第一章(四)
恐慌する若者をなだめ、薬湯を飲ませてから、垂は傍屋を出た。
その表情は晴れない。彼女を見送るためついてきた国久流も複雑な顔をしていた。
「大きな怪我をしている様子はないようだけど……」
「ああ、打ち身はいくつもあったが大したことはない。どこか骨が折れているわけでもないしな。混乱しているだけだろう」
「それならいいのよ」
垂は傍屋を振り返り、己の名すら思い出せない若者が震えているさまを思い浮かべた。
己のことが分からないとは言うが、彼の魂の一部が欠け落ちた気配は感じなかった。となれば垂には若者の記憶が失われている理由が分からない。
国久流の言うとおり混乱しているだけならよいのだが、まだ冷たい身体を丸めるようにして怯える姿が気の毒でならなかった。
「また怯え始めたら、先ほど飲ませたのと同じ薬湯を作って与えるのよ。よく様子を見て励ますように侍婢に言っておいて」
「そうする」
どこか自信のない国久流の返事から察するに、恐らく彼も垂と同じ懸念を抱いているのだろう。
海での遭難者や怪我人は、家に帰れるようになるまで田津比古が面倒を見てくれるという取り決めになっている。しかしあの状態が続くようなら若者は行き先に困るだろう。つまり彼を預かる田津比古も難儀することになる。
岩場で見つけた彼が着ていたものを思い起こすと、どう考えても漁師の身なりではなかった。
絹の上下に倭文の帯。ほかに身につけているものはなかったが、あれは身分ある者の装いだ。
いずれ誰かが彼を捜しだして迎えに来るだろうか。しかしそれも期待出来るのか出来ないのか分からない。それに、もしどこかの名のある豪族の若子であったら、快復したからといって下僕のような真似もさせていられない。かといって身分の定かでない者を客人扱いというのも変なのである。
「……本人の身体がよくなってから、田津比古殿も交えていろいろと相談しましょう。まずは養生させてあげてちょうだい」
頷く国久流を見て、垂は多少安堵した。海辺の男達は義理堅い。田津比古はいくら扱いに難儀するからといって、一度引き受けた身寄りのない者を放り出したりはしないだろうし、国久流も、頷いたからにはあの若者の今後について色々な身の振り方を考えてくれるだろう。
「ああ、そうだわ。あの者はとても握り飯を食べられるふうではなかったから、お前が食べていいわよ」
ちょっとした褒美のつもりで垂がそう言うと、国久流はまんざらでもない顔でふんと鼻を鳴らした。拒否しないので、戻ったらさっそく全部を腹に収めるに違いない。
いつまで食べ盛りなのやら、と呆れつつ、垂は田津比古の館の門をくぐる。
「館まで送ろうか」
「いいわ」
「……」
それまで一定の距離をあけて、ぴったりとくっついてきた国久流の足音がやんだ。垂も立ち止まり、館の門を振り返る。
門を境目に、まるでそこから出られないとでもいうように国久流は立ち尽くしていた。
口を開きかけ、閉じる。その煮え切らない態度を見ていると、垂の胸の底に黒いものが湧き出てくる。
「では、頼んだわよ」
どろりとして光るそれを抑え込むこともせず、垂は平坦な声でそう言い、踵を返した。
国久流は追いかけてこないし、きっと、垂の背を見送りながら口をぱくぱくさせているのだろう。
(甲斐性なし)
田勢比古が死んでからもうふた月。その間国久流は何を考えていたのだろう。ふた月もの猶予があってさえなんの決心も出来ないのか。
彼は垂一人を心に決めていると皆はいうけれど。
垂はただの一度とて、その想いを当人から打ち明けられたことはない。
心の中で国久流を罵り、一生懸命ついてくる茜を振り切る勢いで足を早め、垂は家路をたどった。
「お帰りなさいませ、垂媛さま」
亡き夫からそのまま受け継ぐことになる館へ帰ると、垂は今朝と同じように侍婢に囲まれて身なりを整えた。
春の気まぐれな潮風がもつれさせた髪を梳り、挿頭の桜をとって寝間の枕元に活けさせる。細かい砂でざらついた肌も冷たい水で清めると、真っ白な衣に赤い帯だけを締めて再び外へ出た。
館の中にある斎屋へ上れば、切られたばかりの榊の青い香りがした。殯を明けたので、今晩からここで過ごし、身体に染みついた死者のにおいを取り去る。また数日は空を見られまい。
榊に提げられた鏡と玉の飾りに対峙し、垂は眠るように目を瞑った。
春の水は青と緑が溶け合った色をしている。
山から染み出す冷たい雪解け水が湖に流れ込み、その清らかで豊かな恵みの流れが生きものを呼び覚ます。
命を運ぶ淡い水は灰色の海へと流れて青くなり、大陸の土の香りが潮風に混ざって、靄の立ちこめる朝の湖にまで届く――
今朝目の当たりにした、春に目覚める布瀬の水辺。その光景を、垂はいつの間にか鳥のように空から見下ろしていた。
ああ、必死に念じることもなく魂駆けることに成功したようだ。よっぽど浮かれているのだわ、わたしは。
垂はひとりほくそ笑みながら、すうっと滑るように空から降りて湖の真ん中に降り立った。
太陽は出ていないが、あたりはぼんやりと白い光に包まれている。湖の上を満たす靄そのものが光っているのだ。
垂が降り立ったことで波紋を描いた水面はじきに落ち着きを取り戻し、やがて靄の中から現れた大きな四つ足の獣がその上を歩いてきた。犬のような獣、鹿のような獣。いつもなら身体を脱ぎ捨てた垂にすり寄ってくる彼らは、今日はなぜか彼女を遠巻きに見つめるだけだった。
田勢比古の亡骸のにおいがするせいだろう。水神と同じようにこの地に恵みをもたらす名もなき地霊たちは、死のにおいを厭うのだ。
垂は彼らを怯えさせないように肩巾を揺すってこちらへ来るようにと招いてみるが、やがて獣たちの姿はすうっと靄の中に消えていってしまった。
あたりにはなんの気配もなく、湖の上に立っているのは垂一人になった。
田勢比古の妻となり、彼とともに湖畔の祭祀を行うようになったばかりの頃を思い出した。異境からやって来た垂の魂のにおいに怯え、やはり彼らは垂を遠巻きに見つめていたものだ。
肉親のいない垂にとって、彼らが無条件に身体を――魂をすり寄せてくれるようになったのは心地よいことであったのに。
認めた者を純粋に受け入れてくれる彼らを再び遠ざけてしまうほど、自分が働いた悪徳は大きな罪なのだろう。ならばなおのこと、この先しくじるわけにはいかなかった。切り棄てたものの代わりに得るべきものを得るのだ。
垂は湖の靄を揺らしてもう一度上空へと舞い上がった。
押し寄せる潮の香りの中を海辺へ向かって飛ぶ。緩やかに流れる水門川を伝い、浜辺の赤松の林の傍へ降り立つ。
やって来たのは田津比古の館だった。
ぼんやりと明るい薄靄の中、門をくぐるといくつもの光の玉があたりを漂っている。この館に暮らす人々の魂だった。
垂が館の中に入りこみうろうろしていると、前方から抜き身の刃のように鋭い銀色に光る魂がやって来た。それはふよふよと揺れながら垂の傍を通り過ぎる。
目に痛いほど光っているあれは国久流の魂だ。彼には神の気配も霊の気配も感じる力はないが、こうして見て分かる通り強い命を持っていた。父の田津比古の魂も同じようにぎらぎら光っている。
眩しい光の玉を見送り、垂は先ほど様子を窺った若者の魂を捜した。
くだんの傍屋にあがりこむと、そこには柑子のように黄色く光る魂が漂っていた。ふらふらして落ち着かないのは若者の不安の表れだろう。垂はその魂をそっと捕まえ、赤子をあやすように腕の中に抱え込んだ。
光の玉は心の臓が拍動するように淡く明滅を繰り返す。垂はその玉に欠けたところがないかを丹念に調べた。しかし若者の顔を見て探ったときと同じ、魂に欠けは見つからない。
代わりに気がついた。若者の魂が垂に触れられていることを察知している。
誰かに捕らえられている、見つめられている。この光の玉は確かにそう思っている。今、若者が目を覚ましているとしたらさぞ嫌な居心地悪さを感じているだろうし、眠っているとしたら気味悪い夢を見ているだろう。
「大丈夫よ。お前を傷つけようとする者はこの水辺にはいないわ。安心して休みなさい」
垂は微笑みながら若者の魂に向かって囁きかけ、震える柑子のような玉を撫でてやった。若者に垂から語りかけられている自覚はなくても、じかに魂へと与えられた言霊は彼の不安を鎮める。
現に若者の魂の明滅は収まり、垂の腕の中でふんわりと膨らんで大人しくなった。
国久流なんて、魂をはたいても蹴っても何も感じていないようなのに。この若者は随分繊細だ。
垂は若者の魂を放してやり、そろりと傍屋を抜け出した。まるで垂を見送るように若者の魂も傍屋を出てくるが、このままついてこられては彼から魂が抜けてしまうので、垂は光の玉に息を吹きかけて傍屋の中に押し戻した。
寄る辺なくさまよう若者の目。思い出すだけでいたたまれなくなる。
しかし垂にしてやれることはもうなさそうだし、あとは田津比古と国久流に任せておいて、自分は布瀬の水辺の族長として地位を盤石にすることだけを考えていればいい。
ただ、もう一度だけ彼の様子を見に行こう。数日も過ぎれば何か思い出しているかも知れない。もし故郷のことを思い出していたら、族長として帰る手段を融通してやることも出来る。
垂は大きく頭を振って気を取り直し、生命の気配に溢れる布瀬の水辺の空を見上げた。
まだ冷たいその大気を大きく吸い込めば、自分が成し遂げたいことを思い出せる。
生贄になり損ねた寄る辺ない小娘の心は、胸の底に押しやることが出来る。