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第七章(一)

  海面に叩きつけられた衝撃と音。そして思っていたよりずっと冷たい水温に驚き、(たる)はすぐさま息を吐き出してしまった。

 浪も高く、泳げない垂はその勢いに転がされ岩礁に身体をぶつけたり深く海中に押し戻されたりした。

 国久流(くにくる)の腕からも離れてしまった。それでも勾玉は決して放すまいと左手を握りしめる。

 垂はこれを守らねばならない。そして、国久流は垂を守ると言ってくれた。だから、必ず垂を見つけて海の上へ引き上げてくれる。幼い日、海に落ちた時のように。

 苦しくて海水を飲んでも、岩礁にぶつかっても、垂は勾玉を捨てずにひたすら海面と国久流を探した。けれどすぐに気が遠くなってくる。

 それでももがき続ける彼女の襟をようやく何かが引っ張った。そして後ろから胴にも腕が回され、ぐいぐいと後ろへ引っ張られる。

 海面に顔を出した途端に息を吸おうとして浪を被り、また水を飲んでしまう。力強い腕に任せて浪の間を運ばれていくが、案外と楽に息が出来ないものだ。何度も海中に没している内に、垂はとうとう意識を手放した。

 しかしそれからほどなくして硬い岩の上に押し上げられたのが分かった。岬の足許に口を開けた岩屋へ泳ぎ着いたのだ。

「垂! しっかりしろ! 起きろ!」

 静かな浪音と国久流の怒鳴り声がぼんやりと聞こえるばかりで、垂ははじめ、息が詰まりかけていたことを忘れていた。が、自身も岸にあがってきた国久流に思いっきり頬をはたかれ、痛い、と思うと同時に目が覚めた。

 胃がひっくり返って出てくるのではないかというほど激しくえずき、飲んでしまった海水をみんな吐き出す。咳込みすぎて胸が痛かった。まだ息も苦しい。

 国久流は垂が水を吐くのを確かめると、まだ喘いで苦しんでいる彼女を乱暴に抱き上げる。そしてほとんど真っ暗な岩屋の奥へと歩いていく。

 中へ進むと、隧道よりうんと広い空間があった。辛うじてその果ての壁があるのは見える。

 国久流はその中ほどへ来て垂を横たえ、壁際に積まれたものを手で探り始める。

 重なっていた金属が崩れる音や、木箱ががらがらと転がる音がした。何が積まれているのかまでは分からなかったが、垂が朦朧としながら国久流の影を見つめている内に、彼の手許でぽっと火が灯った。

「ちゃんと生きているか、垂」

 手燭を持った国久流が垂の傍へ戻ってきた。小さな明かりがひどく眩しい。目を細める垂を見て国久流は安堵の溜め息をついた。

「……ここは、なに」

 手燭の火に、あたりがぼんやりと照らし出される。小さな呟きも大きく反響するその空間は、丸くくり抜かれた〝部屋〟だった。

 漁に出ていた舟が急な時化にあった時、近くの津まで戻れない場合に逃げ込む岩屋。岩礁が多い海岸には必ずこうした岩屋が設けられている。それは垂も知っていたが。

 朱色の光に照らし出されるその部屋の壁際には、大量の鉄剣や槍、弓矢、(よろい)などが積み上げられている。穀物が入っているとおぼしき麻袋や、大きな酒の瓶も並んでいた。漁師が避難する岩屋にしてはたいそうな準備だ。

「お互い、媛ヶ崎の中に隠しものをしていたということだな」

「あれは、津守の一族がくすねていた品々ということ?」

 国久流は苦笑した。肯定の笑みだ。垂は呆れて溜め息もつけなかった。

 国久流が知っているということは、これは田津比古の指示で隠されたものだろう。武器に兵糧、まるで戦の備えである。

「湖畔の連中はこんな岩屋に近づかないからな。それに、満潮になるとこの岩屋の出入り口は海に沈むんだ。潮水が近くにあってもこの中で浪飛沫が立つこともないから、ああいうものを置いてあっても案外と傷まない。いい〝倉〟だろう」

「何が、いい倉よ。ここだけじゃないわね。ほかの岩屋もみんなそうなんでしょう。田津比古殿がこんなみみっちい蓄えで満足するはずがないもの」

「さあ、どうだかな」

「いつかぜんぶ検めてやるわ」

 はは、と乾いた声で笑う国久流につられ、垂の頬も思わずゆるむ。細々としゃべっている内に呼吸もだいぶ落ち着いた。

 そして思い出した。握りしめていた勾玉のことを。

 垂は横たわったまま、国久流が持つ火にそっと神器をかざした。そして、勾玉に入った大きなひびに気がついた。

 身体を怖気が駆け抜ける。神器にひびが。紐が切れ、岩の上へ落ちた時にこうなったのだろうか。

「大丈夫か」

 気遣わしげな国久流の声に、垂は力なく首を振って目をつむる。今にも二つに割れてしまいそうな神器はそっと胸に抱いた。

「もう、水辺はおしまいだわ。わたしのせいで」

 倭文織に殴られた頬がひりひりと痛んだ。更に締められた喉には痣が出来た。垂を支えてくれると思ったあの二人が何もかもをぶち壊すとは知らずに、垂は彼らに身を任せすぎた。

 血で穢された社、ひびの入った神器。千敷(ちしき)率いる天宮の兵が水辺へ向かっているという。垂には守ることが出来ない。神々と繋がる道具がもうないのだ。

 呟いたきり抜け殻のように黙る垂を、国久流はどう見ているのだろう。

「……お前こそ、大丈夫なの。二野(ふたの)の使者を送っていったはずなのに」

竹代(たかしろ)殿とはきちんと話してきた。俺が戻ることは了承してくれている」

「なぜ、戻ってきたの?」

 国久流が戻らねば、垂はあのまま更に斬り殺されていただろう。けれどいるはずのない国久流が現れたおかげで、垂は助かった。

 それがよいのか悪いかも、最早分からないけれど。

「お前と話がしたかった」

 話。垂は唇だけでその言葉を繰り返す。

 国久流はぐったりした垂を静かに見下ろしてくるだけで、その〝話〟とやらを始める気配はない。やがて彼は唇を引き結び、垂からついと目を逸らした。

「……薬がある。手当をしよう」

 そして立ち上がり、再び壁際に積まれた木箱や麻袋の方へと去ってしまった。

 垂はそんな国久流の背中を、やるせない思いで見つめる。



「……ぅ」

 浪に翻弄され岩にぶつかったおかげで、垂の肩や背中にはいくつも擦り傷が出来ていた。国久流は薬草と油を練った傷薬を手に取り、上衣を脱いだ垂の傷口にそれをすり込んでくる。やさしく労る手つきだったが、痛いものは痛い。

「……すまん」

 垂が呻く度に彼は謝ってきた。飛び降りたあと、身体が離れてしまったことを気にしているらしかった。

「平気よ」

 薬をつけ終わると、国久流は濡れた上衣を羽織ろうとしていた垂の背中に乾いた衣を被せる。

「女の衣はないが……。濡れたものを着るのはやめておけ。夜はまだ冷えるぞ」

「――ありがとう」

 すでに凍えそうなほどの寒気を感じていた垂はありがたくその衣に袖を通した。男の衣は大きく、垂の膝上まで裾の長さがあったので、帯も借りて締め、濡れた裳は脱いだ。脚が露わになるのは心許ないけれど、濡れた布が張り付いて体温を奪われていくよりずっとましだった。

 国久流がむき出しの垂の脚からさっと顔を背ける。それに気づいた垂はくすりと笑い、血で真っ赤に染まった国久流の右腕に向き直った。

「お前の方がひどい怪我じゃない」

「そんなに深くない。革籠手が斬られただけだ」

 とはいえ、籠手を外させる時、国久流は思い切り顔をしかめた。しかし、薬を傷に塗る間は声一つ漏らさずに耐えたのはさすがだなと思う。新しい衣を裂いて巻き、頬や、上衣を脱がせて肩の傷にも薬をつけた。

 国久流の首筋についた傷に薬を塗るとき、垂は不意に喉をひと薙ぎで斬られた巫女の死に顔を思い出した。

 更は、本気で国久流を殺すつもりだったのだ。そして垂を。

「大した傷じゃない。大丈夫だ、垂」

 垂の顔に浮かぶ恐怖に気づいた国久流は、薬壷を持ったまま細かく震える彼女の手を握った。

 その途端、垂の中で麻痺していた何かが解けた。

 喉の奥につかえていた塊がこぼれ出て嗚咽に変わる。

 ぼろぼろと涙が溢れてくる。悲しさを堪えていられなくなる。

 幼子のようにしゃくりあげ始めた垂を、国久流は遠慮がちに抱き寄せた。

 垂が津守の館へ来たばかりの頃。垂を置いて国久流が遊びに行くと、彼女はこうして声をあげて泣いた。国久流が帰ってくるまで泣き続けて、抱きしめて慰められるまでずっと泣いていた。

 あの時も国久流は、大事な宝物を抱える、少しの恐れと労りが混じった遠慮がちな腕の強さで包み込んでくれた。

「何があったんだ、なぜ、更や、倭文織殿が……」

 先を濁した国久流の胸に顔を埋め、垂は隧道の中で見た悪夢のような光景を吐き出すように語った。

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