めぐしくやきみ(二)
輝と玄の小さなぬくもりに挟まれて眠っていった国久流は、夜半、隣で身じろぎするものの気配に目を覚ました。
暗闇に目が慣れてくると、輝がむくりと上半身を起こす影が見える。用足しに行きたくなったのかと思って声を掛けようとしたが、娘の様子は妙だった。身体を起こしたままじっとして動かない。
娘の袖を引こうとしたその手を、別の手がさっと押さえた。玄を挟んで向こう側に寝ていた垂だ。「静かに」と吐息だけで命じられ、国久流はわけもわからず頷いた。
しばらくそうして息を殺し輝の様子を見守っていると、娘はやがてふらふらと立ち上がった。影がうごめいているようにしか見えないはずだったのにそうとはっきり知れたのは、輝の身体がほんのりと金色の光をまとい始めたからだ。
「かっ……」
驚いて名を呼びかけたものの、垂の手がかなり乱暴に口を鬱いできた。
「名を呼んでだめ。驚かせたらそのまま抜け出してしまうわ」
抜け出す? 何が? どこから?
まったく意味がわからなかったが、張り詰めた緊張感を漂わせる垂の言葉に国久流は黙って首を振った。それでようやく口を――一緒に塞がれていた鼻も解放されたので、安堵の溜め息をつく。
そのうち、蛍のようにか弱い光をまとったまま、輝はふらりふらりと歩き出した。自分で寝屋の木戸を開け、満月の光が皓々と降り注ぐ廻り廊へ出て行ってしまう。
「おい垂、追わないのか。いったいどこに、それより光って見えたのは気のせいか? 月明かりがどこかから入ってきているとか、そういう、」
「落ち着きなさい。もちろん追うわよ。でも絶対に、わたしがよいと言うまでお前は声を発しないで。できるのならついてきていいわ。さもなくばあの子はこのまま神世に帰ってしまうわよ」
「……」
聞きたいことが山ほど湧いてくるが、垂の最後の一言は瞬時に国久流を黙らせた。褥を抜け出した彼女と輝を追い、玄を起こさぬよう足音を殺して廻り廊に出る。
月光は輝がまとっていたほのかな光を塗りつぶすほど強いはずだったが、それでもなお、ふよふよと浮くように歩いている輝の姿が目に飛び込んできた。
「この子はまだ何も教えていないのに魂駆けをしようとしているの。上手く抜け出せずに身体ごと出歩いているのよ。でも、戻り方もわからないまま外へ出たら自力では二度と戻れなくなるわ。ただでさえ、まだ人より地霊に近い幼さなのだから」
魂駆け、というものがどのような業なのか国久流にはわからない。だが、垂は時々潔斎を行った後に身体を国久流に預け、死んだように眠ることがある。
国久流に帰り道となる糸のようなものを結びつけてあるらしいが、国久流がそれを見たことはない。ただ垂が目を覚ますように念じていてくれればよいと言われて――そうした巫女の業を、輝が誰に教わるでもなく使っている。
それじゃあ輝は、あるいは玄も、垂と同じか、それ以上のことができる巫女なのか。
思わず声を出しそうになったのをぐっと堪える。娘を追いながら振り返った垂は艶然と微笑んだ。
「偉いわね。輝は特にてて様が大好きだから、いくら半分さまよい出ているといってもお前の声は聞こえてしまうものね」
我慢して黙っていることはできるが、いつまでこの状態が続くのかは心配だった。何しろ寒い。しかも、輝は階から廻り廊を降りて地べたをぺたぺたと歩いて行く。さまよい歩くうちに潟湖へ出てしまう可能性だってある。玄も一人残してきたままだ。
声を出せない代わりにめいっぱい力を込めて垂を見つめたら、彼女は国久流の懸念をよそに肩を震わせて笑った。
「お前、我が子が光っていれば驚きこそするけれど、不気味だと思うことはないのね。心配しなくても頃合いを見て連れ戻すわ」
垂はそう言った通り、やがて湖へ抜け出る道を探し始めたように見える輝にそっと近づいた。そんな垂の姿もぼうっと光って見える。いや、今度こそ月明かりがそう見せただけだろう。
「輝」
それまで夢を見ながら歩いているようだった幼子の視線が、明らかに焦点を結んだのがわかった。
「その遊びはお前にはまだ早いのよ。いずれ教えてあげるから、今日は戻りなさい」
「ははさま」
まるで宙づりにされていたことに気づいたように、輝の目に恐怖が走った。だがそれも数度の瞬きと一緒に消えていく。よろよろと垂の腕にすがりつくや否や輝は目を閉じてしまったが、娘を抱きかかえた垂は深く息をつく。どうやら輝が戻ってこられなくなるという事態は避けられたらしい。
そうとわかって、国久流もその場に座り込みたくなるほどの開放感を味わった。
幸いにも、玄は目覚めることなく眠っていてくれた。輝をその隣に横たえ、衾で二人をくるんでから国久流はしばらく頭を抱え、やっとのことで垂に聞きたいことをまとめた。
「輝はいつもこんなふうに夜中にさまよい歩くのか? 玄も?」
「まさか。抜け出そうとしていると気がついてからは、二人ともに霊鎮めを持たせているから。毎晩遊びに行かれたら、わたしの身体もこの子達の身体ももたないわ」
垂は衾の縁から玄の襟元に手を入れ、首に掛けてあったと思しき小さな勾玉を取り出してみせる。
ほっとしたのも束の間、国久流は気がついた。
「だったら今晩、輝がふらふらし出したのは――」
「お前には見せたほうが早いと思って」
垂は己の首から外した玄のと同じ勾玉を、すうすうと寝息を立てている輝の首に掛けた。わざと輝から勾玉を外していたことを隠すつもりはないらしい。
「何もこんな危険を冒すことはないだろう! 輝が、その、戻ってこられなくなったらどうするつもりだったんだ!」
果たしてそれがどういう状態なのかわからないが、魂駆けをしている垂はこのまま目覚めないのではないかと思うほど静かに深く眠る。戻れないとは、あのまま残った身体だけが緩やかに死んでいくことなのではないか。
想像するばかりだが、自力で戻る術を持っている垂が眠る時さえぞっとするというのに、何もわからない輝がそんな事態に陥ったら。神事にまったく疎い自分にはなすすべがない。
「わたしは自力では戻れないと言ったじゃない。その時はわたしが追いかけて連れ戻す用意をしていたわよ」
「だけどそれは……俺が気を失ったお前と輝を抱えて途方に暮れることになりはしないか」
「そうね。でもちょっとの間よ」
垂はこともなげに頷くので、国久流は再び頭を抱えた。
やっぱり輝は、垂の子だ。垂だって十分に恐れ知らずだ。自分の方がよっぽど臆病だと感じるくらいに。しかし、大切な妻と娘に何かあってはならないと想うことも、別に変ではないはずだった。
ただ――やはり神と繋がり生きている垂のことを、徒人の自分では知り尽くせない。
あいつならできたであろうか。
葬らざるを得なかった若者のことを思い出しかけた時、不意に垂の腕に頭を包みこまれた。四肢と柔らかな胸元から漂う香りは、国久流が垂に贈った香木の香りだ。
「こういうわけだから、輝も玄もお前にはやれないの。でも、次に生まれる男子はお前にあげるわ」
「また子ができたのか?」
「これからできるのよ。――それでね、跡継ぎが欲しいならお前にも頑張って貰いたいのよ、国久流」
国久流の首を抱き寄せていた垂は、屈んで国久流に口づけ、喉元につっと舌を這わせ、甘えるように夫の胸の中に身を収めた。
灯明がつくった陰に隠れて、垂がうっとりと目を細めているのがわかる。
垂の中には、俺にはわからない理がある。
それでも、ずっと焦がれるだけの相手であった彼女がこうして求めてくれることは幸せだし、そこにいくらかの影がつきまとっていたとしても、その影にすべて呑まれてやることはないのだ。
この水辺を治める垂を守るのが、自分の役目なのだから。
「……もう少し普通に誘ってくれ」
「あら、こういうのはいや?」
渋い顔をして言えば、垂がいたずらっぽく笑い返す。その目にうつっているのが己だけであることを確かめながら、国久流は否と答える代わりに垂に口づけた。




