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浪の淡き水辺

 国久流(くにくる)は大きな鉢を抱え、その中に放り込んだ赤米を石の棒を使ってすり潰していた。

 米というのは案外硬くて、斬られた右腕の傷が痛む国久流にとっては結構辛い作業だった。

 けれど(あかね)はこれしかすることがないと言う。仕方なくその仕事を貰い、言われた通り休み休み米の粉を作っている。ところで何に使うのかはぜんぜん知らない。

 だんだん右腕の痛みがひどくなってきたので、鉢を膝から下ろし、国久流は丸めていた背中をぐうっと伸ばした。

 そして(たる)の寝床を振り返り、彼女の頬が温かいことを確かめる。

 生きた人間のぬくもりにほっとしたものの、相変わらずその目が閉ざされたままであることに肩を落とした。

「垂、いつまで寝てるつもりだ」

 いくら話しかけても返事はなく、彼女の頬は日に日に赤みを失っていた。

 天宮(あめのみや)の兵を退けてから――退けたというより、すべてを海の底に沈めてから五日が過ぎようとしていた。

 加野邑(かのむら)から陸を南下していた部隊も、父が押し留めている内に彼らをここまで運んできた舟の本隊が海に消えため、行き場をなくした兵達は捕らえられた。最後まで抵抗する者があったようで、陸ではそれなりに烈しい戦いとなったそうだ。

 しかし父は無傷で戻り、眠ったままの垂に代わって兵を整え、天宮にことの次第を問う使者を送る準備をしている。

 夫も弟も殺された百舌鳥(もず)媛がどう動くか気になるところだったが、垂の話によれば、あの巫女媛は霊力を失いつつあるらしい。これまで彼女を擁護し重く用いてきた千敷(ちしき)が死んだからには、力のない女の命脈などじきに尽きるだろう。

 族長が死んだ今を好機とみて天宮を攻め、西の海を得るのも悪くはないと父が言っていた。しかし、陸へ戻った直後の国久流にとってはどうでもいいことだったので、あとのことはすべて放り出し、彼は垂を館に連れ帰ったきり彼女の傍で寝起きしていた。

 己の怪我のせいもあり、国久流も翌日は死んだように眠った。けれど自分が目覚めても垂はまだ目を覚ましていなかった。

 もしこのまま垂が目覚めなかったら。

 ぞっとする気持ちをどうにか胸に押し込め、国久流は垂の隣にごろりと寝そべる。

「いい加減に起きてくれないと、俺は暇だぞ」

 米をすり潰す仕事をするより、けろりと目覚めた垂の軽口が聞きたかった。ちゃんとあたたかく色づいた唇に触りたかった。

 垂の枕元には、真っ二つに割れた神器の勾玉と(さら)が棄てた琥珀と赤瑪瑙の御統(みすまる)が置いてある。

 もう力を失ったと思われた神器だったが、天宮の舟を沈めたあとに垂の胸元で音を立てて割れたことを思うと、あれで最後の力を使い果たしたと考えていいのではないだろうか。つまりは、いくらも垂を助けていたということだ。

 だったら垂が死ぬはずはない。

 そう自分に言い聞かせて、長い睫毛に縁取られた目許をなぞった。

 すると、かすかに垂の瞼が震えた気がした。

「垂……?」

 身体を起こして青白い(おもて)を見下ろす。しかしいくら待っても彼女は目を開けなかった。国久流は溜め息をついて、再び垂の隣に身体を横たえる。

 肩が冷えないようにと(ふすま)を引き上げてやってから、その中に手を差し入れ、胸の上に置かれた彼女の手を握る。そして国久流も目を閉じた。



 その内にうとうとしてしまったらしい。

 国久流は頬をつねられる痛みで目を覚ました。

 寝ぼけ眼で誰の敵襲かと確かめてみると、滝のように黒髪をたらして国久流を見つめてくるのは、垂だった。

「元気そうね、国久流」

「垂……!」

 青白い顔をしていたが、ほんのりと笑みを浮かべる彼女は幻ではなさそうだ。国久流は飛び起き、考えるよりも早くいっそう細くなってしまったその身体を抱きしめる。

 垂は抱擁の勢いを受け止めきれず、再び寝床に転がされる。そうしてくすくすと笑いながら、首筋に顔を埋めてくる国久流の背中を撫でた。

「お前が無事ということは、上手く天宮の兵を追い払えたのね」

「ほとんどお前が海に沈めた。陸を攻めてきた兵は戦いになって死んだか、残りは捕らえてある」

「……そう、天宮にとっては相当大きな痛手ね」

「垂」

 そんな話はどうでもいいといわんばかり、国久流は唐突に唇を重ねてくる。

 口づけの奥で垂は「ふふ」と笑った。嬉しくて仕方なかった。もう戻らないと決めて海へ潜ったはずなのに、本当はここへ戻りたくてたまらなかったのだ。

 銀色の糸を視界の端に見ながら、彼女は深く息をついた。

 国久流が離れてゆくと、垂はゆっくりと重たい身体を起こす。

 塩湯を持ってくる、と言って国久流が立ち去ったあと、彼女はふと呼びかけられたように感じて後ろを振り向いた。けれど誰もいない。眠りすぎていたせいでまだ寝ぼけているのだろう。

 身体も重いし、もう少し横になっていよう。水辺がどんな様子なのかは、国久流からじっくり聞けばよい。

 そして身体を横たえようとした垂は、枕元で光る割れた神器と琥珀の御統を見つけた。

「……」

 国久流に抱きしめられた喜びが音を立てて消えていく。代わりに思い出すのは、胸に大刀を突き立てられた瞬間の、更の顔だ。

 御統を拾い上げる。深くも明るい澄んだ茶色。松脂の色をした石。

 垂は、最後に向き合うことの出来なかったあの瞳を思い出し、唇を噛み締めて弾けそうになった感情を抑え込んだ。

 胸に突き上げてくる痛みがあるのに、不思議と涙は出てこない。喪って空いた穴に黒い風が吹き抜けるようだ。叫び出したい気持ちを堪えていると身体が震えた。苦しかった。

「どうした、垂」

 そこへ戻ってきた国久流が、塩湯の入った器を置いてうずくまる垂を抱え起こす。そして、彼女が胸に抱いているものに気づき眉根を寄せた。

「更はどこにいるの」

「……塚を築いて葬らせた。安心しろ」

「会いたいわ」

「だめだ。……もっと具合がよくなってからにしよう。連れて行ってやるから」

 垂は頷き、その時ようやく涙が一粒こぼれ落ちた。国久流に抱きしめられるまま、垂は涙だけをあとからあとからぽろぽろとこぼす。

 結局、独りでいかせてしまった。そんな後悔が溢れて止まらない。でも、あの時更が欲した言葉は、もう垂には言ってやることが出来なかった。

 更は、本当は、垂が国久流に求めたのと同じ言葉が欲しかったのだ。

 垂の傍にいる、と言ったやわらかな声音が耳の奥によみがえり、垂は堰を切って泣き出した。

 垂はあの言葉に救われたのに、更には返してやれなかった。彼が這い出ることの出来なかった暗い孤独の深さを知る垂は、疲れ果てて気を失うまで、ひたすら詫びの言葉を叫び続けた。


* * *


 抜け落ちたものは抜け落ちたまま、しかし代わりに得るものは得ながら、布瀬の水辺に吹く風はうつろっていった。

 今日も神なる連峰は弓形の湾を抱き、そこに行き来する舟を静かに見守る。水も空も巡り、御倉は潤い、稲穂は重たく頭をたれていた。

 垂は国久流と一緒に丸木舟に乗って、潟湖の中に浮かぶある島を目指した。

 そこは墓場だ。力のある巫女が死んだ時に葬られる島。強い力を持った彼らの魂が、水辺に災いをなす神とならぬよう、ここで丁重に祀っているのだ。

 更の亡骸は、この島に葬られていた。

 大勢の巫女とともに祀られる更は、今や布瀬の水辺の神の一人だ。

 垂が身体を抜け出して白い靄の中を飛ぶ時、どこからか彼の視線を感じることがある。でも決して垂の前に現れてくれることはない。

 せめて彼の魂が安けくあるよう、垂にはこうして祭祀を欠かさないことくらいしか出来なかった。

 まだ新しい塚の前に跪き、垂は榊の枝や酒壺を供え、朗々と祝詞を歌いあげる。

 そんな彼女の胸には、今、新たな神器として力をこめている琥珀と瑪瑙の御統が光っている。


* * *


 再び湖を渡って湖畔の館に帰ると、田津比古が正殿で垂の帰りを待っていた。

「どうしたの、田津比古殿。国久流を迎えにきたの? もう帰るところだったのよ」

「いいえ。倅も子供ではございませぬ。妻の許へ通う日取りも時間も、己で考えられるでしょう。午を過ぎても帰らぬことがままあるようではさすがに困っておりますがな。親が迎えに参るというのは恥じでありましょう。当人が己を律してくれるよう、願うばかりです」

 う、と息を詰まらせた国久流に対し、垂は袖の奥でころころと笑った。

「まったくその通りね。国久流は本当に朝寝が好きなものだから、なかなか起きてくれなくてわたくしも困っているところよ。国久流の腕に抱え込まれていると重たくて動けないんだもの」

「ここまで足を運ぶとは、よほどの用件なのでしょう、父上」

 国久流は二人の視界から逃げるように田津比古より下座に座った。息子の行動を鼻で嗤い、津守の長は族長の席に着いた垂を睨むように見据える。

「本日は、垂媛さまに確かめさせていただきたいことがあって参りました」

 何やら今日も機嫌が悪い(しゅうと)の様子に、垂はぱちくりと大きく瞬く。なんだろう、このところは大人しく彼の傀儡でいてやっているのに。天宮(あめのみや)へ戦を仕掛けようとしたことを止めたのが尾を引いているのだろうか。

「垂媛さまは、初穂を刈るまでに新たな夫を決めるとおっしゃいましたな」

「……それが何か」

「もうじき初穂刈りの祀りを行う日取りが決まりまする。その前日に、新たな夫を選んだことを皆々に報せて頂きたい」

「……は?」

 叩頭する田津比古に向けて何度か瞬きを繰り返し、垂はすっとんきょうな声をあげた。

「国久流を夫にすると、いえ、()()()()と、わざわざ声高に宣言しろということ?」

「さようにございます」

「そんなことをしなくても、そなたの倅がせっせとわたくしの許に通っていることは皆知っているわよ」

「知っているのと、垂媛さまの口から報せて頂くのは、別の話でございます」

 ふむ、と頷きながら、垂は(おしまづき)にもたれかかった。田津比古は、国久流が長年惚れていた垂をついに射止めたという評判よりも、垂が国久流を――津守の一族を選んだという箔が欲しいのであろう。

「わかりました」

 あっさりと頷いた垂に目を剥いたのは国久流だった。わざわざそんな席を設けられたら、ようやく下火になってきた彼への祝福とからかいの声が再び盛り上がるからだ。国久流は首から上を真っ赤にして喚いた。

「なんでそうなる!? 父上、見苦しい真似はおやめください。世の妻夫(めおと)はごく自然に添うたり離れたりしているのです。大袈裟に騒ぐほどの話ではありません」

「何を言う。天宮の巫子の時は、垂媛さまがうちそろった邑長の前で宣言をなさった。同じようにしていただかねば我が一族が劣って見えまする」

 垂の頬がぴくりと引き攣る。国久流も黙ってしまった。この気まずい沈黙を狙って田津比古は言ったのだろう。

 垂は目を閉じ、衣の下にしまった琥珀と赤瑪瑙の御統にそっと手を重ねる。

 痛みは和らいできている。けれどそこに刺さったままの棘。

 その痛みから目を背けずにじっと耐え、垂は顔を上げた。不敵に笑う田津比古を見つめ、彼女は盛りの芙蓉の花のようにやわらかな笑みを返した。

「そなたの言う通りだわ。いずれ津守の一族を束ねてゆく国久流が皆から低く見られるというのはよくないこと。初穂を刈る前に、確かに皆の前で言いましょう」

「ありがとうございまする」

 田津比古は揚々と舟に乗り帰って行った。国久流は「いい加減に館へ戻れ」と言われていたが、むすっとしたまま父を送り出した。そして田津比古を見送りに出たまま、更の眠る島を見つめる垂にそっと寄り添う。

「今夜は、更に会いに行ってみるわ」

「……そうか。なら、お前が帰ってくるまでここで待っている」

 遠くに見える島の緑を眺めたまま、国久流は垂の肩を抱き寄せた。



 白い靄がぼんやりと光る、真夜中の布瀬の水辺。

 垂はいつものように地霊(ちみ)魚霊(なみ)と戯れながら、そこここに残る更の魂の残滓を頼りに彼の姿を探していた。

 彼は死者が向かうという海の向こうの神なる連峰はへ行かず、この水辺にいるはずだった。あの島は檻でもあるからだ。力のある魂は善くも悪くも神になる。ゆえに祀るという形であの島に閉じ込めている。

 柑子色の光を見かけることはたくさんあった。しかしそれはどれも、更が垂とともに水辺を飛んだ時の痕跡で、今日もどこかを漂っているはずの彼を捉まえることは出来ない。

 もちろん、避けられているという可能性はあった。彼は垂が憎いであろう。

 彼の偽りではない心。垂を好いていると言ったその想い。垂の許から去らねばならなくなった時の、胸が張り裂けそうな悲しみ。

 垂はそれを更に求めながら、すべてを偽りではないかと疑った。疑っても無理はない仕打ちを受けたとはいえ、最後の最後、彼に手を差し伸べたつもりが突き放してしまったようなものなのだ。

 それが悲しくて辛くて、自分だけが孤独の底から這い上がれたことが罪に思えて、あれからしばらく垂は泣き暮らした。

 しかし傷は癒えていってしまうものだった。後ろめたさを感じつつも、垂は国久流の言葉や掌に励まされ、少しずつ正気に戻っていった。

「更、いるのでしょう。お願いよ、姿を見せて」

 垂は許しを請うために水辺の空をさまよった。湖で喉を潤す地霊の傍に降り立ち、更が彼らに触れていないかを確かめた。風の中に柑子色の光が見えないかを探した。

 そして今日も、求める姿には出会えないまま夜が明けてゆく。眩い朝日が靄を払い、霊達の身体は光の中に透けていった。

 肌身離さず身につけている御統を手に取り、彼女はこの琥珀と同じ色の瞳を懐かしく思い出した。ちくりと痛む胸にそれを抱え、鏡のように凪いだ潟湖、そして神なる連峰に抱かれた海を見晴るかす。

 二つの水が入り交じる、浪の淡き水辺。


 この御統が神器となるほど年月が過ぎた頃。垂の命が終わって、布瀬の水辺の中に溶けゆく時。

 垂が同じこの地の神になったら、また更に会えるだろうか。彼は会ってくれるだろうか。

 分からない、けれど。せめてそれまでは彼が寂しくないように、彼の魂が安らげるように、垂はこの布瀬の水辺と、神々の営みを守ってゆかねばならない。


 ――今はそれでいい? 更。


 耳飾りを揺らす風の中に問いかけてみたが、やっぱり返事はない。



 垂は寂しげに笑って、国久流が待つ湖のほとりへと降りていった。

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