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第三章(二)

 海辺の族長の館にある祭殿は、潟湖の主である水神が海神の許へ渡御するために足を休める御旅所(おたびしょ)だった。

 垂が先に館へ入り、神を迎える用意をしたあと、水神は湖畔の邑長たちの手によって湖上の祭殿から舟に乗せられここへ遷された。

 神を迎えた祭殿の中はひんやりと引き締まった気配に満ちていて、新しい榊の枝の青いにおいも漂っている。

 常にはない清浄さをたたえたそこへ連れだって入り、まずは垂が神前にひれ伏す。静かに空気が震えるのを、更は黙って感じている。

「地霊や魚霊の姿を見るというのは、意図せずして彼らの魂に触れているということよ。きっともっと強く触れることが……お前から彼らに向けて手を伸ばすことが出来るはずだわ」

「手を伸ばす……」

「わたくしがお前にしたことのあるように」

 垂は歌を口ずさむように言って目を閉じた。

 水の神がそばにいるだけで祭殿の中は清められている。その清冽な水のにおいが漂う何もない宙へ向けて、垂はそろりと浮き上がった。

 いつもより軽い勢いで身体を抜け出し、垂は向き合って座っていた更の頬を両手で包み込んだ。

 更の視線は()()()()()垂の姿を目で追っている。やわらかい(こう)()色の光に包まれながら。

 垂は更を見つめたまま、そっとその光を己の胸に抱き寄せる。更の身体も、魂も、怯えるように微かに震えた。

「大丈夫よ、いらっしゃい」

 ふるり。

 濡れた葉から一粒の雫が滴るような手応えとともに、垂の腕の中に一抱えもある柑子色の玉が現れた。

「お前にはきれいな色の目があるわ。手も足もあるわ。その姿でどこへ行くことも出来るのよ」

 揺らぐ光の玉を宙へ放しながら、垂は語りかける。そしてそこには見えない更の肩や腕を指でなぞっていくと、柑子色の光はぼんやりと薄れて形を変えていった。

 やがて薄い靄が漂う祭殿の中に、白い衣をまとった若者の姿が浮かび上がる。

「更、お前の姿を覚えて。そして一緒に来て」

 先ほどと同じように彼の頬を両手で包む。眠たげに閉じられていた瞼が持ち上がると、目に馴染んだ松脂の色が現れる。

 垂は微笑むと、頷く更の手を引き、真水と潮水が混じる広大な潟湖へ向けて静かに飛び立った。


     * * *


 月が満ち、潮が満ちるその夜こそ、水神と海神を一所で祀る春の祭祀の日である。

 布瀬の水辺の族長は、田畑への恵みの雨、商い舟を連れてくる速くも穏やかな潮の流れを神々に請う。

 そして丁重に神を慰撫し、水によるあらゆる災いをもたらさぬように願うのだ。

 陸の上で暮らす民にとっても大切な祀りではあったが、海にまつわる祭祀としての性格が強かった。

 というのも、布瀬の水辺は東西からやってくる商いの舟が必ず通過する海を支配しており、その海に豊かさを育まれた天宮、二野にとっては、水辺の海神が統べる航路の安全こそが重要である。海神への供えものを持った使者を寄越してくる二国のために、祭祀を行う場所も媛ヶ崎の上にしつらえられた社となった。

 二国の使者をもてなしているのは、津守の一族の長、田津比古だ。

 垂がようやく許したので、彼は国久流と使者たちを連れて垂の館を訪れた。

「お隠れになった田勢比古さまのことは惜しゅう思われますが、跡をお継ぎになったのが垂媛さまと聞き及び安堵いたしております。山津神(やまつかみ)の娘と名高い垂媛さまならば、きっと水辺の神々の神威を存分に引き立ててくださるはず。二野の族長、狭輪比古(さわひこ)さまよりの祝いの品、どうぞお納めください」

 薄衣越しに壮年の男が頭をたれ、侍婢が何かを運んでくる影だけが見えた。

 薄衣をわずかに持ち上げて垂の御座所に差し入れられたのは、金と青い玻璃で出来た耳飾りや首飾り。女の垂が身につけて似合うよう、線の細い意匠だ。

「見事な品です。狭輪比古殿のお心遣いに感謝すると伝えてちょうだい。布瀬の水辺は、今後も狭輪比古殿が統べる二野への変わりない友誼を約束するわ。その証に、わたくしからも狭輪比古殿へ贈りものを」

 侍婢に用意してあった品を運ばせると、受け取った使いの男は「おお」と感嘆の声を上げた。

(から)渡りの大刀(たち)よ。同じものを三十、差し上げるわ」

 二野の使者は紫色の絹の上に横たえられた飾り気のない大刀を手に取り、中の抜き身を少しだけ引き出した。

 刃が光るのが見える。そして続くうっとりとした響きの溜め息に、垂は満足した。

「なんと美しい。氷のような輝きでございますな。貴重な韓の練り鉄の大刀を三十もいただけるとは」

「狭輪比古殿のお気に召すものでしょう」

 大刀を鞘に戻す使者は、薄絹越しにちらりと垂を見てきた。とはいえ垂が座る場所は薄暗い。あちらから表情は見えないはずだが、二人の間では確かに通い合うものがあった。

 内陸の平野を統べる二野は、二上川を通して布瀬の水辺が擁する海と繋がり、西へ向けては陸路の峠を越えて半島の外海へと繋がる交易路を持っている。海を伝ってきた品を平野が産する穀物と換え、それをまた東西それぞれの海へ流すことで栄えてきた。

 ところが、田勢比古の時代に布瀬の水辺の力は増し、今では二上川の河口までの制海権を握っている。交易路の片方を水辺に抑えられた二野が、水辺におもねるようになってきたのは当然のこと。

 そして族長の代替わりを期に力関係を逆転されないように、垂は彼らに鉄剣を贈ることにした。

 韓渡りの鉄器は西国からも流れてくるが、その鉄の道にはすでに支配者があった。河内君(かわちのきみ)と呼ばれる西の大国の王だ。

 彼の支配下に降ることで鉄は得られる。しかしそれとは別に、東の海を越えて大陸と行き来する航路も存在した。

 布瀬の水辺が手に入れる多くの鉄は、東の海からやってくる舟と取り引きしたものだ。水辺が二上川の河口を抑えているために、その商い舟は二野へたどり着くことがない。

 財さえあれば得られる東路からの鉄。それをこれまで以上に供給するという垂の意思を、使者は二野の族長に届けてくれるだろう。二上川の先にある海を譲る気はないという隠れた言葉とともに。

「練り鉄の大刀とは、垂媛さまの気前のよいこと。他国へそれほど()()()()ことが出来るのですから、水辺の御倉にはさぞ多くの大刀や(よろい)が納められておるのでしょうなあ」

 大刀を絹でくるむ二野の使者の隣で笑ったのは、天宮の使者だった。

「何を……」

「おお、これは無礼なことを申した。あくまで垂媛さまを称えようと思うただけのこと。決して二野を貶めるつもりは」

 気色ばむ二野の使者に、大げさな手振りで詫びる男に悪びれた様子はない。

 本当に他意がないのか、形だけの謝辞なのか。少なくとも二野の使者は後者であると思ったらしい。

 大切に包みかけていた大刀をドンと床に置き、怒りで顔を赤らめていく。

「わたくしは狭輪比古殿や二野のことを臣下と思ったことはないわ。その大刀は友に贈るもの。使者殿、どうかただの言葉の綾として怒りを鎮めてちょうだい」

 使者が喚くすんでのところで、垂は薄衣越しにそう囁いた。哀願するような可愛いらしい声色に怯み、にたにたと笑い続ける天宮の使者の隣で彼は小さくなる。

 こんなところで口論を始められるなど、興ざめもいいところだ。黙ってくれた男を冷たい目で見やり、垂はわざと二野の使者を怒らせようとした天宮の使者へ視線を移した。

「買ってくれるというなら、天宮へも鉄を譲るわ」

 天宮の使者は、冬眠から目覚めたばかりの熊のような男だった。図体は縦にでかいが痩せている。頬がこけた顔つきもなんだか情けないのに、それに見合わぬ態度の大きさ。

 機嫌よさそうにあご髭をしごいているが、先ほどから一度も垂に頭をたれていなかった。

 半島の西側の付け根を抉る巨大な潟と、東側にある袋のように口の狭い穏やかな湾。二つの海を有する天宮は、布瀬の水辺と同じように舟を通じた商いで栄えてきた。

 作物を育てられる土地が少ない沼がちな国であるというところも水辺と似ており、西国からの舟を()()()()()()()というやり方も同じ。河内君と接触しているらしいとの噂もある。

 付き合い方に悩む相手だった。こうしてあからさまに対等以上の態度をとられていることも含め。

 垂の冷めた視線も知らず、彼は膝を叩いて喜ぶ。

「おお、ありがたいことです! 西国から流れてくる鉄は、西国の匠人(たくみ)が作ったものも多い。しかしながら、やはり韓の匠人がこしらえた大刀や武具のほうが(つよ)いのです。先頃、我らも東へ向けて大陸を目指す舟を放ったところですが、果たしてうまく戻るかどうか分からぬものでもございますれば。垂媛さまとよしみを通じ、これからも布瀬の水辺と天宮がよき友であることは、我らの族長の願うところでしょう」

 族長の言葉を預かってきたわけでもない使者から〝友〟と呼ばわれるとは。垂は不快感も削がれて呆れ、溜め息をついた。

 しかし彼が言った言葉の一片を遅れて理解し、目を瞠った。

「東へ向けて舟を出した?」

 垂が訊ねるより早く、使者たちの傍に控えていた田津比古が声を上げる。日焼けした眉間には深い縦じわが寄り、天宮の使者の横顔を睨んだ。

「どの海を通って東へ向かわれた」

「無論、この有磯(ありいそ)の海を」

「そのような申し入れは受けておりませんぞ」

 やはり使者の態度に悪びれはない。しかしこれは見過ごせなかった。

 垂も田津比古同様に顔をしかめ、すかさず使者を怒鳴る津守の長の言葉に頷いた。

 神なる連邦に抱かれた巨大な弓形の湾。有磯とも呼ばれるその湾を支配しているのが布瀬(ふせ)の水辺だ。水辺の族長、またはその代理を務める田津比古に申し入れをし、貢ぎものを納めた舟にのみ、休息をとるため津に立ち寄ることを許していた。

 舟が一日に進める距離には限りがある。仮に日の出とともに天宮の湾を出立した舟があった場合、夕刻にはこの水門川のほとりへ立ち寄り、水辺の支配域を出る前にもう一度どこかの津へ立ち寄らねば夜を越せないはずなのだが。

 天宮が遣わしたという舟は、(もがり)を行っていた垂の代理である田津比古の許へ来ていないらしい。つまり、天宮の舟は黙ってどこかの邑へ寄港し、水辺が支配する海域を素知らぬ顔で越えていったということだ。

「我らの海を無断で渡ったとは。それで〝友〟とは虫のいい話だわ」

 田津比古に続けて垂は唸った。

 もしや田勢比古の死の合間を狙われたのだろうか。自分が殯に入っている間、布瀬の水辺の族長は不在といってよかった。海神を祀る祭祀も途切れている。海の変事を知り得る者はいなかった。

 垂と田津比古の推察が事実なら、天宮の無礼は放っておけない。この使者は縛り上げて、大刀を持たせた弾劾の使者をこちらから立てるところだ。

 ところが、一変して物々しくなったその場の空気に気がつき、天宮の使者は狼狽えた。

「まさか! 風が乱れる春の海ですぞ。水辺の海神にお守りいただかねば二度と陸へ帰れますまい。常の通り、族長にお納めする機物(はたもの)を携えて使者が参ったはず!」

「天宮の使者があれば田津比古殿がもてなさぬはずがないし、わたくしに知らせないということもあるはずがないわ」

「そうはおっしゃられましても、水辺の方々を欺きこの海を渡ろうなどというたくらみは、我らにはございません」

「では、舟はどこへ行ったの。天宮からここへは、一日あればたどり着けるのよ」

 舟は布瀬の水辺に着いていないということか。それが指し示す事実に、その場はしんと静まりかえった。

「寄り回り波にやられたのやも」

 呟くように言ったのは、田津比古の隣にじっと控えていた国久流だった。皆が白い顔で彼の方を見る。

 海の穏やかな日に突如押し寄せる高波を〝寄り回り波〟という。

 水辺が面する弓形の湾で、秋の終わりから春先にかけて起こる。古い時代から何度も海辺の邑を襲い、沿岸に出ていた舟を沈めてきた高波だった。

 人々はこの高波を海神が起こす魔の波として恐れていた。

 静かな海へ漕ぎ出したつもりがこれに出くわしてしまい、そのまま海の底へと沈む外つ国の舟は少なくない。

「ああ、垂媛さまが殯の宮へお籠もりの間に起こったあれか。ここらは媛ヶ崎の岩垣や岩礁が充分に防いでくれたほどの小さなものだったが、下手に沿岸を進んでいれば転覆させられることはあり得るであろう」

 再び沈黙が訪れた正殿の中に、ぴりぴりとした稲妻が走ったような気がして、垂は唇を噛んだ。

(わたしが殯をしている間に……)

 荒れる海を鎮め、舟を守るための祭祀を行うのが族長の役目である。しかし、田勢比古を弔っていた垂にそんな余力はあろうはずがない。

 族長が不在である隙をついたのは、天宮ではなく海神の方。そして殯の最中であったとはいえ、垂が祭祀を途絶えさせていたのも事実。

 まして田勢比古を殺したのが垂であると知られたら――。

 額に冷たい汗が滲んだ。薄絹に阻まれ垂の動揺は使者たちに伝わらないが、垂を疑う田津比古と国久流はどんな顔をしているだろう。

 田勢比古を殺したのが垂だと知られたら、水辺だけの騒ぎでは収まらない――なるほど、国久流が言っていた通りだ。

 垂はごくりと唾を呑んだ。その音を聞かれてしまいそうな気がして心臓が跳ね上がる。

 けれど何も知らない天宮の使者は、肩を落としながらこう言った。

「いや、舟が天宮を発ったのは先の朔月の朝、ひと月ほど前でございます。数日続いた時化(しけ)があけたとはいえまだ浪があり、しかし出立の日取りは今日をおいてほかにないと巫女がおっしゃるで、舟は天宮を発ちました。寄り回り波ではなく、風に弄ばれたと考える方が正しいやも……」

「……朔月の朝?」

 垂ははっと口を噤んだが、もう遅かった。思わず口にしてしまった疑問を引っ込めることは出来ない。

「……ならば、やはり舟は沈んだと思われる」

 田津比古も気づいたのだろう。垂が考えるのと同じことを、けれど言わずに済ませたいと思ったことを、彼は淡々と口にした。

「媛ヶ崎のあたりへ流れ着いた者がおりまする……己のことを何も覚えておらぬゆえ、どこへも帰すことが出来ずにいたのです」

 やめて、黙って。

 そう怒鳴りたいのを理性でじっと抑え、垂は田津比古の横顔を睨めつけた。

 しかし彼の表情が苦々しく歪んでいることに気づいた。その隣に並ぶ国久流の顔も。

 彼らの表情を見て、垂は彼らに向かってなんと言ったのかを思い出す。

「なんと、まことか! どのような者でしょう。ぜひ、顔を見せていただきたい」

 不安と期待に目を潤ませた天宮の使者が身を乗り出す。

 水辺の族長と津守の父子は、それぞれに複雑な顔をしてなかなか頷こうとしなかった。

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