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第四章(四)

 その夜は社から降りず、媛ヶ崎の上に建てられた斎屋(いみや)で過ごすことになっていた。

 長いことまともな食事をとっていなかった垂のために、薄い粥が用意された。米の甘い香りがする湯気を吸い込むと、急にその味が恋しくなってくる。

 あまり食欲がなかったものの美味しく粥をすすり、垂はようやくいろいろなものから解放されたことを実感した。

 すると、身体を抜け出し、布瀬の水辺の大気の中を、潟湖や川や海の中を、自在に泳ぎ回っていた時の心地よさがよみがえってきた。

 むせかえるような水のにおいは感じなくなっていたが、神々と霊達がざわついているのは分かる。産毛をそよそよと撫でられているようなこそばゆさだ。

 垂は斎屋で一人になり、騒がしい海の唄に耳を傾けていた。

 垂が神殿の中で捧げた舞は二神を鼓舞し、神々の気が溶け込み交わった水は月へも届くかという勢いで天へ噴き上がったらしい。渦を巻きながら聳え立ち、轟音とともに砕けて消えた海流に、海の様子を見守っていた邑長達は言葉を失ったという。

 「あのような水柱が立つのは初めて見ました」と興奮気味に語る年嵩の巫女がいた。彼女は田勢比古の代からこの祭祀に携わる湖畔の邑の巫女で、垂のこともよく知る者だった。

 あの幼かった垂が、と彼女の目は語っていた。垂にどれほどの力があるか、本当のところは疑っていたのだろう。しかし、垂が皆に見せたものは田勢比古以上に強く深く神に通じることが出来る力。

 あの巫女のように垂を見直した湖畔の邑長達もいるだろうし、津守の一族から離れようとしている彼女に不満を持っていた海辺の邑長には、掌を返す者も多いだろう。

 氷の冷たさが消え垂の体温で温まった神器の勾玉を襟から取り出し、彼女はうっとりしながら胸の上でそれを撫でた。

 そうして待っていた。月が西へ向けて傾き、興奮していた人々が眠りにつくのを。それからやってくるであろう更のことを。

 随分長い時間、待っていたと思う。身体は疲れていたがどこか昂ったままで、眠くはないけど夢を見ているかのよう。

 やがて潮騒さえ静まっていった頃、斎屋の階がかすかに軋む音が聞こえた。

 手許にある手燭は油が尽きかけ、じりじりと音を立てて不安定に揺れている。扉を開く気配にさらに頼りなく揺らぎ、まるで口を噤むように火は消えてしまった。

 神々が眠り、海も静か。月だけが明るい。戸口に立つ更の首回りで琥珀が光って見える。

 灯火は消えてしまったが、斎屋の中には月明かりが射し込んでいたので互いの姿はよく見えた。少し強ばった表情の更に向かって、垂は婉然と微笑みかける。

「たった今、火が消えてしまっただけよ。中へ入って」

 いつものように従順に頷く更。そして彼は後ろ手に扉を閉め、足音を殺して垂の向かいまでやってきた。けれど腰を下ろした場所は、心なしかいつもより遠い。

「どうしたの」

 垂がくすりと笑うと、更はただ狼狽えて目を逸らした。

 誰かみたいな反応をする。おかしさと愛しさで口の端が自然と吊り上がった直後、垂はさっと背筋が冷たくなった。

 知らない、もう考えない。だって、欲しいものは今目の前にあるのだから。

 垂は胸の隅にある未練を振り切るように立ち上がった。驚く更に構わず歩み寄り彼の前に膝をついて、薄い色の髪に縁取られた端正な顔を捕まえる。

 更の頬はひんやりしていた。温めるように頬の両側からさすり、大きく瞬く松脂色の目を覗きこむ。

「返事をしにきてくれたのでしょう? わたくしの頼みごとの」

 明るい色の瞳はよく光を含んでいた。覆い被さるようにして彼を見つめる垂の影も映さないほど、まるで内から輝くように。

 初めて館に連れ帰ったときの儚さはもうない。消えてしまいそうな頼りなさも。

 先ほど、垂の魂は深く神々と解け合ったが、同時に更とも強く結びついた。だからだろうか、これまで感じることの出来なかった彼の意思を、垂がようやく見つけたのかも知れない。

「この布瀬の水辺に残って。わたくしの夫として」

 命じるような口調で垂は言った。

 これですべてそろう。垂が欲しいものは全部。そう思うと、余計に最後のひと(かけ)を満たさねばならない気がして。

 更の手がゆっくりと持ち上がる。いつかは触れるのをためらい逃げていった彼の手は、今、しっかりと垂の手首を掴んだ。

 かすかに汗ばんだ掌。更はしばらくじっと垂を見つめてくるだけだった。垂もじっと待った。掌ではなく、言葉で返される彼の気持ちを。

天宮(あめのみや)の〝五百枝(いおえ)〟ではなく、垂媛さまの〝更〟でよいのなら」

「……」

 思っていたのと少し違う答えに、垂は目を瞬かせる。

 〝更〟でよいのなら。不安げなその響きで、垂は気づいた。

 更は、己の知らない〝五百枝〟という名に居場所を奪われるのではないかと感じていたのだ。垂が欲するのは更ではなく、〝五百枝〟という天宮の長の弟ではないのかと。

 もちろん、更の中に天宮の長と分かち合った血が流れているのなら、それを手に入れられるに越したことはない。外つ国の血を迎え入れるのが垂の望みだ。

 だけど、違う。そうではなくて、垂の傍にいてくれたのがたまたま天宮の血を引くおのこで、それが更だったというだけの話。

 そして更が感じる漠然とした淋しさを、垂も知っていた。

 皆が見ていたのは〝垂〟ではなく、〝山津神の娘〟あるいは〝水辺の族長の妻〟。

 大切にされるのは同じでも、淋しい。

「わたくしが拾ったのは()()()()()〝更〟よ。お前が天宮の()(しき)さまの弟で巫子だというのは、あとからくっついてきた話でしょう。だからこそお前を傍に置けるのも嘘ではないけれど。お前は()()()()()〝更〟」

 かすかに目を瞠った更が、ほどくように頬の強ばりを緩めていくのが分かる。

 まっさらな〝更〟。なんのしがらみもなく垂を受け入れてくれた者。布瀬の水辺を手に入れるため、たくさんのものを切り捨てた垂にとってそれがどれほど心地よかったか。

「更、返事をちょうだい」

 傍にいると言って。

 夜は無音になり、二人はただ見つめ合った。

 更の答えは分かっているのに、何故か怖かった。早く聞きたかった。独りの時間から、早く逃れたかった。

「――垂媛さまが望んでいてくださる限り、お傍におります」

 耳に心地よい、やさしい囁き。こみ上げてくる感情にぎゅうっと胸が締め付けられる。息が詰まる苦しさに顔を歪めて笑い、垂は捕まえていた更の頭を胸に抱き寄せた。

「本当ね」

 涙でにじんだ視界をぎゅっと閉ざし、どうにか声を絞り出すと、かき抱いた更の首がもそりと動いて頷いてくれた。髪がおとがいに触れてくすぐったい。その幸福な感触に垂は目を閉じたままくすくすと笑う。

 すると、行き場なく垂の肩に添えられていた更の手が不意に動いた。遠慮がちに背中を這い降りたかと思うと、腰のあたりにたどり着いた途端、ぐっと力を込めて抱き寄せられる。

 膝立ちになっていた垂は簡単に平衡を失って更の方へとよろめいた。

「垂媛さまの夫になれるなら……こんなふうに触れることも、赦されますか」

 垂を見上げてくる更の目には、再び不安が蘇っていた。しかしその奥にくすぶるものの影も、垂は見つけた。

 海の中で交わっていた潟湖の媛神と海の男神。生命を生み出す春の婚礼。

 じかに触れてしまったあの熱を思い出す。

 更もあれを感じた? そうかも知れない。垂も夫を手伝うとき、海の中でうねりながら繰り広げられる命の営みの気配を感じていたから。

 松脂色の目に見上げられ力強い腕に捕らわれていることを思い知ると、()()()が大きな浪となって心を襲う。

 内側から叩かれるように、とくとくと胸が高鳴っていった。こうしているだけで息が上がりそうだった。

「ええ」

 頷く自分の声に、その先に起こることへの予感に、背筋が粟立つ。

 垂の背に遠慮がちに触れていた手で、更は垂の髪を梳いた。二度、三度と毛先を弄んだ長い指がうなじから忍び込んでくる。

 その大きな手に引き寄せられるまま、垂は迫ってきた更の唇を迎えた。

 そっと触れ合って、離れて、もう一度押しつけられた唇はなかなか離れていかない。

 その内に腰に回された腕の力が徐々に強くなり、垂は抗うことなく更の胸の中へ倒れ込む。



 静まったはずの潮騒がまた聞こえてきた。

 心地よい音で、垂の世界を覆った。

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