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第七章(四)

「国久流! 垂媛さま!」

 二人が血塗れで帰ってきたことを聞きつけ、田津比古は血相を変えて館へ戻った。

 そして、彼が対面したのはすでに怪我の手当も着替えも終え、いつもと変わらぬ様子で居住まいを正した(せがれ)と族長だった。

 垂は貸し与えられた(かた)()の一室を斎屋(いみや)として、結界の綱を張り巡らし白絹の(ぬさ)をかけた榊の枝を祭壇に立てて、それと向き合っていた。

 肩越しに振り返った垂の目には、田津比古を見る時にいつも凝っていた恨みや反抗心がない。それこそ朝霧の下で鏡のように凪いだ湖の静けさだ。

 田津比古は思わずその場に平伏した。これまで、先の族長の妻、そして新しい族長となった垂に対して形ばかり見せてきた臣従の礼を、心からとった。無意識のうちにそうさせられるほど、垂の後ろ姿は荘厳な気配を漂わせていたのだ。

「昨夕、茜の知らせを受け社へ参りましたが、兵や巫女どもは斬り殺され、神殿さえ血で穢されておりました。恐れながら祭壇の下に隧道を見つけ申したので中を検めたところ、倭文織殿が……いったい何が」

「倭文織は天宮と通じ、わたくしを欺いて布瀬の水辺の神器を奪い、千敷殿の兵を手引きしていたわ。だけど、国久流殿が助けてくれたおかげで神器は奪われずに済んだ。さすがはそなたの倅ね」

 垂が肩越しに微笑むので、田津比古はその脇に控えていた国久流を驚きの目で見る。頬や首、腕にも結構な怪我を負っていたと聞いたが、そもそも倅は二野の使者を送り届けるため舟に乗ったので、ここにはないはずだった。

 経緯を詳しく聞きたいところだったが、田津比古にも火急の用があった。

「では、今朝方、加野(かの)邑から敵襲を報せる烽火が上がったのは」

「天宮の舟ね。そう、加野邑を制圧してからここへ来るつもりね」

「加野邑からは海沿いに布いた陸路もございます。敵は両方から攻め降ってくるでしょう」

「分かっているのなら田津比古殿、烽火を見てから兵の用意は始めているわね」

 田津比古は垂の背中に向けて頷き返した。彼女はそれを見ていたかのように立ち上がり、白い裳裾を捌いて振り向く。

 髷を解いた黒髪が音を立てて背中に流れるさまは、まるで潟湖の主である女神を彷彿とさせ、その目の奥に燃える静かな怒りがこれまで凪いでいた湖面の瞳を浪立たせた。

「そなたは陸から来る敵に備えて。海を渡ってくる敵は、わたくしが沈めます」

 そう断言した垂を見上げ、田津比古は純粋に安堵を覚える。彼は垂にそれだけの力があることを目の当たりにした一人だ。あの潮の柱を見た時はなんと恐ろしい娘かと思ったものだが、まさか早速その力に守られることがあろうとは。

 こうなった経緯を問いただすのはあとだった。今は数も掴めない天宮の兵に備えねばならない。

「邑長達を集めて。それぞれに頼みたいことを話すわ」

「はは」

 叩頭してから田津比古が出て行くと、垂はゆっくりとその場に崩れ落ちた。すかさず支えてくれた国久流にもたれかかり、互いに血のにおいが残る身体を抱きしめ合った。

 頭の中に溶けた銅が入っているかのように熱い。今すぐ目を瞑って、すべてを忘れて眠ってしまいたかった。

 けれど天宮の兵が来る。加野邑の津を潰したら、水陸両方から千敷の兵が攻めてくる。

 兵を二手に分けねばならないのは苦しかった。こちらには指揮を執れる津守の邑長達が集まっているとはいえ、どうあっても寡兵だ。土地の有利はあっても、この日のために兵備を整えてきた天宮の武力に敵わない。

 でも、田津比古の意識を海沿いの陸戦に集中させておけば、彼なら敵を防いでくれるだろう。兵力もそちらに傾けられる。その間に、垂は海上を来るであろう船団を沈める。

 布瀬の水辺に残された道はそれだけだ。水辺を守らねばならない垂がゆける道も。

「俺もお前と海に出る」

「だめよ、こちらは少ない兵しか連れて行かないわ。それに、潮の流れに巻き込まれて一緒に沈んでしまうかも」

「だったらなおさら行かないとだめだろう。お前、泳げないんだからな」

 国久流は努めて軽い口調で言ったが、垂は力なく首を振るだけだった。これが最後だ。そう思うと、はぐらかして国久流をおいてゆくことは出来なかった。

「そうして海に沈むのがわたしの役目よ。だから来ないで」

「いやだ」

 残酷すぎる垂の言葉をはねのけ、国久流は彼女を抱える腕に力を込めた。

「国久流……」

 わたしは、お前に生きていて欲しいだけ。

 そう言おうとした垂の耳に、消え入りそうな囁きが滑り込んでくる。

「すまなかった」

 針のように鼓膜を刺した詫びの言葉。垂は一瞬息を呑み、溢れてきそうになった涙を押しやるために目をつむる。そして国久流の背に回した手で、子供をあやすように震える身体を撫でてやった。

「いいのよ、お前はわたしを守ると言ってくれたもの。その約束を果たしてくれただけだわ」

 閉じられた更の瞼を縁取る、もう震えることもない睫毛の影を思い出した。真っ白になった唇を思い出した。彼の身体から大刀を引き抜き、膝をついたまま嗚咽を漏らす国久流の姿を思い出した。

 垂を守るために、垂に希望を与えるかも知れないものを奪わねばならなかった国久流。

 そのことに傷ついてくれる彼を垂は責めたり出来ない。だけど、国久流が更に刃を突き立てた瞬間は何度でも脳裏によみがえる。

「更がいれば、お前は生きて戻れるかも知れなかった」

「でも、更はわたしを殺そうとしたわ。やっぱり初めに戻るだけなのよ。わたしは海神に捧げられる贄。そこに布瀬の水辺の族長という使命がついただけ。決して投げやりになっているわけじゃないの。それだけは信じて」

 ぎゅう、と国久流の腕にますます力がこもる。いっそこのまま息を奪われて、国久流の腕の中で死ねたらいいのに。垂はそんなことを思いながら国久流の髪に鼻先を埋めた。

「絶対、一緒に行く。一緒に行って、天宮の舟を沈めたら、必ずお前を(おか)に連れ帰る」

 頑として譲らないその声に、垂は苦笑しか返せなかった。

 だったら、自分たちの舟が沈んでも、国久流だけは浜へ押し戻してやらなくては。そんなことを思いながら、垂は国久流の背をさすり続けた。


* * *


 垂は血で穢れた社の神殿から水神と海神の鏡を運び出させた。田津比古の館の正殿に結界を張って祭壇を設け、神々の御魂を邑長達の前に迎える。

 二枚の鏡を背負うようにして彼らと向き合い、垂はことの経緯を淡々と語った。もちろん、この窮地に向き合うために必要な部分だけを。

 初めはどよめきながら聞いていた邑長達もじきに静まりかえり、怒りに燃えた目で彼らを見据える垂の前に、一同は完全に屈服した。そうせざるを得ない凄まじい覇気が彼女から発せられていたのだ。人の目には見えない霊力だが、少しずつ高まっていく垂の力を皆感じ取っているらしかった。

「田津比古殿とほかの津守の邑長には、陸の道を守るべく先んじて兵を率いて行って貰ったわ。ここに残る海辺の邑長には、海で天宮の舟を迎え撃って貰う。湖畔の邑長達は、ここで水神の鏡をお守りしなさい」

 紅で額や目の周りに浪の紋様を描いた垂は、平伏する彼らに背を向け海神の御魂を宿した鏡を胸に抱える。

「わたくしは海の大神とともに、舟で出る」

 日輪のように輝く青銅の鏡は、疲れ切った垂の身体にずっしりと響く重みを持っていた。顔を上げた邑長達の尊崇の眼差しも、正殿の隅から見つめてくる国久流の視線も重たかった。

 神なる連峰に抱かれた有磯(ありいそ)の海、巨大な潟湖。

 二つの水が混じり合う豊かな国。

 なんとしても守る。

 そのあと先のことは考えまい。目をつむった垂の耳に、最後の時の始まりを告げる声が飛び込んでくる。

「申し上げます!! 天宮のものと思しき舟影が、北に現れました」

「数は?」

 すかさず(よろい)を身につけた国久流が立ち上がり、階の下に現れた兵に問うた。

(とお)ほどかと」

「十だと?」

「数えきれぬほどの櫂が見える巨大な軍舟(いくさぶね)でございます。まだ遠きに見えるゆえ、旗印も確かめることはできませんが……」

 正殿の中は水を打ったように静まりかえった。

 風はなく、海は穏やかだ。舟の行く手を阻むものはない。その軍舟は何ごともなくこの岸辺へたどり着くだろう。

「征きましょう。無礼な客は我らの水辺へは入れぬ」

 叩頭する湖畔の邑長達と、立ち上がる海辺の邑長達を見渡し、鏡を抱えた垂は凜とした声でそう言った。



 舳先が大きく反った軍舟は、二十人もの漕ぎ手が力を合わせてようやく滑り出す。そんな軍舟を五艘、小舟に乗せた兵士も従えて、垂は海へと漕ぎ出した。

 何も言わずに同じ舟へ乗ってきた国久流は、はやり何も言わずに彼女の後ろに立っている。垂が今にも倒れそうなのを知っているのだ。

 身体が熱かった。昨日から続く熱のせいだけではなく、じわじわと絞り出してきた霊力が垂の身体を灼いている。

 更とともに神々と通じたあの夜とは違っていた。心地よさは一つもなく、高まる垂の力に呼応した海神の御魂が、今にも爆発しようと海の底で蠢いている。胸に抱いた鏡からはそんな気配を感じた。

 垂はそれを宥めつつ、大きな力が抑圧から解き放たれる時の威力を高めていく。

 彼女が見晴るかした海の上には、四十にも五十にも見える櫂が百足の脚のように蠢いて細波を押し潰すように這ってくる巨大な軍舟が並んでいた。

 天宮の軍舟だ。こちらの軍舟の倍ほどもある巨舟の上には、盾を構えた兵が壁をつくり、その奥にはきらきらと光る矛の先が等間隔で並んでいる。そしてその軍舟の後ろには無数の小舟が従っている。

 軍舟に取りつこうにも、あの小舟から放たれる矢の雨が邪魔をして近づけないだろう。また取りついたところで、やはりこちらは数が足りない。巨舟の一艘や二艘を岩礁に誘い込んだところでほかの巨舟と小舟の動きも封じられない。

 垂が乗る舟の左右へ鶴翼に広がった水辺の舟。その様子を見渡すと、舟上の兵達は天宮の船団を見て呆然としていた。

「あまり沖へは出るな。せめてあの軍舟が近づけない場所で待ち構える。妻夫(めおと)島のあたりなら岩場も多い、そこへ――」

「いいえ、もっと沖へ出て。まとめて沈めるわ」

 ほかの舟へ指示を出そうとする国久流の声を遮り、垂は天宮の船団を睨み据えたまま言った。

 一瞬舟の上に過ぎった恐怖はすぐに打ち消され、おお、と叫ぶ兵達の鬨の声が響いた。

「垂――」

「大丈夫。皆のことはきちんと浜へ返すわよ」

「お前のことも連れて帰るからな」

 この期に及んで……と呆れる垂を、国久流は後ろから抱きかかえた。

「海の神は男だ。もうほかの男のところにお前をやりたくない。だから連れて帰る。絶対だ」

 甲に覆われた硬い身体に抱かれるとあちこちが痛い。けれど、耳許をかすめる国久流の吐息や、目を眇めれば見える凜々しい目許が愛おしかった。

「そういえば、そうね。わたしが勝手に海の底へ行ったら、湖の大神も嫉妬なさるかも知れないわね」

 その愛おしい腕を解きながら、垂は国久流を振り返った。最早、垂に諦めさせることを諦めた顔がそこにあった。代わりに本気で垂を連れ帰ろうという強い意志が国久流の目に宿っている。垂が泳げないとか、そういう問題ではないことくらい分かっているだろうに……。

 嬉しい。垂は花がほころぶような笑みを浮かべた。けれど同時に、より強く鏡を抱いた。

 命を捨てるわけではない。投げやりになっているわけではない。これが垂の方法。結末を知っていても選んだ方法だ。

 戻れなくても、国久流が生きていく場所を守るために。

 それでも、もし、戻れたら。

 垂は国久流の真っ直ぐな視線に賭けてみることにした。上手くいかなければ彼はいっそう傷つくかも知れない。けれど、更や垂とは違った強さを持つ国久流ならあるいは、と思った。

「わたしの帰り道を預かっていて、国久流。戻れたら、戻ってくるわ。お前のところに」

「どういう意味だ?」

 垂は更に渡していた魂の糸の先を、こっそりと国久流に結びつけた。彼にそれを感じる力はないが、垂には国久流の魂を見ることが出来る。

 銀色に光る刃の色。眩しくて嫌になるほど強い光だ。海の底へ潜っても、きっと見つけられる。

「お前は、わたしのことだけを考えてくれていればいいの」

 ふふ、と垂が笑みをこぼした時、隣に並ぶ舟の舳先から怒声が聞こえた。

「旗印が見えたぞ! 族長の印だ!!」

 頭の芯からすうっと熱が引いた。

 互いを目指して走る舟の上。巨大な軍舟の上にはためく旗を見据える。

 橙色と黒で描かれた鳥――百舌鳥の旗だ。

「力をなくした巫女の名など連れてきて、いったいなんの加護を得られるつもりなのかしら」

 あれは紛れもなく天宮の族長の印だった。更が垂をおとし、神器を掌握していると思い込んで自ら出征してきたのだろう。

 確かに神器は失われた。垂の首に掛かっている勾玉は、ただのひび割れた石に過ぎない。けれど垂は力を失ったわけではない。それが千敷にとっては大きな誤算であった。

 倭文織を唆し、垂を陥れようとした男。そして更に過酷な運命を与えてきた男。

 ――沈めてやる。

 束の間冷ややかになった頭の中が、再び沸騰しそうなほどの熱で覆われる。

 垂はもう一度国久流を振り返り、首を傾げて笑った。

「それじゃあね、国久流」




 垂は身体を抜け出し、青く明るい海の中へ潜った。

 断崖のように切り立った海底が見える。深く深く口を開けた闇。その奥から白く渦を巻いてやって来る海流が見えたので、垂はその中に飛び込んだ。

 身体をばらばらにされるような衝撃を感じたあと、垂は完全に海に溶けていた。掌を揺するだけで浪を立てられる気がした。

 海上を飛び交う矢が見える。天宮の軍舟、水辺の舟、それぞれから飛んだ矢が弧を描いて舟にも海にも降り注ぎ、射貫かれた兵がぼろぼろと舟からこぼれて()()()()落ちてきた。

 血の匂いがむっと海面に広がり、潮の香りと混ざり合う。

 ひどく不愉快だった。魚霊が怯えて逃げ惑っている。可哀想に。

 垂は海上へ躍り出て飛び交う矢を遮った。大浪に呑まれた矢はばらばらに折れて海中に沈み、巻き起こった余波に天宮の巨舟でさえもが大きく揺さぶられる。

 その時、盾を持って垂の身体を抱え、必死に彼女を庇おうとしている国久流の姿がちらりと見えた。

 自分が戻るべき場所を確かめると、垂は再び深く海へ潜る。

 水面に映る大きな影が憎々しい。その思いをぶつけるように、海水とともに巨大な影を貫く。

 轟音を立てて舟底が割れ、宙に舞い上がった垂はきらきらと散る浪飛沫、そして矛の穂先のきらめきの中に百舌鳥の旗を探した。

 ――この舟じゃない。

 悲鳴と水音を引きずり込んで海中へ戻り、次はその隣で揺さぶられていた舟の腹を突き破る。

 投げ出される兵や漕ぎ手を冷淡に見下ろしていた垂は、真っ白な肩巾(ひれ)を翼のようになびかせて一つの軍舟に降り立った。

 ――見つけたわ。

 若草色の衣と黒い鉄の甲に身を包んだ壮年の男がいた。賢そうな面差しに屈強な体躯。黒塗りの甲が実に似合っている。彼は揺れる舟に矛を突き立ててしがみつき、怒号を飛ばしていた。

 舟にはためく百舌鳥の旗を確かめ、垂はその男を冷ややかに見つめた。千敷。この男だ。

 腕を振り上げ、舟縁から海水を招き寄せる。驚いた千敷がわっと叫んだ。足許を濡らし、どんどん舟底にたまっていく海水に彼は狼狽える。

『海神の力は封じられているのではないのか!?』

 喚く千敷に垂は躍りかかり、その眼前でにたりと笑った。千敷の表情が一瞬にして凍りついた。飛沫の中に現れた垂の姿を見たのだろう。

 舟を降り、海の中で水の流れを集めると、それを身体にまとわりつかせながら垂はほうっと溜め息をついた。

 海と溶け込むのは実に心地よかった。あの祭祀の夜の感覚がようやく戻ってきたのだ。けれどそれだけに()()()()という感覚も強くなる。

 銀色の糸。国久流の許へと続く糸。見失ってはいないけれど、やはり国久流に垂を()()()()力はないらしい。

 垂が自力で戻るしかない。でも天宮の舟を沈め終えた時、それだけの気力は残っているかしら。

 彼女は渦を巻いた海流に再び溶け込む。

 その流れに乗って、垂は矢のような勢いで水面に並ぶ影の群れを目指した。


* * *


 浪の泡が弾けていく音がする。その音とともに垂の身体もほろほろと崩れていくような心地だった。

 陽射しが差し込む水面には、大勢の人間と、砕けた舟と、血溜まりが浮いていた。

 それを見上げながら、指先から泡になっていく。気持ちがよかった。何も考えなくてよかった。ただ海の巡りの中に交わっていけばいいのだと思うと、楽だった。

 そうして目を閉ざした垂の身体を、何かがつん、と引っ張った。

 銀色の糸。

 これはなんだったっけ。

 か細いそれを指先に絡めてぼんやりと考えたが、思い出せない。

 やがて垂はその糸を手に絡めたまま目をつむって、弾ける浪の音に心を任せた。

 誰かが必死で垂の名を呼んでいたけれど、もう応える気にはなれなかったのだ。


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