表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/31

第一章(二)

 海から引き上げられた男は、海辺の宗主・田津比古の館へ運ばれた。

 途中でその顔をちらりと見たところ、彼は垂や国久流とそう歳の変わらない若者のようだった。冷たい海に浸かっていたせいか、海辺の男達が日に焼けて真っ黒だからなのか、若者の肌の青白さは異様に見えた。

 容態が気になるところだが垂には垂の用事があったので、田津比古の館まで迎えに来た侍婢(まかたち)とともに亡き夫の別邸へと戻る。

「垂媛さま、いったいどちらにいらっしゃったのですか」

「久しぶりに海を見てくると茜に伝えてあったのだけれど」

「まあ。茜! まったくお前は、垂媛さまのお言葉に返事をするだけでは意味がないのだぞ! せめてお供をせぬか!」

 古株の侍婢に怒鳴られ、垂の足を拭いていた少女が縮こまった。まだ十二、三の子供だ。

 この娘は国久流の従妹にあたり、垂に仕え始めてそろそろ一年が経つ。けれど要領がよいとはいえず、年嵩の侍婢らにはいつも叱られていた。

 歳のいった侍婢が茜にきつく当たるのはこの娘が少々鈍いからだけではなく、海辺の一族の出でありながら垂に仕えているせいだろう。しかし、叱られてもすぐにけろりとしてくるくる働くので、垂は茜のことが嫌いではなかった。

「いいのよ、一人で行きたいとわたしが言ったの。それよりも支度をしましょう。もう、男達が集まってくる頃だわ」

 さりげなく茜から注意を逸らしてやり、垂は母屋へ上がって新しい衣裳に着替えた。

 緑の(すそ)()の裳に、薄緋の雲を入れた白い上衣。雲と同じ色の肩巾、姫川で採れる艶やかな翡翠の首飾り。金の耳飾りはもっと大きなものにつけ替えたが、挿頭は垂の好きな桜のままにする。

 唇に紅を乗せ直し、垂は鏡に映る己の姿を見てにやりと笑った。

 大丈夫、毅然とした族長に見える。

 若く、瑞々しく、妖しい笑みを湛える垂の姿に男達は生唾を飲むだろう。この姿も間違いなく垂の武器だ。

 館の正殿に集まった男達――海辺の邑長達は、艶やかに着飾った垂が現れるや感嘆の溜息をついた。

 正殿の中でも一段床を持ち上げてある族長の席に悠然と腰を下ろし、垂はしっとりと艶のある視線で彼らの額を見渡す。

「田勢比古さま亡きあと、皆わたくしに代わりよく布瀬の水辺を治めてくれました。礼を言います。特に商いのことは、田津比古殿、そなたが取り仕切ってくれたと聞く。しかしこれからは、田勢比古さまの跡を継いだ者として、わたくしも韓や諸国との取引について学ばねばなりません。そなたや国久流殿が教えてくださると期待しておりますよ」

 平伏していた男達の内、垂に最も近く、正面に座していた男が顔を上げた。

 日に焼け赤黒くてかてかした肌に、濃くつり上がった眉、その奥に強く輝く鋭い目。

 壮年のこの男こそ、垂の夫・田勢比古と義兄弟の契りを結び、海辺の民をまとめ上げてきた津守(つもり)の一族の長・田津比古だった。

 国久流も歳をとったらこんな厳つい顔になるのかなと、垂は頭の隅で考える。すると思わず吹き出しそうになって、慌てて唇を引き結びきゅっと口角を上げた。

「垂媛さまにおかれましては、殯のお勤めをつつがなく終えられ、我ら一同安堵しております。偉大な族長・田勢比古さまを喪ったことは我らにとっても心細いことにございますが、この後は垂媛さまの御許で湖畔と海辺の民が力を合わせ、栄えある布瀬の水辺の名をいっそう強堅なものにしてゆく所存にございます」

 力強く言い切った田津比古は額を押し出すように軽く頭をたれながらも、上目遣いに垂を睨んでくる。

 国久流が言っていた通りだ。田津比古は垂を疑っている。田勢比古の死に、垂が関わっているのではないかと。

 しかし彼とて、いずれは田勢比古に叛旗を翻すつもりだったのだろうに。

「そなたは誰より田勢比古さまのお考えを理解していたでしょう。海辺のことは、しばらくそなたに全権を委ねようと思います。漁のこと、海にまつわる祭祀のことはそなたを中心に決めなさい。けれど商いのことは、湖畔に並ぶ御倉のことと関わるゆえ、最終的な決定はわたくしが下します」

「はは。されど、おそれながら垂媛さまは、」

「分かっているわ。わたくしには商いの知識などないから、何も決められないと言うのでしょう? けれど布瀬の水辺の族長はわたくしです。今は幼子のように無知でも、いずれは皆を導いていけるようにならなくてはなりません。学ぶためには場数を踏む方がいいと思うの。先ほども言った通りそなたや国久流殿がわたくしの横にいて、なんでも教えてくれればよいのですよ」

 反論しようとしていた田津比古は、む、と唸って口を閉じる。

 垂が無知なのは事実であり、素直に田津比古の方針に染まってやろうと言っているのだから悪い気はしまい。

「なるほど。垂媛さまが族長たらんとなさるならば、それをお(たす)けするのが我らの役目。ところで今ひとつ、族長としてご決断いただきたいことがございます」

「何かしら?」

「殯を終えられたばかりの垂媛さまのお心を慮ると大変心苦しいのですが、火急の用件でもございますれば……」

 口籠もる振りをしながら、田津比古は垂に先を促されることを期待しているようだった。

「そなたが言わんとしていることは、なんとなく予想がつきます」

 だから垂は、あえて田津比古より先にその言葉を口にした。

「次の夫を定めよと言うのでしょう。わたくしと田勢比古さまの間には子が出来なかった。ゆえにわたくしが田勢比古さまの跡を継いだわ。けれどこの先がないのですものね?」

「おおせの通り」

「分かっているわ。布瀬の水辺の祭祀を司ることが出来るのは湖畔の長のみ。わたくしに子が出来ないままでは水神と海神をお祀りする術が絶えてしまう……。そなたの抱く危惧は、皆にも共通することでしょう」

「お分かりいただいているのであれば結構でございます。それについて、我々海辺の長一同から申し上げたきことが」

 これも、田津比古の言わんとしていることが垂には分かった。

 顔を伏せる彼の隣に国久流がいる。彼の方へちらりと視線を向ければ、若者はわずかに眉を顰めて垂から目を逸らした。照れ隠しだ。

「垂媛さまの次の夫には、津守の跡継ぎでもある我が愚息、国久流を推したいと思うておりまする。これは韓の言葉や風習にも明るく、商いの経験もおおきに積んでおります。必ずや垂媛さまのお役に立つでしょう」

「国久流殿を……」

 意外なことだったとでもいうように、垂は溜息とともに呟いた。一様に頭をたれていた男達がその溜息を聞き、ちらほらと顔を上げて彼女の反応を窺い始める。

 夫を亡くし、子もなく、後ろ盾のない垂。夫と田津比古は義兄弟の契りを交わしていたが、その縁は垂に受け継がれるものではなかった。ゆえに海辺の長達を支配するには津守の一族――田津比古と新たに縁を結び、彼を後見とする必要があった。誰も垂が拒むとは思っていまい。

 しかし、

「少し、考えさせて欲しいわ」

 彼女が放った一言に、男達は騒然となる。

「垂媛さま、我は火急の用件であると申し上げました。垂媛さまも跡を継ぐお子がいらっしゃらぬ現状を、危ういものと分かっておいでではありませんか!」

 田津比古は(まなじり)を決して身を乗り出した。唾を飛ばして叫ぶ彼の隣では国久流が大きく目を瞠っており、二人の驚きように垂は思わず吹き出しそうになった。

 垂はそれを誤魔化すために美しい絹の袖で口許を隠し、目尻に涙を溜めて睫毛を伏せる。

「ええ。けれど、まだ田勢比古さまの()(たま)を送ったばかり。それもわたくしの霊力が足りなかったばかりに、田勢比古さまの病を治すことも、御霊を呼び戻すことも叶いませんでした。申し訳なくて、とても新しい夫を迎えることなど考えられないのです」

 正殿の片隅からは、「それもそうか」「なんと慎ましい」などと呟く声が聞こえてきた。それを合図に、幾人かの男達が垂の主張を容認するような言葉を交わしている。

 垂の正面で怒りに震えていた田津比古は声の主を捜して振り返った。ささめき合う声はぴたりと止み、耳が痛いほどの沈黙が降りる。

「田勢比古さまを悼む心は我らとて同じですぞ。しかし垂媛さま、お子を残すことも立派な長の務め。いずれはご決断いただかねばならないことです。我らはいったい、いつまで待てばよろしいのか」

 重苦しく回答を迫る田津比古の目には、ただの女に過ぎない垂を早く傀儡にしておきたいという思惑が燃えていた。

(だめね)

 自分が本当に欲しいもの、大切なものは、簡単に他人に見破られてはいけないのだ。

 本音を隠し数多の物売りと駆け引きをしてきた男とは思えないほど感情をあらわにした田津比古に、垂は弱った笑みを向けた。

「そう怖い顔をなさらないで、田津比古殿。わたくしは何も国久流殿を夫にするのが嫌だと言っているわけではないのよ」

 そう言うと、田津比古の表情がいくらか和らぐ。しかし依然として深い皺が彼の眉間に波打っており、垂にはそれを数えるほどの余裕があった。

「国久流殿とは幼い頃から互いをよく知る仲。誠実で、深い教養の持ち主であることは分かっています。わたくしが布瀬の水辺の長として歩んでいくなら、国久流殿が支えになってくれるほど心強いことはありません」

 田津比古ばかりか国久流の表情まで弛み始めるものだから、垂は内心おかしくて仕方がない。

 彼女は袖で隠した口許を冷たい笑みに歪ませ、次の言葉を放り投げる。安堵しかけた彼らを再び凍りつかせる言葉を。

「でもそれは、この布瀬の水辺を見渡しただけなら、の話」

 期待通り顔を引き攣らせた彼らを眺め、垂は居住まいを正した。

「それはいかなる意味でございましょうや?」

 睨みつけてくる田津比古に艶然と微笑み返し、垂は秘めごとを囁くように声を顰めた。

「水辺の外にも、わたくしの夫たり得る男はいるかも知れないということよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ