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第六章(四)

「更」

 その名は自然と唇からこぼれ出た。

 祭壇の前に佇んでいた人影はゆっくりと振り返り、垂を見つめ返すことで呼び声に応えた。

 彼の衣は真っ赤に染まっていた。淡い茶色の髪も、白い頬も、祭壇から掴み取った神器を握るその手も。反対の手にはぬめった輝きをまとう大刀があり、その切っ先からぽとりと黒い滴がしたたる。

「何を、しているの」

 明るい松脂色の目が細められる。彼は笑った。それが分かった途端、垂の背筋を痺れるような悪寒が駆け上がった。

「それは、この水辺の神々を祀るための神器よ。血のついた手で触らないで。……返して」

 こんな言葉じゃどうにもならない。垂にはそれが分かったが、ほかにどうすることも出来なかった。大刀をぶらさげた更に向かってゆっくりと手を差し出す。けれど更は微笑んだまま微動だにしない。

「垂媛ではなくわたくしに渡すのじゃ、白御子(しろみこ)

 その時、垂の背後から凛とした女の声が響いた。薄暗い隧道を振り返れば、巫女服をまとった倭文織が傲岸な笑みを浮かべながら歩いてくる。

「神器は社に隠されているのであろうと思っていたが、なるほどこのような隧道の先にもう一つ祭壇があったとは。確かに族長しか知り得ぬ場所じゃ。よう暴いたの、それだけは褒めてくれよう」

 まるで臣下に語りかけるような口調。呆然とする垂を無視し、倭文織が見ているのは更だった。彼女はゆっくりと歩いてきて垂の隣に並び、そして突如、垂の肩を突き飛ばした。

 ふらつく足でようやく立っていた垂は岩に叩きつけられ、背中を強かに打ちつける。咳込む彼女に倭文織は歩み寄り、かがみ込んで、その鼻先でふんと笑った。

「おかしいの。もう目覚めぬようにとよい()を飲ませてやったのに、効かなかったかえ?」

「なん、ですって……」

 垂が眉間に皺を寄せても、倭文織は楽しげな笑みを崩さない。

「そなたじゃな白御子。薬をすり替えたか、入れなかったのであろう。使えぬ形代め。やはり垂媛に情が移ったな。そなたに意思などいらぬ! 千敷さまのご命に従うだけがそなたの価値じゃ。勝手な真似をするでない」

 そして立ち上がった彼女は、垂が聞いたこともないどすのきいた声でそう吐き捨てた。彼女の視線の先にいるのは、やはり更だ。

「何を言っているの……倭文織、これはどういうことなの。白御子とは何? どうして更をそんなふうに呼ぶの」

 倭文織はじろりと目玉だけを動かし、へたりこんだままの垂を見下ろした。赤い唇がにたりと歪む。この時を待っていたとでもいうように。

「おお、垂媛さま。お可哀想に。貴女さまが愛しく思われた殿御は、確かに天宮の千敷さまの異母弟(おとうと)五百枝(いおえ)殿。されどこの者はただの巫子(みこ)ではございませぬ。これは、あらゆる穢れを受けても呑み込み消してしまう、百舌鳥(もず)媛の影。穢れを移すための卑しい形代。そして時には千敷さまの命で自ら人を手にかける。それでも穢れを負わぬこの者は人ですらない。貴女さまはそんな卑しい人形(ひとかた)に、水辺の神器を売り渡したのですよ」

 垂を励ましてきた、母のような、姉のようなその口調。しかし、語られた言葉は錆びた刀のように鈍い切れ味で垂の胸を斬りつけていった。

 目を見開く彼女の様子に堪えきれなくなって、倭文織は愛らしい声を震わせて高らかに笑った。

「形代と生け贄のなり損ないが互いにすり寄るさまは、なんと哀れでうつくしいのでしょうねえ。身を捧げるほかになんの価値もない二人がそろったところで水辺を治められるはずがございませぬ。神器はわたくしが貰い受けましょう。そして贄にもなれぬ垂媛さまの代わりに、この布瀬の水辺の新たな族長となって差し上げます。千敷さまの妻として」

 唄うような倭文織の言葉。垂の中で何かがふつりと音を立てて切れた。

 形代、生け贄のなり損ない。千敷の妻として。次々に刺さってくる倭文織の言葉になす術なくさらされ、垂の心は一瞬にして血だらけになる。

 息を吸っても空気が肺腑へ入ってこない。ひゅうひゅうとおかしな音が喉の奥で響くだけで。

 それでもどうにか声を絞り出し、垂は力なく呟いた。

「――倭文織。お前、天宮と、通じていたの……?」

「通じていたとはあまりなお言葉。天宮は我らの友ではございませぬか。ですから、千敷さまとは親しくお(ふみ)を交わしておりました。貴女さまが田勢比古さまに嫁ぐずっと前から、いずれはわたくしが族長の跡を継ぎ、千敷さまには妻としてこの水辺を差し上げるというお約束で……。ところがどうです。田勢比古さまの妻の座には、このわたくしをさしおいて十二の小娘が収まってしまった」

 その時、初めて倭文織は激しい憎悪のこもった目で垂を見据えた。

「津守の田津比古が、わたくしの野心に横槍を入れたのじゃ。山津神の娘だとかいう、どこの馬の骨とも知れぬ小娘を田勢比古さまに差し出して。憎たらしい。おかげでわたくしは、その小娘に八年も仕えることになった! ……わたくしが欲しいのは、このようなものではない!」

 倭文織は叫び、邑長(むらおさ)の証である首飾りを外して垂の顔に投げつけた。

「しかし、その小娘が津守の一族に育てられたというのは僥倖でもあった。わたくしの手を汚さず田勢比古さまを弑し、津守の一族の力を削ぐには最上の駒じゃ。そして哀れなその小娘はわたくしの教えるとおりに夢を見ていった。時はかかったが容易いものじゃ。自ら族長を殺し、田津比古を裏切った。最後にはすべてを被って死んでくれるのなら、この八年のそなたの不遜な振る舞いにも目をつむってやろうぞ」

 そうして再び哄笑する女を見上げ、垂はわなわなと唇を震わせる。

 投げつけられた翡翠と金の首飾りが裳裾の上に落ちている。それをぐしゃりと掴み、一緒に投げつけられた言葉を垂は必死で否定しようとした。

 けれど脳裏によみがえる倭文織の言動の何もかもが、そうはさせてくれなかった。

 族長の血筋を外へと開き、新たな水を呼び込もうと言った倭文織。そのためには古き因習を守る田勢比古という族長が死に、垂が新たな族長にならねばならないと言った倭文織。

 国久流から引き離され、田津比古にも使い捨てられ、寂しさで潰れてしまいそうになっていた垂の中に吹き込まれた望みの言葉。

 あれらはすべて、倭文織の野心だったのだ。

 熱くて力が入らない身体に別の炎が灯った。垂はよろよろと起き上がり、視界が歪むのを堪えて倭文織に掴みかかる。

「わたしを騙していたの……!? 田勢比古さまを殺せと言ったのも、外つ国の男を夫にしろと言ったのも、」

 己が死穢を被ることなく族長を排し、垂と田津比古を対立させ、更を受け入れさせて、族長とその跡目だけが知る神器の在処を暴いた。

「みんな、お前が族長の座に収まるためだったの……!?」

 叫ぶ垂の頬を倭文織の手が打つ。容赦なく襲ってきた平手に垂は再び倒れ伏し、けれど今度は起きあがれなかった。

「その通りじゃ。明日にも千敷さまの兵がこの水辺に押し寄せようぞ。その時そなたはわたくしに神器を託し、急の病で死んだことになっておろう。そしてわたくしは垂媛にあとを任された者として千敷さまをお迎えし、臣従を誓って水辺の族長となる」

 視界が歪む。手足が岩に沈みそうなほど重い。怒りと悔しさで脳が溶けそうだった。なのに立ち上がれない。何も言えない。

「白御子、早う神器を渡すのじゃ。そして垂媛を殺せ。さすれば先ほど毒を抜いたことも、(まじな)いに失敗したことも、千敷さまには言わぬ。もっとも、それしきのしくじりを隠したところで、千敷さまはそなたが天宮へ戻ることをお許しにならぬであろうがな」

 無情な言葉は続いた。垂は視界が真っ暗になりそうなのを堪えて顔を上げる。

 夕暮れの海と祭壇を背に佇む更の顔はもう見えない。けれど彼がじっとこちらを見下ろしているのは分かった。

 ――呪い。

 そうだ。更なら、意図して他者の魂に触れられる。夢の深淵に引きずり込み、(なが)の眠りを与えることも出来る。

 あの夢は……夢の中で垂の手を掴んでいたのは更なのだ。

 天宮の族長の弟。垂の夢を叶え、寂しさを癒す者ではなく、己の意思を持たない形代。人を愛しく思うこともない人形。

 じゃあ、

 口づけも、あの夜も偽りなのか。

 記憶がないことも、垂の傍にいると言ったのも。

 更は無言のまま、ゆらりと揺れて足を踏み出した。まるで操られるようにぎこちない足取りで、垂と倭文織のもとへ歩いてくる。

 海に残る残照が血に染まった刃を輝かせた。ぬめったおぞましい光。

「そうじゃ、早う」

 すべらかな指を更に向けてのばす倭文織の表情は恍惚としている。彼女の目には、神器を得て族長となった己の姿が映っているようだった。

 更は血濡れた手に乗せた勾玉を、ゆっくりと差し出す。指の間からもぽたりと血が落ちる。

 倭文織は狂喜の笑みを浮かべてそれを受け取ろうとし――

 ズッ と、

 鈍い衣擦れの音が響いたきり、彼女は大きく目を見開いた。

「し、ろ、み――」

 言いさした倭文織の口から、激しい水音をたてて血が噴き出した。飛沫は彼女に抱きつくようにして大刀を突き刺した更の肩を汚し、髪を汚し、背中の衣にさらなる赤を滲ませる。

 更は音もなく、一歩引き下がる。垂からは、更の背中に爪を立てながらくずおれてゆく倭文織の白い腕だけが見えた。

 どさりと重い音を立てて横たわった彼女の胸の真ん中には、泉から湧く水のように血が染み渡る。ひくひくと小さな痙攣を起こしていたその身体はやがて動かなくなり、ぞっとするような沈黙が隧道に満ちた。

「……更、……どうして」

 やがて完全に日が落ちる。隧道の中は闇に沈もうとしていた。

 新たな血を浴びた更の衣は、最早真っ黒に見えた。

 闇の中に、血に染まった彼の白い顔だけが浮かんでいた。

 垂の呟きに、更はゆっくりと瞬いてから答える。

「私は、力の衰えた姉上のために、これをとってこいと兄上から命じられ、ここへ来ました」

 血にまみれてさえいなければ、それはいつもの何気ない会話のようだった。

「百舌鳥媛の力が……?」

 天宮で祭祀の頂点に立つ、千敷の異母妹にして、更――五百枝の姉。海を守る巫女である彼女は千敷の妻でもある。ついこの間までの垂と同じ地位に座する彼女の名は、有磯の海にも鳴り響いていた。

 その彼女の霊力に翳りが……? 初めて聞いた話だった。しかし、千敷がそれについて何らかの策を講じようとするということは、その翳りはすでに百舌鳥媛の霊力を覆い尽くそうとしているのだろう。

 更は赤く染まった勾玉を見下ろし、平生と変わらぬ声音で続けた。

「兄上は、姉上の力が衰えたのは、私に姉上の穢れを引き受ける力がなくなったからだとお考えなのです。それゆえ私のことはもういらぬから、命と引き替えに布瀬の水辺の神器を持てとおっしゃった。私がこれを素直に持ち帰れば、私はその場で兄上に殺されるでしょう」

 せせらぎのように淀みなく、抑揚もなく、更は淡々と呟く。垂に向かって語りかけているのか分からないほど静かに、他人事のように呟く声は耳に痛かった。

「しかし、これがなければ姉上はいずれ力を失います。倭文織も死んだ。その時兄上をお支え出来るのは私だけになる。これで、殺されずに済む」

 ああ、やっぱり更も生け贄なのだ。垂はそう思った。

 他者の犠牲になることだけが生きる価値。誰かのために死なねばならない運命。

 更もそこから抜け出したいのだ。垂が倭文織の甘言に夢を見たように、更も自分の意思で歩けるようになりたいのだ。

 だけど、そのために〝布瀬の水辺〟を譲ってやることは出来なかった。

 どんないきさつがあれ、ここはもう垂の国なのだから。

「神器を返して、更。それはこの地の神々を祀るためのものよ。千敷殿の思うような力はないし、百舌鳥媛の力が失われるのを待ちたいだけなら、必要ないものでしょう」

 垂は壁に手をつきながら立ち上がる。更はそんな彼女を冷たく見つめ返してくる。

 明るい松脂色の目に闇が凝る。日が沈んだ。海にも青い闇が満ちる。

 更は答えず、代わりに垂が与えた琥珀の御統(みすまる)を外した。

「垂媛さまには、私に相応しい名をつけていただきました。しかし、それはお返しします、神器の代わりに」

 そう言って、彼は御統を放り投げる。あ、と声を上げ、垂がそれを目で追った次の瞬間。

 ひゅん、と風を切った細いものが垂の首に巻き付いた。それはたちまち喉を締めつけ、垂の気道を潰す。

「っぐ……! さ……ぁ」

 背後に更の体温を感じた。吐き気がするほどの血のにおいとともに。

 垂は首に巻き付いた紐を引き剥がそうと必死で爪を立てる。しかし足先が浮き上がりそうなほどの力で引っ張られる紐は肌に食い込み、垂の爪は己の皮膚をひっかくだけだ。

「や、あ……」

 垂が暴れても更の力はまったくゆるまなかった。

 海と同じ闇に視界が沈む。もう腕を上げている力もない。

 しかし、垂の指が喉元を離れた瞬間、ぶつん! と大きな音を立てて紐が切れた。

 思いもかけず解放されて、倒れ込む垂。更もよろけて数歩後退った。そして隧道には硬い石の転がる音が響きわたる。

 垂ははっとして顔を上げた。薄闇の中にきらりと光りながら転がっていくものが見えた。

 大きな勾玉――神器だ。

 垂の首を絞めていたのは勾玉に結びつられていた絹紐だったのだ。年月を経て傷んでいたそれは更の力に耐えきれず千切れたらしい。

 垂は力を振り絞り転がる勾玉に飛びついた。夢中で掴んだ勾玉を胸に抱き、垂は大きく咳込む。咳込みながらも自分に躍り掛かる気配を感じて顔を上げると、大刀を大きく振りかぶる更の陰が視界を覆う。

「――!」

 刃に裂かれる覚悟をして目を瞑る。

 しかし、直後に響いたのは金属がぶつかりあう耳障りな悲鳴。垂を襲う衝撃はない。

 恐る恐る目を開くと、目の前には交差した刃があった。

 一方は更が振り下ろした赤い大刀で、もう一方は、鈍い銀色に光る国久流の大刀だった。

「なんのつもりだ、更!」

 彼が怒鳴った途端、競り合っていた大刀は互いを弾いて離れた。

 咳込んで喘ぐ垂を背に庇い、国久流は更の足許でこときれている倭文織を見る。そして、粘土の面のような無表情で大刀を構えた更を睨みつけた。

「社の巫女たちや兵を殺したのも、お前か」

 血塗れのその姿を見れば、答えを待つまでもなかった。国久流はそれ以上問わない。そのかわりに、彼の身体から刃の色の熱い光がじわりとにじみ出た。

「くに、くる」

 垂は朦朧としながら呼びかける。あたりには白く光る靄が見える。勝手に身体を抜け出そうとする魂をどうにか押し留め、彼女は幼馴染みの脚にすがりついた。

「立てるか」

 国久流は更から目を離すことなく、左腕で軽々と垂を抱き起こした。

「垂媛さま」

 その腕の力強さにほっとしたのも束の間。今までの冷たさを忘れさせるようなやわらかい声で、更が言う。

「神器をいただけないのですか。私を、垂媛さまの夫にしてくださるのでしょう」

 垂の身体がびくりと強ばった。吸い寄せられるように松脂の色の瞳を見つめ返す。返り血で汚れた頬も気にならないほど、そこにあるのは()()()の無垢な目だった。

「ふざけるな! お前は何者だ? やはり天宮の間諜か」

 更と過ごした日々に戻りかけた感情を、国久流の鋭い声が引き止めてくれた。しかし目の前に広がる信じられない光景が現実として胸に刺さり、立っていられなくなりそうな痛みに変わる。

「垂……」

 よろけた垂に国久流が気を取られた瞬間。

 更が動いた。

 横薙ぎに空を裂いた血刀が国久流の大刀を弾き、出来た隙をすかさず次の斬撃が襲う。

 国久流は垂を抱えながら後退り更の大刀を受け流す。その後も二手、三手と続いた斬撃のいくつかは国久流の肌を裂き、新たな血の滴が更の大刀の先から飛び散るのが見えた。

 垂は恐ろしくなって目を瞑り、国久流に引きずられるまま後退る。

 その内二人を黒岩の祭壇まで追いつめた更は、刃がぼろぼろになった赤い大刀を見て溜め息をついた。

「さすがは津守の若君、よい大刀をお使いです」

 国久流は答えず、更へ大刀の切っ先を向けたままだった。彼にしがみついていた垂は目を瞠る。

 国久流の右腕は革籠手が裂け血が出ていて、横顔や肩にも斬り傷が出来ていた。垂には傷一つついていないのに。

「国久流……」

 垂は胸に抱いていた勾玉をきつく握りしめる。

「馬鹿なことを考えるなよ、垂」

 国久流の平坦な声が降ってくる。垂はぎくりとした。

「だけど……」

 ゆっくりと息を整える国久流は冷静だった。そしてやはり更を睨み彼を牽制したまま、垂の肩を抱く手に力を込める。

「渡すな。それは、水辺の族長であるお前が守らなくてはいけないものだ」

 分かっている。だけど。

 垂はぐしゃりと顔を歪めた。国久流の頬を伝う赤黒い血を見ると、これを放り投げたくてたまらなくなった。

 こんなものはただの石だ。更に渡したってまた取り返せるかも知れないではないか。

 だけど国久流の身体はそうはいかない。もしここで更に斬り殺されたら。

「神器を守るのがお前の役目なら、族長を守るのが津守の一族の――俺の役目だ」

 力強い断言に、凍えて膝をつきそうになっていた垂の心が揺れた。

 国久流がちらりと垂を見る。ぶつかった視線はすぐに逸らされたが、出会った一瞬で彼の意思が伝わってきた。

 潮騒が聞こえる。

 遠く断崖の下から。

 垂は勾玉を握った左手にいっそう力を込め、右腕は、しっかりと国久流の背に回して上衣を握りしめた。

 合図はない。

 大刀を構えて踏み込んできた更の一撃を国久流が弾く。その時、更が手にしていた大刀は半ばで真っ二つに折れた。回転して飛んでゆく刃に更の気がそれた瞬間、

 垂と国久流は踵を返した。

 祭壇の脇をすり抜け、二人は昼の残光と夜が溶け合った紫色の海へ向かって飛んだ。


 


 更は折れた大刀を捨て、祭壇の背後にある断崖をのぞき込んだ。

 海はすでに闇色に染まり、ごろごろと転がる巨岩の間で激しい飛沫を立てている。

 二人が岩礁に叩きつけられた様子はない。うまく海の中へ落ちたようだ。

 血がしみこんだ髪をしばらく海風になぶらせていた更だったが、やがてその断崖から身を引いた。

 神殿の外で騒ぐ大勢の声が聞こえてきたからだ。異変に気づかれたらしい。

 二人を捜す前に、どこかに身を潜めて騒ぎのほとぼりが冷めるのを待つのがよかろう。

 その内、兄の軍がやってくる。

 垂が持ち去った神器はそれまでに取り返せばいい。

 まるで足許が見えているかのように真っ暗な隧道をすたすたと戻り、更は田津比古の兵が押し寄せる前に神殿を抜け出した。鬱蒼と茂る榊の合間を縫って岬を降り、途中で最初に殺して茂みに隠した兵の腰から新たな大刀を奪い取る。

 そして彼は、夕闇に紛れて姿を消した。

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