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第七章(二)

 話し終える頃には、垂はぐったりして国久流にもたれ掛かっていた。

 我ながら要領を得ない話だったと思えてくる。国久流に伝わったか分からない。また伝わったとしても、もうどうしようもなかった。

 垂は国久流にすがりついたまま、二人の間に転がっている翡翠と水晶の勾玉をぼんやりと眺めた。

 今にも割れそうな大きく深いひび。本当に、この勾玉は布瀬の水辺の姿を現しているらしい。垂と、水辺の武力である海辺の邑長たちの間に入った亀裂。

 天宮(あめのみや)の兵が攻めて来るというのに、今、そのことを知っているのはここにいる垂と国久流だけだった。潮が満ちたので岩屋の口は沈んでしまっている。夜が明けるまでここを出ることは出来ない。また夜が明けたところで、それから田津比古に知らせてなんになろう。

 こちらはなんの戦支度もしていないのだ。水辺の兵士たちが武装を整えている間に千敷はやってくる。

 今は長たちが垂の許へ集まっている時期であることも都合が悪かった。倭文織が天宮に通じていたことを思えば、この時を狙われたのは明らかだが。

 恐らく、長が不在の北の海岸はいくらも制圧されているだろう。夜が明けたら、千敷はきっとそこから攻めてくる。やっぱり何をしたって間に合わない。

 そして神器もこの有様だ。先日のように潮流を目覚めさせることも出来ない。

 全部、垂が夢を見たせいだ。

 寂しさに負けて、叶うはずのない夢を信じてしまったせいだ。

 族長になっても、欲しいものが手に入るわけではないとどこかで分かっていたのに。そして、きっと自分の一番の望みを裏切ることになると知っていたのに。

 天宮の舟が襲ってきたら、国久流も死ぬのだろうか。

 田津比古や、茜や、垂自身も。

 止まったと思った涙が再び溢れ、やわらかな朱色の灯火を滲ませて弾ける。垂の瞼からこぼれた滴はぽとりと国久流の肌に落ち、たくましい胸板を滑り落ちていく。

 でも、これでいいかとも思えてきた。

 何も言ってもらえなくてもいい。こうして最後に、静かな気持ちで国久流の鼓動を聞いていられるのだから。

 倭文織の言葉がすべて嘘でも。

 更の言葉がすべて嘘でも。

 垂は目を閉じ、薬のにおいがする国久流の胸に額をすり寄せる。

 するとそれまで黙って垂の肩を抱いていた彼は、ゆっくりと垂の身体を自分から離した。

 険しい顔をした国久流は無言で垂を見つめてくる。垂は責められているのだと思った。

「馬鹿な小娘だと思っている?」

「……違う」

 国久流はいっそう眉間のしわを深くして、垂の肩を掴む手に力を込める。そこに傷があることを忘れていたらしい。垂が身体をすくめたのに気づき、彼ははっとなって手を引いた。

 そして力なくうなだれる。

「……悪かった」

「大した痛みじゃないわ」

「傷の話じゃない。……お前があんな無茶を言いだしたのは、父上や、――俺のせいだ。それを謝りたかった」

 垂は、己の表情が削げ落ちていくのを感じた。

「無茶?」

「外つ国と血を交えたいと」

「やっぱり、お前たちは無茶だと言うのね」

「無茶だ。少なくともお前一人の意見で進めていいことではなかった。俺たち海の者は、神々を祀る族長そのものを神のように思っている。それは族長の力で俺たちが守られるからだ。お前は、俺たちがどれほど族長の力を恐れて崇めているか、ちゃんと分かっていなかった」

「……」

「だが、湖畔の長たちのことは別だ。連中は族長の祭祀を補佐する自分たちを海辺の長よりも上だと思っているが、俺たちはそうは思ってない。この食い違いはずっと昔からあるんだ。今すぐ埋められるものじゃない。そしてその均衡を保ってきたのが族長だった。海辺のことは海辺の民に任せることで、俺たちの矜持を満たしてくれていたんだ。お前はそれも分かっていなかった」

 腕に抱かれて愛しいと思っていた国久流が、急に憎たらしく思えてくる。

 でも、と。垂は自らも身を引きながら瞬いた。

「その通りよ」

 垂は無知で無邪気すぎた。だから倭文織の野心を見抜けなかった。彼女の思うまま更を手に入れようとした。

 国久流が言っていることは正しい。垂が何も知らなかったからいけない。

 やっぱり、水辺の歴史を終わらせようとしている垂は責められているのだ。彼女が裏切ったもの、捨てたものに。当然のことだけれど、だったらいっそ更に斬り殺されて悪い夢が終わってしまえばよかった。

 国久流はうなだれる垂の手を取った。そして冷たい石の床に無造作に置かれていた勾玉を握らせる。

 族長と、その跡目のみが見ることを許された神器。

 垂はのろのろと顔を上げ、勾玉と一緒に垂の手を包み込む国久流を見る。

「それを知らないお前を、父上や俺が支えねばならなかった。いや、もっと前から……お前を田勢比古(たせひこ)さまの許に送り出した時から、手を離さずに、ちゃんと支えてやらなくてはならなかったんだ」

「手を離した、覚えはあるのね」

 垂はこみ上げる胸の痛みと憤りを笑みに変える。そうすると余計に苦しくなった。けれどそうせずにはいられない。だって、垂の寂しさはそこから始まった。

 無知で無謀な夢を見たのは垂。だけど、垂を独りにしたのは国久流。

 垂の目にこもった恨みを見つけたのだろう。国久流は唇を引き結び、いっそう強く垂の手を握った。

「俺は傍にいたつもりだった。でも、それはお前のためになる距離ではなかった。俺が心地いいところにいただけだ」

 垂は胸の苦しみを少しでも紛らわそうと、勾玉を握っている手に力をこめる。

「田津比古殿が、わたしを嫁がせる前に言っていたのよ。わたしに田勢比古さまの跡を継がせてから、お前の妻にするって。あの時は田津比古殿が何を言っているのか分からなかった。でも待っていればいいんだということだけは分かったわ」

 迷いながらも、垂は一言ずつ絞り出すように言った。本当は知られたくない思いだった。

 こんなに幼くて無垢な期待。もう垂には抱けなくなってしまった期待だったから。清らかに、信じているだけではいられなくなっていたから。

「お前が迎えに来てくれるって、ずっとそう思っていたのに」

 国久流の目許がぐしゃりと歪む。かと思ったら、勢いよく引き寄せられ、さっきよりずっとずっと強い力で抱きすくめられた。

「行けるわけがない、行けるわけない。お前が嫁いだ相手は田勢比古さまだった」

 国久流にとっては神にも等しかった男だ。父の野心を貫き通すことさえ阻んだ男。

 本当は、ほかの誰にも垂に触れることを許したくなかったのに。

 身体が軋むほど強い腕の力から国久流のそんな葛藤が伝わってくる。

「だったら、どうして更を見つけた日に言ってくれなかったの。田勢比古さまがいなくなっても、お前は何も言ってくれなかった。わたしに〝嫌いだ〟って言わせたわ」

 よろこびと、怒りとが入り交じる。そして、もっと力のままに抱きしめられたいと思った。

 国久流の胸に身体をすり寄せる。そして彼を責める。

 放さないで欲しいと思った。でも国久流が傷つけばいいと思った。なんでもいいから、国久流が少しでも長く垂のことを考えていてくれればいいと思った。

「……俺が逃げただけだ。怖かった。独りで族長になろうとするほど強いお前が――お前にいらないと言われるのが嫌だったんだ。悪かった」

 しかし、そんな垂の望みも悪意もすべて包み込むように静かな声で呟き、彼は濡れた垂の髪に顔を埋めてくる。

 熱い息。肌も。

 垂は顔を上げた。国久流の言葉を受け取るために彼を見つめた。

「垂、これからはもっと近くにいる。族長のお前と、海辺の邑長達をちゃんと繋いでやる。お前の役に立つ男でいよう。だから、天宮の舟を追い払ったら、俺の妻になってくれ」

 歓喜よりも驚きが先に襲ってきて、垂は目を瞠る。涙の幕を張った国久流の目は真剣なので余計に信じられなかった。

 垂のすべてを受け入れるどころか、ないはずの未来まで約束する言葉。

「無理よ」

 垂は涙をこぼしながら首を振った。

「戦になるわ。勝てるわけない」

「なぜだ。ここは俺たちの海だぞ」

「――無理だわ。神器は割れているもの」

 兵備は不利。ならば神々の力で垂が水辺を守る。そう言いたいところだったが……。

 垂はそっと国久流の腕をほどいて胸元に抱いている勾玉を見おろした。

 現実はこうだ。せっかく欲しい言葉を手に入れられるのに、国久流の心が未来にあるなら垂は受け取れない。

 しかし、垂の身体をもう一度抱き寄せ国久流は言い切る。

「長達が手勢をつれてここへ集まっている。それに言っただろう。〝俺たちの海だ〟と。有利に戦える場所を知っているのはこちらだ。不利など充分に補える。お前の分まで、俺が水辺を守る」

 そして唐突に唇を覆われる。口づけは乱暴だった。これまで抑えてきたものをみな垂に届けようとする烈しさに、彼女の心は強ばりを捨てられた。

 国久流の背と首に腕を回し、垂は彼に身体を押しつける。

 そうして互いの熱を交わすような口づけを続ける。

 垂は自分の身体に血が通っていることを思い知った。国久流の身体にも同じ血が流れていると分かった。そんな血の巡りを感じられることが愛おしかった。

 布瀬の水辺。垂の国。垂が、国久流とともに育った国。

 力がなくても守りたいと思った。

 垂を守ろうとしてくれる国久流を、守りたいと思った。

 握った勾玉に垂の熱が移る。

 神々と繋がっている時は氷のように冷たい勾玉が熱い。やはりこれは力を失ってしまったのだろう。垂がこれを通して神々と繋がれることは、もうない。きっと。

 けれど、垂の手には自分の命が残っていた。

 国久流と唇を交わして、熱く脈打っている命が。

 いつか神に捧げられるはずだった命が。

 唇を離し、間近で見つめ合いながら、このわずかな距離すら惜しいと思う。互いにそんな溜め息を漏らし、今度は垂から国久流に口づけた。

「お前、具合が悪いんじゃないのか」

 短く押しつけた唇を離すと、国久流はそう言って眉間に皺を寄せた。

 背中を走る悪寒はもうずっと前から感じている。内側から鉦を鳴らしているように頭が痛かった。また熱を出しているのだろう。

 国久流はそんな垂の異様な体温に気づいたらしかった。

 しかし彼が離れる前にと、垂はすかさず国久流の唇を覆う。

 彼が垂を引き離そうとする腕の力が弱まるまで、垂はその唇を離さなかった。

 やがて諦めた国久流を見上げ、垂はうっとりと目を細めた。

「天宮の舟を追い払ったあとでは嫌よ。今すぐ――わたしをお前の妻にして」

 驚き、目を丸くしている国久流の顔はなんだか間抜けで、こんな時だというのに垂は妙な安堵を覚えた。

 でもそういうところが愛しかった。何気なく垂に隙を見せ、無防備に、素直に、自分の心を表情で語ってくれる国久流のことが。

 そしてはっきりと彼の想いを告げられた今では、そんな顔を見ても少しももどかしくなかった。

「ま、待て。だめだ。お前、熱が……」

 狼狽える国久流に構わず、垂ははらりと胸紐を解いた。

 そして国久流の肩に出来た傷の縁へ、傷を負わせた詫びと守ってくれたことへの礼を込めて口づける。そのまま引き締まった背に腕を回し、国久流の胸にぴったりと耳を寄せた。

 駆けるように早い鼓動。耳朶をたたく力強い音だった。ずっと聞いていたい。彼が生きていてくれなければ消えてしまう音だと思うと、垂の決意はますます固まる。

「〝舟を追い払ったあと〟なんて、わたしにはないわ。だから、今にして」

 この呟きは、くぐもった浪の音にでも消えてしまえばいいと思った。

 言わなければ、また彼を欺くことになる。けれど言ってしまえば、きっと止められる。そんな葛藤の上で呟いたから、国久流には聞こえないのが一番だった。

 けれどその願いは叶わなかった。彼は胸にしなだれかかる垂の身体を引き剥がし、凍りついた目で垂を凝視する。

「何をする気だ」

「……何も。わたし自身が勾玉の代わりとなるだけ」

 国久流は目を瞠ったまま、肌蹴た垂の胸元に抱かれる石に視線を落とした。

「最初に戻るだけよ。わたしはこの身を海神に捧げる。だからその前に……ね?」

「――っ馬鹿なことを言うな!! 俺が守ると言っただろう! お前が死んだらなんの意味もない、そんな――」

 必死な国久流の叫びにも垂はただ静かな微笑みを返した。その中に変えようのない彼女の意志を見て、国久流はぐっと息を呑む。

「国久流、わたしはわたしの国を守りたいわ。ここがすきだもの」

 垂は力を失った神器をそっと岩の上に置き、すべてを手放して腕を広げた。

 泣き出しそうな国久流の(くび)を抱いて胸に引き寄せ、わななく彼の額に口づける。

「お前のことだって――」

 国久流の額に唇を触れさせたまま囁いた。彼はびくりと肩を震わせる。

 そしてすぐに、そのたくましい腕で垂の身体を引き寄せた。見上げた先にいる垂と唇を重ね合わせ、重心を預ける彼女を黙って受け入れてくれる。

 横たわった冷たい岩の上を心地よく感じた。覆い被さってくる国久流の身体が熱くて、垂は背筋を這う悪寒もいつしか忘れてしまう。

「たる――、垂」

 耳許で名を呼ぶ声が、疲れ切っていた心をあたたかく満たしてくれる。

 国久流は垂の髪を掻き揚げ、目にいっぱいの涙を浮かべた彼女を見下ろして言った。

「死なせたりしない、絶対に」

 国久流の瞼にも溜まっていた涙が、大きな滴となって落ちてきた。

 頬ににじむその滴が愛おしくて、垂は頷きながら目を閉じた。

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