第一章(三)
「あれはどういう意味だ、垂!」
久しぶりに呼び捨てられた名は、まるで自分のものではないかのように思えた。
垂が田勢比古に嫁いだのは十二の時。以来、彼女は『垂媛』と呼ばれている。幼馴染みの国久流でさえ垂が得た族長の妻という立場をわきまえて、親しく名を呼ぶことはなくなった。もう、それから七年以上が過ぎていた。
垂――『足る』という名は、ものが豊かであることを示す言祝ぎだ。つけてくれたのは垂を育てた巫女。一番多く呼んでくれたのは、多分、後ろから大股で追いかけてくるあの若者だろう。
垂は足を止めて国久流を振り返り、にこりと笑って首を傾げる。
「どれのことかしら?」
「ふざけるな! 『初穂を刈るまでには決める』と言ったあれだ! いったい何を決めるというんだ!!」
「お前は昔から一から十まで説明しないと分かってくれない男だったわね。面倒だわ」
「垂……!」
「ちょうどいいわ。国久流、お前のうちに行こうと思っていたところよ。荷物を持ちなさい」
垂は侍婢の茜が持っていた籠を奪い取り、息巻く国久流にひょいと預けた。薬草と、春の山菜を一緒に蒸した強飯のむすびがごろごろ入った籠は、存外重たい。ちょっとした不意打ちに黙る国久流をしたり顔で見上げ、垂は踵を返した。
「おい、うやむやにするな! あれはどういう意味だと訊いているんだぞ!」
垂は海辺の邑長達を混乱に陥れたあと、充分な説明もせずに春の祭祀へと話題を移した。食い下がろうとした田津比古にはただ一言、「すべては初穂を刈るまでに決める」と言って。
田津比古を始め、邑長達が動揺するのも無理はなかった。垂の発言によって、下手をすれば湖畔と海辺が袂を別つことにも繋がりかねない。
穏やかな潟湖、豊かな海。この二つがそろってこその『布瀬の水辺』の繁栄だ。
小規模な稲作と漁、商いの三つを守るには、この広大な水辺の恩恵が団結していなくてはならない――というのが男達の考えだった。
垂も、少し前まではその考えに疑問を抱くことなく受け入れてきた。しかし、内輪の血縁に依拠したその団結が、商いのために開けているべき人々の意識を閉ざしているのだと知った。
これではいけない。商いを武器として栄えてきた布瀬の水辺がより繁栄するためには、血縁の鎖を破る必要がある。様々な土地からやって来る品や人、風習を受け入れねば、ここは単なるものの通過点に過ぎない土地で終わってしまう。
男達はそうは思わないらしい。むしろこの土地がもたらす利益を外界の人間に奪われないよう、他者を締め出した内輪の結束をこそ重視している。新しい水が入ってこなければ豊かな湖も濁り、干上がっていくというのに。
けれど男達を束ねていた田勢比古は死んだ。新しい長は、垂だ。きっと新しい水を引き入れ、この布瀬の水辺をさらに豊かにしてみせよう。
そんな決意を知りもせず、国久流はどこか悄然としながらさらに尋ねてきた。
「どういう意味なんだ、水辺の外にもお前の夫になれる奴がいるというのは……」
「そのままの意味ではないの。布瀬の水辺の外からわたしの婿を迎えるのよ」
「なんで」
「その縁が商いを有利にするかも知れないわ」
「そう上手くいくか」
大人しく垂についてくるものの、国久流の声音は不満一色だ。さてどんな顔をしているのか拝んでやろうと肩越しに様子を窺ってみれば、彼は籠に乗った握り飯に手を出そうとしていた。垂はひらりと裳を翻して国久流に向き直り、盗みを働こうとしていた手をはたいた。
「布瀬の水辺は外つ国との商いを礎に栄えてきたのよ? 沼地が多くて充分な田畑を持てないわたし達が生きていくには、海へ出て漁をするだけではなく外から来る舟を迎えてものを売り買いするしかないの。だというのに、商いの重要なことを決められるのはお前の父上や少数の邑長だけで、ここに舟を舫う物売り達はその決めごとに従うほかないというやり方では、彼らはいずれもっとよい津を見つけてここへ立ち寄らなくなってしまうわよ」
「それとお前の婿の話になんの繋がりがあるっていうんだ」
「……。お前は、そんなにわたしに夫として選んで貰いたいの?」
つまみ食いすら阻止され、じっとりとした恨みに染まっていた国久流の視線が揺れた。
しかし、それだけだった。彼は垂が無理に話をねじ曲げたことに気がつくことなく、口をむっと引き結んで顔を逸らした。
「湖畔の長の血によそ者の血を交えてどうする。水神が怒るかも知れない。水神が怒るとつがいの海神も荒れる。漁が出来なくなるし商い舟も行き来出来なくなるぞ」
「それをいうなら、わたしだって水辺の生まれではないわよ。でも、滞りなく祭祀を行えているわ」
「お前は……特別だからだろう」
そっぽを向いたまま口籠もる国久流を、茜が不思議そうに見上げている。垂は国久流の横顔をじっと見つめる。しばらくすると、潮騒と赤松の葉ずれの中に垂が踵を返す足音だけが響いた。
特別。確かに特別かも知れない。
生贄の身から、布瀬の水辺のすべてを手に入れる場所にまで登りつめたのだから。
垂は、布瀬の水辺の北にひっそりと祀られる山津神が、海神に贈るために産み落とした子だといわれていた。ゆえに、親はいない。
巫女に育てられた垂は、生贄として海神に捧げられるため、津守の族長である田津比古の許へ引き取られた。そして、彼の内に秘められた謀略のために命をながらえたのである。
わたしが山津神の子だなんて、お前まで本気で思っているの?
口にしなかった言葉が胸の底で暴れる。垂は早足で田津比古の館を目指しながら、唇を噛みしめた。
梢の葉ずれの中に人の言葉を聞いたり、荒い浪の中に大きな魚の背びれを見たり、湖に立ちこめる朝霧の中に獣の影を見たりする者がいる。垂もそういった類いの力を持っていたので、垂の魂が神に近いところにあるのは確かなのだろう。
しかし神が人の姿をした子を産むなどあり得ない。どこの誰かは知らないが、産み落としたものの育てられなかった赤子を山津神の社に棄てていった。それだけの話だ。
だから垂は人の子なのだ。ただ、親がいないだけの。神に捧げられて死ぬはずだっただけの。
触れがたい気配をまとう垂の背中に、国久流と茜はしずしずとついてくる。
田津比古の館は浜辺からほど近い場所に、赤松の防砂林を背負うように建てられていた。大きな正殿と十以上の傍屋を備え、一丈ほどの高さがある丸太の柵で囲われている。外つ国の使者を最初に迎える館でもあるので、その構えはことさら立派に見えるよう造られていた。
主の田津比古は帰っていないようだった。田勢比古の別邸を出たあと、また別所で男達を集め、垂の発言について協議しているといったところか。
「今朝拾った男はどこにいるの?」
正殿の前で足を止めた垂は、まるで従者のように二歩後ろを歩いてきた国久流を振り返り、傲然と問うた。
「まさかそれを見に来たんじゃないだろうな」
「そうよ。あんなに冷たい海に浸かっていたんだもの、身体が弱っているはずよ。疫神にとり憑かれているかも知れないでしょう。具合を診てあげないと」
国久流は抱えた籠を見てうなだれた。薬草と握り飯を誰への差し入れだと思っていたのか知らないが、見るからに落胆している。
「うちにいる女どもが世話をしてる」
「それは結構。けれどこの館に疫神が憑いているか視られる巫女はいなかったわね。いいから案内しなさい」
垂がうなじを反らして命じると、国久流は舌を打ちながらも傍屋の一つに足を向けた。館の中でも最も奥まった場所にある傍屋だった。
一行が中に上がり込むとそこには侍婢が一人いて、横たわる人物にもそもそと話しかけている。
「どうした」
「ああ、若さま。先ほどお目を覚まされたのですが、声をかけてもお返事をなさらないのです」
国久流の問いに答えると侍婢は彼らに場所を譲り、部屋の隅に引き下がった。彼女が空けてくれたところに腰を下ろす国久流、それに続く垂。
「聞こえるか? 言葉が分かるか? お前はどこの者だ」
身を乗り出して問いかける国久流の声が、一瞬にして遠ざかる。
目を奪われた垂は座りかけたまま、横たわる男を見つめた。
国久流の肩越しに見えるその顔は、一言で片付けるなら美しかった。肌はいくらか赤みを取り戻していたが、それでも新雪のように滑らかで白い。茶色い髪は間近で見るとさらに色が淡く感じた。
茫洋と国久流を見上げる瞳も優しい茶色で、儚げで、今にも溶けて消えてしまいそうなほど若者の存在は希薄だった。
その視線がゆっくりとさまよい、国久流の後ろで目を瞠っていた垂を見つける。滲み出たばかりの松脂のように透き通った黒目に、垂の姿が映る。
身体中の産毛が逆立ったような気がした。
『俺の言っていることが分かるか?』
若者が返事をしないので、国久流は試しにと韓の言葉で問いかけた。それでも反応はない。若者はただ垂を見つめるばかりだ。
「まいったな。目が開いているだけで実はまだ寝てるんじゃないのか」
国久流が若者の額を小突こうとするのに気がついて、垂はようやく謎の戒めから逃れた。慌てて幼馴染みの手を押さえつける。
「やめなさい」
「だってなぁ……」
「だってじゃないわ、そこを退いて」
退けと言いながら退く隙を与えず、垂は国久流を横へ押しやって若者の顔を覗き込んだ。
解けたままの髪、紫色の唇、呆然とする瞳には言葉にならない不安が湧き上がってくるのが見えた。しかしその中に悪しき神の気配は見つからず、彼自身が魂を落としたわけでもなさそうだ。
「ここは田津比古殿の館よ」
「た……づ……?」
若者の唇がわずかに動いた。声にもなりきらない吐息がようやく聞き取れるほどの音をなす。
「なんだ、口がきけるんじゃないか」
「しっ」
垂は国久流を黙らせ、さらに身を乗り出す。
「布瀬の水辺の、海辺の宗主の田津比古殿よ」
若者の唇が空回る。言葉は続かない。いっそう戸惑う表情のせいで、彼の白い肌が再び青ざめていくように見えた。
田津比古の名に心当たりがない――ということは、布瀬の水辺の者ではないのかも知れない。
「わたくしは、垂。この水辺の長よ。お前に悪い神は憑いていないから、安心なさい。起きあがれるなら、白湯を飲みましょう」
ゆっくりと、噛みしめるように、若者を不安がらせないように言い聞かせて、垂は若者の枕の縁から腕を差し込んだ。そうして首を支え肩を抱き、身体を起こしてやる。
細身の男だと思ったが存外重たい。ぐったりしているせいもあるだろう。見かねた国久流が臥所の反対側に回り込んで、一緒に若者の身体を起こしてくれる。
「たる……」
「ええ、そうよ。皆からは垂媛と呼ばれているわ。そちらの男は国久流。わたくしの幼馴染の友よ。がさつそうだけど乱暴なことはさせないから安心なさい。お前は? なんというの?」
もの言いたげな国久流のしかめっ面が、若者の蒼白な横顔の向こうに見える。しかしそれよりも、垂は若者の呼吸が突然大きく乱れたことが気になった。
どこか苦しいのだろうか。落ち着かせてやろうと背中をさするが、彼は髪と同じ透けるような茶色の睫毛を震わせると、きつく目をつむった。
「――分からない」
そして、辛抱強く若者の返事を待っていた垂の前に落ちてきたのは、思いもかけない言葉だった。
「分からない?」
垂は単純に彼の言葉が理解出来なかった。
分からない。分からないって。
わたしが尋ねたのは、この若者の名であったはずだが。
「何も分からない――」
垂と国久流が呆けている間に、若者は丸まるように身体を折ってがたがたと震え始めた。