわ」
若者が目を丸くする。淡い茶色の瞳にはいっそう光が射し込んで、蜜のようにとろりとした輝きを見せた。その輝きが示す期待に、垂の胸は心地よくなる。
「垂媛、それは津守の一族の役目だ」
垂が微笑むのを見て若者と一緒に驚いていた国久流だったが、我に返った彼はすかさず身を乗り出して噛みついてきた。そして言葉の裏に隠された声が、その表情からありありと読み取ることが出来た。
得体の知れない者を、それも男を、夫を亡くしたばかりの垂が連れ帰る? 冗談ではない。
しかし垂は言外に秘められた国久流の心など知らないことにして、首を傾げ髪に挿していた桜の小枝を指先で撫でる。
「確かに、海で事故に遭った者はお前の家で世話をして貰う取り決めだわ。けれどこの者を見つけたのはわたしだし、どうも特別な迷い人のようだもの。わたしが面倒を見るのが一番よいと思うのよ」
「身分のある者かも知れないからか? だから族長のお前が引き受けるとでも?」
「違うわ」
垂はぴしゃりと国久流の問いをはねのけ、声を荒げた彼と垂の顔を交互に窺っていた若者にもう一度微笑みかけた。
「お前、わたくしに会いたいと言って国久流についてきたのでしょう? なぜわたくしに会いたいと思ったの」
そう問いかけながら、垂は少しだけ身体を抜け出した。貢ぎものの魚の干物や米を醸した酒のにおいが消える。あたりには白い靄が現れて、目の前にいる国久流の身体の輪郭が銀色に光る。
そして国久流と同じように柑子色に身体を輝かせていた若者の表情に、確信がよぎった。
彼は居住まいを正し、身体から離れて彼の傍へやって来た垂の目を見上げている。
「やはり、夢に現れたのは垂媛さまでいらしたのですね」
身体に戻った反動の軽い目眩をやり過ごしつつ、垂は若者の言葉に頷き返した。
「なんだ? どういう意味だ」
何も見えていないのは国久流だけだった。垂と若者が交わす意味深な視線にあからさまな不快感を示し、その矛先を垂に向けてきた。
「その者には霊力がある。わたしと同じよ」
事情を呑み込めない国久流のために明言すれば、彼はもちろん、当の若者も驚いている。
「記憶が欠けているのは、何かこの者自身の力が障りになっているからかも知れないわ。徒人の田津比古殿のところにいるより、わたくしのもとで身を清め地霊達の息吹に触れている方が調子も整うでしょう。そういうわけでわたくしが引き取ります。田津比古殿にはそう伝えなさい、国久流殿」
突然垂が族長の態度をとったがために、国久流は反撃を躊躇した。そんな彼が再び口を開くより早く、垂はすぐに話題を転がしていく。
「お前、お前と呼ぶのも都合が悪いわね。何か呼び名を考えましょうか。望みの名があればそう呼んでやるけれど」
「望みも、何も……お好きなようにお呼びいただければ……」
「そう」
垂は目を細めて若者を見つめた。
彼の魂の柑子色の光。彼を見つけた朝の海の色。赤松の林。大陸のにおいがする春風。ほころび始めた桜の蕾。四つ足の地霊達。湖の靄。
色々と思い浮かべてみるが、どれも目の前にいる若者には結びつかなかった。松脂のように透明で色の淡い瞳には、少しの安堵と拭いきれぬ不安があるだけで、彼という存在を物語る何かが見当たらない。まるで真新しい布のように、どこまで探っても色も折り目もないのだ。
思案していた垂はふと思いついた。何もない。ならば――
「更というのはどうかしら」
「さら?」
「お前は織り上がったばかりのまっさらな布のようだもの。いかにも仮の名という感じではあるけれど、ぴったりだと思うわ」
よいひらめきだと思ったのに、若者はぱちりぱちりと瞬くだけで返事をしてくれない。
気にくわなかったかと垂が心配になった矢先、しかし彼はふと口許をほころばせた。
初めて見る彼の笑みは思わず見とれてしまうほど綺麗で、垂も、若者を振り返って不愉快そうにその表情を窺っていた国久流も、虚を突かれる。
「よい響きです。ぜひ、〝更〟とお呼びください」
そうして垂が、海で拾った若者を連れ帰ることが決まった。