第四章(三)
垂は社の中に収められているものへ手を伸ばす。触れた途端、指先を雪解け水にさらしたような痺れが走った。神々の力が高まるとともにそれは氷のように冷たくなっていくのだ。
真水と潮水が混じる布瀬の水辺。神器はその姿を現している。
垂が両手でくるみながら更の前に差し出したのは、まろやかな白緑色の翡翠と一点の曇りもない水晶でできた勾玉だった。垂の掌より少し小さいくらいで、ずっしりと重い。
「どうして翡翠と水晶がくっついているのかは分からないの」
糸穴のある丸い部分は翡翠、鉤型に曲がった先は水晶。継ぎ目はまっすぐではなく、まるで溶けるように混じり合っていた。
「これはこの水辺の姿、潟湖と海の大神の姿。これを身につけることでわたくしたちもその交わりの中に受け入れられるわ」
太い絹紐が通されただけの勾玉に、更は恐る恐る手を伸ばす。白い指先がそっと石の継ぎ目に触れても、何も起こらなかった。大丈夫だ、更も拒まれてはいない。
垂は安堵しながら勾玉の絹紐を首にかける。そしてひんやりしたその石は上衣の中にしまい込んだ。
「この勾玉の存在を知っているのは、布瀬の水辺の中ではわたくしとお前だけ。皆は神器がどういう姿をしているのか知らないわ。族長とその跡を継ぐ者だけに知ることが赦されているの。言っている意味が、分かる?」
勾玉の重みがずしりと首に響いた。いつもは夫が持っていたので、垂が首にかけるのは初めてだったのだ。
ただの石の重みではない。今、こうして更と向き合っているということの重みもある。
神器の存在を、夫でも肉親でもない更に教えた。布瀬の水辺の未来を託したも同じだ。たった今、もし垂がこの場で死んだりしたら、跡を継げるのは更だということになったのだ。
垂は、思いのほか自分に族長としての自覚があることに気づいておかしくなった。倭文織とともに語った理想の国を造りたい。それが垂の望みだったが、垂は、沼がちで、真水と潮水のにおいが混じるこの地がただ好きなのだ。
山肌を染める桜の花や、海辺の民から贈られるいしる干しの味や、小さい頃に遊んだ砂浜、魚霊が跳ねる海、地霊が歩く湖。
それを守っていきたいと思う。そして更にはともに守って貰いたいと思う。また、垂に何かあった時は彼に守っていって貰いたいと。
そう考えた時に一抹の不安がよぎった。
更はこの水辺のことをどれだけ知っている? 垂の思いを分かってくれる?
面に出したつもりはなかった。けれど、まるで垂の心を読んだかのように、更が一歩の距離を埋めてきた。
風が鳴いている。その声が引き潮のように遠ざかる。
視界が柑子色の光でいっぱいになり、その光の熱さに垂は目眩を覚えた。
息を呑む垂の肩をぎゅうと抱きしめ、更が髪に鼻先を埋めてくる。
「……更?」
春の温もりが届かない隧道の中で、更の腕や身体の温もりははっきりしすぎている。それを感じ、どうしようもなく溢れてくるよろこびで気が変になりそうだった。
「お前はこれからも傍にいてくれると、信じているわ」
更に選ばせる、きっと懇願することはしまい。そう思っていたのに、強い腕の力の中で垂はぽつりと呟いていた。
頷き、ますます強く抱きすくめてくる更。すっぽりと彼の胸に収まってしまうと、まるで親鳥に温められている雛のような気分になった。
絹で大事に大事にくるまれるような安堵感に浸りながらも、垂はそれを与えてくれる更の腕をそっと抜け出した。
まだ。更の言葉を貰う前になすべきことがある。
「今夜、すべて終わったらこの間の返事を聞かせて。約束よ」
頷くことも忘れてじっと見つめてくる更を見上げ、垂は力強い笑みを浮かべた。
そして彼に背を向け、もと来た道をたどって神殿の中へと戻る。
更には月が昇る夕刻まで仮の屋形で控えているよう言いつけて一人になり、垂は祭壇と向き直った。
目を閉じて更の顔を思い浮かべる。倭文織や田津比古の顔も思い浮かべ、彼らの存在を意識の暗闇の中に押しやる。今はただ〝無〟に。
何もかも終わったあとにはすべてを手に入れられると思うと、自分の中で激しく渦を巻いている感情を棄てるのも怖くなかった。
そうしている内に、更に抱きしめられてわき上がった高揚感も徐々に薄れ、ただ遠くから聞こえる潮騒と風の音に心が漂いゆこうとした。
そんな時。
(……そうだわ)
不意に思い出したのは国久流が贈ってきた香木のことだった。
祭祀の時に焚こうと思っていたもの。神前に奉ったまますっかり忘れかけていた。
垂はふわふわした心地で立ち上がり、よろめきながら祭壇へ歩み寄った。もう、半分身体から抜け出しかけているらしい。
木箱から出され細かく砕かれて、絹を敷いた土師の器に盛られた香木。近づくと、濃密な水のにおいの中に異国の芳しい香りが一筋混じりこんできた。
巫女の霊力を高める香り。神の居所を清める香り。
これを焚いたら、垂はもっと深く神々と繋がれるはずだ。そして、彼女がこの布瀬の水辺の新しい主であることを知らしめられる。
これを贈ってきた国久流の手を突き放し、田津比古というくびきから逃れ、垂は自分の意志で歩けるようになる。
香木の香りを使うには熱した石を用意させて、ほんのひとつまみをその上に置くだけでいい。
水のにおいは異国の香りすら受け入れ、流れの中に溶かし込んで、垂も一緒にこの水辺と一つになれる。
香木の器に手を伸ばしていた垂だったが、彼女は突然手を引いた。
(ばかね。本当にばかなんだから)
お前が何もしないから、全部うまくいってしまうわよ。
垂はぐしゃりと顔を歪めて笑った。
その日、海は広げた一枚の布のように凪いだ。
潮は日頃より高く満ち、西の空に残った夕日の残り火を湛えて薄い紫色に染まっている。
風も止み、ぞっとするほどの静寂が人々の口を噤ませる。
やがて銅鏡のようにまるく大きな月が昇り始めると、布瀬の水辺には静かな興奮が満ちていった。それは祭祀の夜を見守る人々の心の中だけでなく、地上の草木の間から、または川の流れの小さなささめきから湧き出してくる。
月光が紫の布につくる白い路。神殿の中にいるはずの垂にはそれが見えていた。海と、月と、聳える媛ヶ崎の頂上にある社を見守る者達の姿も。
自分がどこにいて何を見ているのか、考えようとも思わない。
垂は今やこの布瀬の水辺そのものだ。
巫女たちが唱える朗々とした祝詞の声を肩巾に変えて肩に巻きつけ、何かを目指すともなく宙を漂う。肩巾を振って地霊や魚霊を揺すり、もっともっと彼らの力を高めていく。
戻れなくなりそう。ちらりとそんな気持ちになった。
何せこうして漂っているのはひどく心地よく、皮膚が溶けて形がなくなってもいいような気さえするのだ。
あたたかい水の流れが運んでくれるままに漂う垂を、時折何かが引っ張った。そのたびにはっとして、垂は媛ヶ崎の上にある社を振り返ることが出来た。
――更。
社から垂のところまで、細い細い光の糸が繋がっていた。もとは柑子色のはずであるその糸は金色に明滅している。更の力も高まっているのだろう。
今日は身体を抜け出さず、ただわたくしの帰り道を守っていて。垂が願った通り、更は一心に垂の魂だけを追い続けてくれている。
垂が我を忘れかける度、叱るように呼んでくれる気配にほっとしながら、彼女は凪いだ海の上に広がる月の路を見つめた。
生き物が死に絶え、長く眠った末に再び目覚める春。別れ別れになっていた潟湖の主と海の主が一つになる春。
湖に棲む水神は女で、海に棲む海神は男であるそうだ。静かに澱んで眠る媛神が傍を離れる冬の間、海神は寂しさで荒れ狂う。そして風がぬるみ雪が溶け、大地から染み出す清らかな水に運ばれて媛神が逢いに来ると、男神は海の宮に籠もって媛神を迎え、海の底で二人はまぐわう。
重なった二つの流れは温かかった。
媛神と男神が求め合っている。人の男女が寝床で交わすものとなんら変わりない、心と身体が満たされるぬくもりと血を熱する興奮。
心地よかったそんなあたたかさはやがて灼熱に変わり、垂は堪えきれずに広大な潟湖の真ん中へ飛び込んだ。
ぼこぼこと弾ける泡。ぼんやりと緑色に光る水。月光が射し込む湖は清らかで冷たかったが、それでも身体にまとわりつく熱は消えてくれない。
熱と、流れ込んでくる二神の感情に責め立てられ、垂は見えない何かから必死で逃げ回る。
夫が見ていたのはこんな世界だったのだろうか。帰り道を守っていた垂にはちっとも分からなかった。彼はどうしていたのだろう。もう、本当に溶けてしまいそう。
自分のものではない衝動に叫びだしそうな垂の袖を、つん、と引っ張るものがあった。
ああ、更。
もうそちらへ戻ってもいい?
垂の心の声に応えるように、また、つんと引っ張られる。
海へ。雪解け水と一緒に。
更の声ではなかった。自分の中に湧きあがってきた思いか、あるいは惑う垂を見かねた媛神の声か。
雪解け水と一緒に。水門川を緑色に染め、海の命にも恵みをもたらすその水と一緒に。
垂は熱を振り切るように川の流れに乗って海へと下る。
だんだんと潮の香りが強くなり、水は緑から深い青へと変わり、ふと下を見下ろせば足許には深海へ向かって下る崖のような海底が見えた。
潟湖から一直線に流れていた水の流れは、突如複雑に入り乱れた。凪いでいても海の中には様々な潮流があるのだ。浅い潮流は舟を運ぶし、深い潮流は海水をかき混ぜ命を育む。
そんな流れの中に、女の肩に巻き付く肩巾のようなものが見えた。蜻蛉の羽のように透けていて、虹色に光っていて。肩巾は風に舞うようにひらひら揺れて、消えたり現れたりを繰り返す。
潟湖の主の肩巾だろうか。やがてそれはひときわ太い潮の流れに呑み込まれて見えなくなり、直後、海全体が震えた。
歓喜の叫び声。
甲高い女の声が、言葉にならない音が、潮流の間から月が映る海面へ向けて、海を切り裂くように放たれる。
ざぁん……と、遠くから響いてきた浪音で垂は我に返った。
足許が崩れるかのような目眩を感じ、垂は振り上げていた小笹葉を取り落とした。
肩で息をしながら目の前にある二つの鏡に映った己の顔を見る。
ここは……そうか、岬の上の社。
四肢につけた土鈴がちりりと鳴る。身体が震えていた。
「垂媛さま……」
傍に控えていた更が恐る恐る声をかけてくる。振り返ると、突然舞うのをやめた垂を驚愕の目で見つめている巫女達の姿もあった。彼女らも祝詞を唱えることを忘れている。
暗い神殿の中にまで聞こえてくる潮騒。そして十数の足音がそろって神殿へ向かってくる気配。
終わったのか。
鉛のような疲労感がこみ上げてくるばかりで実感がわかない。けれど祭祀が始まる前の、まるで水の中で過ごしているような感覚は消えた。
神々と繋がり、水神を海神に妻合せるという役目が終わったのだ。胸にかかる勾玉もずっしりと重い石の塊になっていた。
やがて神殿の外に控えていた巫女が静かに扉を開く。皓々とした満月の明かりで神殿の外は真っ白だ。薄闇の中で舞っていた垂の目は眩み、一瞬すべてを見失った。
そうして目をつむった彼女の耳に、神殿の前にそろっていた者達が一斉に平伏す音が聞こえた。
垂はふらつきそうであることを悟られないよう、ゆっくりとした足取りで階の前に姿を現した。
さっきまで凪いでいた海からざあざあと浪の音が聞こえる。ふと首を巡らせば、岬の上に繁る木々の合間から、銀色に光りながらざわめいている海が見えた。
風はない。鳴いているのは海だけ。はしゃぎ回る魚霊たちが立てる浪音だけが聞こえる。
神殿の前に平伏しているのは、布瀬の水辺の邑をそれぞれに治める長たちだった。
誰も言葉を発しなかった。漂っていたのは畏怖の念。それは、かつて皆が田勢比古に向けていたものだった。
長く水辺の主であった彼と同等のものを、長たちは垂の中に認めたのだ。
何か言葉を。そう思ったが……己の中にある何もかもを儀式につぎ込んでしまっていたのでまったく声が出ない。
語らないのもありかしら。このまま姿を隠した方が、邑長たちの畏敬の念を煽れるのでは。
そう思うと少しだけ余裕が戻ってきて、自然と口許に笑みが浮かんだ。
そして、垂が無言で踵を返そうとした時、邑長たちの最前列に平伏していた田津比古がわずかに顔を上げる。
うつむき加減で、翳っていて、その表情はよく見えない。けれど、まだどこかを漂っているようだった垂の意識を目覚めさせるには充分だった。
(わたしの勝ちね)
田津比古が表だって垂に意見することは、きっともうない。彼ら海辺の民は神によって生かされている。これからは神と繋がれる垂に生かされる。
もう一人、田津比古の後ろで顔を上げる女がいた。倭文織だ。彼女は満面の笑みだった。我が子を褒める母親のように目を細め、再び顔を伏せた。
手に入ったのだ。
この布瀬の水辺が。垂の国が。




