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第七章(三)

 風が吹き込まない岩屋の中は暖かかった。国久流と身体を寄せ合っていればぐっすりと眠れるほどには。

 ごく短い間、垂は夢も見ずに昏々と過ごした。それが途切れた時はまだ夜の中で、横たわる二人から少し離れたところで手燭の火が燃えていた。

 国久流は腕に抱えている垂の身じろぎで彼女が起きたことに気づき、黙って髪を撫でてくる。小さく丸まるようにして眠っていた垂は顔を上げ、朱色の影が落ちた国久流の顔を見つめる。

 どちらからともなく唇を重ねた。その口づけは互いの唇だけに終わらず、国久流は垂の頬に、首筋に、胸元にも唇を押しつける。垂がそれを受け入れている内に、二人はもつれ合いながら昨夜の夢の続きへと戻る。

 首筋にかかる国久流の荒い息づかいを感じつつ、垂は岩屋の中が白んできたことに気づいた。

 海水が朝日を招き入れて青白く光り始めている。夜の間塞がっていた岩屋の入り口にも浪の揺れる水面が見えてきた。

「もうじき、歩ける岩場が現れる。そうしたら行こう」

 垂は頷いて、身体を離そうとした国久流の背に腕を回した。

 別れを惜しむような垂の行為に彼は息を詰まらせるが、すぐに垂の頭をかき抱いて口づけ、彼女の望み通りに身体を重ねてきた。

 国久流の肩口に顔を埋めながら、垂はぎゅっと目を閉じた。少しでも長く夜の中にいたかったのだ。こうしていればまだ朝を見ずにすむ気がした。虚しい願いだとは分かっていたけれど。

 やがて夜は明けて、この朝に生まれたばかりの魚霊(なみ)が岩屋の中にも入り込んできた。彼らはちゃぷちゃぷと跳ねて、浪の中から現れた細い岩の道に飛沫をかけている。

 垂はまだ湿っている上衣と裳を身につけると、新しい大刀を腰に差した国久流に手を引かれて岩屋を出た。

 朝の水辺は静かだった。遠くからやってくる浪の音が聞こえるだけで、物々しい雰囲気はひとつもない。媛ヶ崎の向こう、赤松の林のあたりでは田津比古の兵がひしめいているかも知れないが、まだ垂達の耳にその気配は届いていなかった。

 狭い海の縁の道を国久流に気遣われながらただ歩いていると、まるでようやく秘密の逢瀬が叶って、二人でこっそりと館へ帰ろうとしているだけのような気もしてくる。足を滑らせた垂をすかさず支える国久流の腕に、そんな幸せを夢想してしまう。

 けれど一方で、垂には予感があった。

 更が自分を捜している。神器を得ようと、一度強く結びついた垂の魂の居所を探っている。

 彼の巫子としての力は本物だった。ならば、昨夜は心が昂ぶるまま国久流に身を任せていた垂のことを彼が見つけられぬはずがない。

 国久流にもそんな予想があるのだろう。だから抜かりなく岩屋の中の大刀を持ってきた。そして、深い凹凸のある媛ヶ崎にへばりつくようにして進まねばならない曲がりくねった隘路の先を、慎重に窺いながら進んでいる。

 垂の手を引く一方で、国久流の右手は常に空いていた。昨晩巻いた包帯代わりの布には血が滲んで見える。更に斬られた傷。今度彼と出会ったら、国久流はその腕で更を斬るつもりなのだ。

 垂は先をゆく国久流の左手をぎゅ、と握った。

「どうした」

「……」

 とても、とても悲しかった。国久流は躊躇わないだろうし、更もきっと躊躇わない。

「身体が辛いのか。おぶってやろうか」

「違うわ、平気よ」

 垂の心中は察してくれているのだろうけれど、国久流は気づいていない振りをしているらしい。顔を強ばらせた垂の髪を、まるで幼い子供相手にするような手つきでぐしゃぐしゃと撫で「もう少しだ」と励ましてくる。

 二人は海縁の細い岩の道を歩ききり、やがて再び媛ヶ崎の足許に空いた穴へ入った。身を屈めて歩かねばならない狭い道だが、ほぼまっすぐに岬を貫いているその隧道の先には光が見える。かすかに白く輝いて見えるのは、赤松の林の前にある長い砂浜。

「こんなところに繋がっていたのね」

「ああ。もっと潮が引けばさっきの道をまっすぐ進めたんだが……もううちの近くだ。無事戻れる」

 〝無事〟。その一言に、国久流のこれまでの緊張が伝わってきた。

 更は神器を――垂を狙ってくるだろう。しかし、このまま兵に守られた田津比古の館に入ることが出来れば、更が襲ってくることは不可能だ。

 更は垂を見つけられなかったのだろうか。それとも、昨晩のうちに田津比古に捕らえられたか、殺されたか。

 自分を襲う危機が去った途端、あの色の淡い若者の消息が気になるのだから、この頭はなんと都合よく出来ているのだろう。

 更は垂の許を去ったではないか。どころか、彼は垂を殺そうとした。何もかも偽りだった。

 でも、ほんの一時、垂が彼の存在に心癒されていたことは真実だった。その真実がどうしても更を憎ませてくれない。無事すら願ってしまっている。

 それが国久流に知られやしないかと思うと恐ろしかったが、でも、国久流は気づいているのだろう。気づいているから、これだけ強く垂の手を握っている。

 隧道の出口には蔦が枝垂れてかかっていたが、その向こうに見える輝く朝の浜辺が目に痛いほど眩しい。

「最後は飛び降りるぞ。俺が先に降りるから、待ってろ」

 国久流はそう言いながら隧道の出口にかかった蔦を大刀で斬り払う。

 出口は媛ヶ崎の足許に並ぶ岩垣の上に出ていた。下まで大人の男の背丈ほどの高さがあったが、降りられないことはなさそうだ。

 そして、ここは垂が更を見つけた場所だった。

 垂の視線は無意識のうちに若者を見つけた岩の狭間を探していた。

 まだ海風は冷たかった。更は真っ青な顔で眠りながら浪に漂っていた。

 あの時から、全部がうそ。

 垂の表情に浮かんだ寂しさと痛みに気づき、国久流が彼女の身体を引き寄せる。

 唇が重なるすんでのところで、二人は見つめ合った。

 咎める視線と、許しを請う視線と、懇願する視線と、それを受け入れる視線と。

 お互いの胸にわだかまる様々な想いを短い間に交わし合い、今は静かに離れ。

 国久流が先に隧道から飛び降りる。彼は危なげなく着地し、隧道から身を乗り出している垂に向かって腕を伸ばしてくる。

 その時、何かがひゅう、と風を切った。

 トン、と軽い衝撃を感じた直後、右肩に焼けるような痛みが走り、驚いて態勢を崩した垂は真っ逆さまに隧道から落ちる。

「垂……っ!」

 受け止めてくれた国久流の腕の中でたちまち熱く疼き出す右肩を見た。そこには刀子(とうす)の柄が生えている。じわりと滲んでくる血。視界が揺れる。

 そして、傾いだその世界。国久流の肩の向こうに、淡い色の髪と白刃が閃くのが見えた。

「国久流!」

 垂が叫ぶより国久流がその気配を察知する方が早かった。

 彼は垂を抱えて飛びずさり、振り下ろされた大刀をかわす。獲物を逃した切っ先は岩にぶち当たって砕けたが、大刀を振り抜いた当人は構うことなく、欠けた刃をさらに翻す。

 もう一撃をよけ、垂を後ろへ突き飛ばした国久流は大刀を抜いた。

 鋼が激突する音。散る火花。

「……更」

 垂は刀子が刺さった右肩を庇いながら起き上がり、国久流の大刀に押し戻されて間合いを取る若者を凝視した。

 どこかで髪や衣を洗ったのか、彼の全身を染めていた血は薄らいでいた。淡い茶色の髪も白い頬も美しさを取り戻し、しかし血の染み込んだ衣だけに黒茶けた赤色が濃淡の模様を作っている。

 飛び降りた二人が戻ってくるための道を探し、見当をつけて待ち伏せていたらしい。垂の魂のゆらぎを感じられる更のことだ、その〝見当〟の精度はいうまでもない。

 彼は欠けた大刀を右手にぶらさげて、国久流に庇われる垂だけを見つめてきた。

「神器をいただきにきました」

 奪いに来た者とは思えない、恭しい口調。だが、これまで垂に向けられていた親しみや労りの感情はそこになく、ただの音としてしか響いてこない。

 その冷たさが胸に痛かった。

 そして、更の胸には垂が贈った御統(みすまる)もない。垂に返すと言って、垂の目の前で彼は御統を捨てたから。

 更に対して情があるのは自分だけで、彼は初めから垂を欺くつもり近づいてきたのだと思い知らされるようだ。

 だけど、だけど、まだ少しだけ信じている。

五百枝(いおえ)殿」

 震える声を絞り出す。はっとしたのは、国久流だった。気遣わしげな目で垂を振り返ってきた。

 〝彼〟に贈った名を口に出来ないだけで胸が張り裂けそうだったが、国久流がこの思いを解ってくれると思うと勇気が出た。

 垂はふらつきながらも立ち上がる。

「神器は割れてしまったの」

 松脂の色の目が震えるのが見えた。立ちすくむ〝更〟の様子に変化はないが、彼からゆらりと怒りが立ち上るのが分かる。

「千敷殿の欲しいものは、もうここにはない。お前の望むものもよ。大刀を捨てて。そして、天宮へ戻れないというなら、この水辺に残ればいい」

 垂は左腕を〝更〟に向けて差し伸べた。指先に朝日と潮風が絡まる。あの日冷たかった風は爽やかに温み、砂浜はいっそう白い。

 季節がうつろうこの短い時の中にあった、多くの出来事が偽りだった。

 でも、垂が一時でも彼に慰められたことは本当。そして、彼をともに神器の秘密を預かる者として選んだのも本当。

 垂は右肩に突き刺さった刀子を、渾身の力をこめて引き抜いた。たちまち溢れてくる血。刀子を投げ捨て、彼女は痛みなどものともしない涼やかな表情で〝更〟を見据える。

「神器はもうないけれど、お前には神々と繋がる力がある。お願い、力を貸して。千敷殿の兵を阻むにはわたし一人の力では足りないかも知れない。だから、お前が手伝ってくれれば――」

 陽炎のように〝更〟から立ち上る怒り、そして飢餓感さえ感じる命に対する欲。

 ――殺されなくて済む。彼はそう言っていた。きっと、それが彼の自覚する唯一の望みなのだろう。

 姉巫女の影を呑み込む形代、そして血を浴びても穢れを負わぬという彼は、これまで人として扱われてこなかった。

  だから誰かに何かを望まれるということを知らない。だからただ生きていくことしか知らない。

 生き延びるために生きる。そのためには、彼にとって絶対の存在であった兄の機嫌をとらなくてはいけなかった。〝更〟の目に見えている道はその一本。

 だったら教えてやりたかった。お前は人に心地よさを与えることも出来るのだと。望まれて生きていける場所もあるのだと。

 そして、そんな場所を得ることがお前の本当の望みなのだと。

「わたしが、千敷殿の代わりに、お前の生きていく場所をつくってあげるわ」

 垂にはこの言葉が〝更〟に届くという期待があった。なぜなら、彼は倭文織(しどり)が垂に飲ませようとした毒を除いてくれた。誰の命でもなく、彼の意思で垂を救ったのだ。

 それももう一つの真実。垂を見つめる〝更〟の中に心の一片があったという真実だ。

 彼は〝形代〟で、人ですらないと倭文織は言ったが。そして垂もその言葉を信じてしまったが。

 だけどこうして向き合い、見つめる彼の松脂色の目には確かに感情が宿っていた。切なくなるほどの生への渇望。生きることを許してくれる誰かを求める気持ち。生身の人が抱く気持ち。

 垂になら分かってやれる。そう思った、しかし。

「国久流殿を選んだ、貴女が?」

 返ってきた〝更〟の言葉は、垂の身体に突き刺さった刀子と同じ鋭さ、そして嘲笑を帯びていた。

「ええ、そうよ」

 それが胸に刺さる痛みを受け止めて、垂は止める国久流に構わず一歩、また一歩と〝更〟に歩み寄る。

 もう自分の心を偽ることは出来なかった。偽ったがために何もかもを失いそうになっている。やっと手に入れた、国久流とともに過ごすこの先の時間すら。

 だからこれ以上は偽らないし隠さない。その上で、守れるものはこの身を賭して守る。

 一度でも垂の心と命を救ってくれた〝更〟のことも、守りたかった。千敷の策謀の浪間に消えようとしている彼の命を救ってやりたかった。

「国久流にあげるのと同じものをお前にやることは出来ないけれど、お前が自分の意思で歩けるようになるまで、一緒にいてあげるから」

 傲慢な言葉だとは分かっていた。それでも彼が頷くことを期待していた。頷くはずだとも思った。

 しかし、

 〝更〟は唐突に大刀を構えて岩を蹴った。折れた切っ先に朝日がちかりと反射する。

 鈍色に光る鉄刃は一瞬の迷いも見せず垂の頸を捉えようとた――ところが、

 見開いていた視界に赤い滴が散る。

 潮風に流れた温かい血が頬にかかる。

 垂の脇からのびた国久流の腕、その先に握られた大刀が、更の胸をその場に縫い止めていた。

「……さ、ら」

 己を貫いた衝撃に目を瞠った〝更〟は、垂の喉から漏れた声に我を取り戻した。そして、手にしていた大刀を再び振り上げる。

「……っ!」

 国久流に引き倒されてその刃から逃れた垂は、身体を跳ね起こして組み合う二人を見上げた。

 国久流の大刀がいっそう深く〝更〟の胸に沈む。なお〝更〟は国久流に刃を突き立てようと大刀を持つ右手を振り上げている。国久流はそれを左手で押さえ込み、〝更〟が力尽きるのを待っている。

 間近で睨み合う彼らの目は、さながら死闘を繰り広げる狼のようにぎらついていた。垂には入り込むことの出来ないせめぎ合い。じきに決着がつく戦い。

 やがて更の右腕がぶるぶる震えたかと思うと、握られていた大刀が甲高い音を立てて岩の上に転がり落ちた。

 続いてがっくりと更の膝が折れる。その重みに引きずられるようにして国久流も跪く。

 垂は折り重なる二人に這いずり寄った。そして、国久流の肩にもたれかかった更の顔を上げさせる。

「更、更……」

 垂が贈って、彼が棄てた名。けれど、垂の中で更は〝更〟でしかなかった。〝五百枝〟でも〝白御子〟でもなく。

 長い睫毛の生えそろった瞼は、重たげにうっすらと開く。涙をまとった松脂の色が覗いた。

「更、待って……お願い」

 白い頬を包み込み、垂はただ懇願するしかなかった。

 覗いたきれいな色の瞳が何も見ていなくても、もうどうしようもなくても。涙で詰まりかける声を必死に絞り出す。

 すると、けふ、と小さく咳き込んだ更の唇が動いた。松脂色の瞳も何かを求めてさまよった気がした。

 しかし、その目に垂の姿が映ることはなかった。

 青白い瞼がゆっくりと降りる。


 それと入れ違うように、北の方角から烽火(のろし)が上がった。

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